毒親に育てられた全ての毒子に捧げる生存戦略
毒親という残念な生き方(一~七)
一
友人らしい友人が一人もいない私の父は、ここ十年ほど家に引きこもっています。朝の日課といえば、フライパンで目玉焼きと作ることとオーブントースターで鮭の塩焼きを焼くことぐらいで、食事が終わるとパソコンの前に張り付き、午前中はひたすらしょうもないゲームをします。
目玉焼きの黄身の焼き加減はいつも同じです。もう何十年も前の話になります。父はそのころ建設会社のサラリーマンでした。そして父は決まって、目玉焼きの黄身の焼き加減をカチカチ一辺倒にこだわる頑固者でして、母の焼いた目玉焼きの黄身が少しでも柔らかかったり、生であったりすると食べるのを拒否していました。ところが今は、なぜか黄身が半熟か生の焼き加減でして、先日、気になりその理由を父に尋ねると、無言でした。おそらく、年のせいで昔の黄身へのカチカチ愛を忘れ去ってしまい、自分の手で黄身が半熟の目玉焼きを偶然作ってしまったところ、これがカチカチよりもおいしかったので、それ以来、ずっと同じ焼き方を続けているのでしょう。繰り返しますが、父は、こういう目玉焼きを一年間三百六十五日、ひたすら作って食べ続けます。
オーブントースターで焼く鮭の塩焼きも曲者で、焼き方、例えば、鮭の身と皮を切り離してオーブントースターに置き、毎日同じ焼き時間(焼き加減)で鮭を焼きます。どこでこのような焼き方を覚えたのかわかりません。未だに鮭の身と皮を切り離そうとする理由がわかりません。いや、理由を聞いてもまた無言だと確信しているので、聞きません。
父の朝のもう一つの儀式は、トイレでウンコをすることです。朝方、父の発する言葉といえば「ウンコ」か「卵」か「鮭」の三語のみです。父の語彙力は著しく低いと思われます。でもこれが不思議なことに、この三語でもって、父と母の間には、会話が成立しています。父が「ウンコ」といえば、母は、下剤の効果を確認できるだけではなく、毎日のウ・ン・コの微妙な言葉の抑揚やニュアンスを母は聞き分けるようで、今朝のウンコは大きいとか、カチカチとかを容易に想像できてしまうようです。ちなみに、毎日、鮭の塩焼きと目玉焼きを焼くのは父の仕事、ご飯を炊くのは母の仕事と決まっています。
ここで父と母のたわいない朝の会話を一つ挙げてみましょう。
「卵のあとはウンコ」
「今日はよく出ますかね?」
「ウンコ、ウンコ、ウンコ」
「頑張ってください」
「鮭はどこや?」
二
朝の食卓に並ぶ目玉焼きと鮭の塩焼き、ご飯。それに加えて、市販のモズク酢や漬物なども食卓を彩ります。父は一年中、三百六十五日、モズク酢も食べ続けますので、食品メーカーが作ったモズク酢の変化に非常に敏感です。
「この(プラスチックパックに入った)モズク酢、モズクの量が減って、お酢の量が増えたんとちゃうか?詐欺やろ?」
「モズクは食物繊維が豊富やから、食べたらウンコがよく出る!」
父は、食べ物に箸をつける順をおそらく無意識のうちに決めていて、まずモズク酢を口に吸いこんだかと思うと、次にご飯を食べて、さらに目玉焼きを食べるというふうに、一定のパターンを持っています。年老いてボケるとは、ロボットみたいになることなのでしょうか。
基本的に、父は食事以外に生きる楽しみがないようです。
また、身内の恥をさらすようなものですが、この父は食事をするときに絶対にテレビをつけます。行儀が悪いです。しかしながら、食事中にテレビをつけるのは、父と母との暗黙の了解であり、普段、ウンコ以外にほとんど話すネタがない老夫婦にとって、食事中の沈黙はつきものですが、どうやらこの二人は、その沈黙に耐えられないようなのです。沈黙の救世主はテレビというわけです。
コロナウィルスの感染拡大やら、一人十万円の現金給付やら、テレビからいろいろな情報が入ってきます。
父はモズク酢を口に吸いこみながら、
「コロナウィルス、ワシに移すなよ。モズクを食べたら、ウンコ、いっぱい出るかな」ときて
「モズクを食べたら、ウンコ、漏れるかな。コロナウィルス、ワシに移すなよ」とくる。
父は耳が遠いので、母がニュースを見て「コロナウィルス・・・」云々と話を切り出した時に、父が「トヨタのコロナに乗って、ドライバーがマスクを付けても、現金十万円はもらえへんで!」とモズク酢を一気に口に吸いこみながら、目をギラつかせている様子には、正直なところ、私も母も閉口してしまいました。
三
テレビからの情報をもとに父は「そやから・・・」と続けて自分の意見らしいことを言いますが、その「そやから」の根拠が何に基づいているのか、私には全く分かりません。根拠なき自信とでも言いましょうか。おそらく、父の頭の中に根拠らしきものは何一つ入っていませんが、自身の体面を保つためなのか、やたら「そやから」と言い張ります。
例えば、こんな感じです。
テレビのニュースで新型コロナウィルスの感染が拡大していると聞けば、
「そやから、若い連中が外でコロナウィルスを感染させているんや!」
また、一人当たり現金十万円給付の話をテレビで聞いては
「そやから、わしは家におっても十万円もらえる」となります。
これらは考えた部類に入るのでしょうか。私にはわかりません。世間の一般的な家庭がどのようなものか知りませんが、私は生まれてこの方(三十年以上も)、父が本を読んだところを一度も見たことがありません。いや、実際の問題として、実家には父が読んだ本が一冊もありません。毎日、新聞(朝刊)を取っていますが、父が新聞でやることといえば、新聞に記載されているクイズを解くのみです。
人は学ぶことを放棄すると、マスメディアからの情報を鵜呑みにして、大げさに語り出すのでしょうか。ちなみに父はホラ吹きでもあります。ホラ吹き爺さんです。そのホラがあまりにもひどい時は、さすがに私も聞き苦しいので、私の方で無理やり話題を変えたり、ホラ話を止めたりしますが、手っ取り早い方法は、「そやから」の根拠を尋ねればよいのです。そうすれば、ホラ吹きは黙りこくります。
私は父を反面教師として学んできましたので、恐ろしいほどの読書家になりました。父は勉強しませんが、私は自分で学費を払ってまで、大学院にも行きました。最近また、大学院で学びたいという思いがふつふつと沸き起こっています。
サラリーマンとして働きながら、大学院で博士号を取得したいです。
四
食と健康の観点からいうと、父は破綻しています。ここ数年、父の体重は増加の一途をたどっていますが、体重が極端に増え始めると、父は減量対策として、主に二つの方法を試します。
第一に、食べる量を減らします。つまり、ご飯の食べる量を減らして、目玉焼きと鮭の塩焼きはいつものように食べるとか、モズク酢だけを必要十分以上に口に吸引してむせるとかです。
第二に、風呂に入る時間を長くします。しかしながら、こちらは減量効果の化学的な根拠に乏しいでしょう。つまり、父は長風呂して入浴中に大量に汗をかきます。そして風呂から上がって、体重計に乗ると数百グラム体重が減っている。これは長湯によって体の水分量が極端に減ったからであり、また水分を補給することで元の体重に戻りますが、私が何回もそのことを説明しても、父は理解できないようです。
前者の食べる量を減らすことは有効な減量対策になりますが、スポーツ科学の観点から、減量についても、食事と運動、睡眠の適切な組み合わせを考えるべきであり、私は食事制限のみの減量を推奨しません。
先日なんかも
「家に引きこもってウンコするだけなら、外でグランドゴルフでもやったら?」
「アホか!あんな爺くさいスポーツできるか!」の一点張りでした。
父のように家に引きこもって、ウンコとパソコンばっかりやっているクソ爺の方が、よっぽど不健康で爺くさく見えるのは、私だけでしょうか。
もしかすると、父の言う「若々しさ」とやらが、世間一般のそれとズレいるのかも知れません。そういえば、先日、母から父が外出中に脱糞しそうになり、そこら辺の茂みで野糞したと聞きました。無鉄砲な私でも、さすがに野糞するのは相当な勇気と覚悟がいります。
家に引きこもり、外で脱糞する父。外で野糞することが、父にとっての若々しさの秘訣なのでしょうか。私はやはり、屋外でのスポーツを推奨します。
また父は、野糞のことを「不法投棄」という隠語で表現します。唯一無二の変人です。
ちなみに、不健康に太って腹がポッコリと出ている父を、私は「カエル男爵」と呼びます。母もこのネーミングに概ね賛成のようです。
五
人間は変なプライドを捨てるだけで、自由の羽を伸ばして、活き活きとした生活を営むことができます。
ところが、父は変なプライドを持っています。例えば、最近、母から父の姉、つまり私の叔母が詐欺師の被害に遭い、電話で詐欺師が指定する銀行口座に六百万円を振り込んでしまい、結局、その六百万円が戻ってこなかったと聞きました。父は、家族のようなごくごく親しい間柄でさえ、身内の恥を絶対に口外しない人間です。こういう本当に有事の時こそ、みんなで知恵を絞り、今後の対策などを検討したいですが、そうはいきません。ちなみに、叔母は最近になって旦那さんと別居してしまったようで、この振込詐欺事件の影響もあったと思われます。単に熟年離婚ブームの波に乗ったわけではありません。
父は、加速度的に老化しつつあるようです。精神・肉体の両面においてです。父を反面教師として生きてきた私がここから導き出される教訓を述べてみましょう。
それは、人間は変化に挑戦し続ける限り、歳をとらない。衰えない。精神的にも肉体的にも若々しい。人間は変化を止めるとき、老い始める。そして、人間は変化を恐れて同じ場所に立ち止まるとき、急速に老いていく。
父は、この変化の最終ステージにずっと佇んでいます。本人が気づくことなく、ただただ佇んでいるのです。
こうして私は変化と挑戦をよしとする人間に育ちました。私のキャリアをサラッと振り返ってみると、サラリーマンをしていたかと思うと、NPO法人で地域コミュニティ活動に参加したり、さらにはビジネススクールで勉強したり。はたまた、フィリピンで海外ボランティアに従事したり、国際NGOのプロジェクトでネパールやアフリカのマラウイ、ウガンダに駐在したり、などなど。新型コロナウィルスの感染拡大が収まったら、今度は私たちのNPO法人がラオスに立ち上げた現地事務所を視察します。
(まあ、今はまだ毒親の現状分析の段階ですので、毒子のこれまでの生活やこれからの生き方や働き方については、章を改めて書きますね)
六
父の話ばかりをしてきましたが、ここで母の話に移したいと思います。
母は、父と同じく友人らしい友人が一人もいない人間です。いや、正確に言えば、月に何度が訪れる宗教施設に母のよき理解者がいるようです。
オオカミはオオカミと群れる。孤独な人たちにも類友の法則が働くのでしょうか。
遠い昔、もう少し正確に言いますと、私の小学生の頃の話です。今ではほとんど覚えていませんが、小学生の時に、私と弟は母に某宗教施設に連れていかれて、その宗教団体の信者にさせられました。母は非常にもろい人間であり、他人の言うことを簡単に信じます。小学生の時に、家にやってきたある女性がその宗教施設の信者であり(その宗教団体の幹部だったのでしょうか)、母はその女性信者に説き伏せられて信者となりました。そして、なぜか私たち兄弟も信者にさせられました。
この信仰問題の後日談として面白いのは、その母を勧誘した女性信者はとっくに信仰を捨て去り、宗教施設を離れましたが、母はその宗教施設に残ったことです。
母の浄礼なるまじないを聞くと
「アマテラスオオミカミ・・・」云々と言っていますので、おそらく神道の一派と思われます。母は毎朝一回、その浄礼なるまじないを家にある仏壇に向かって行います。この信仰生活を三十年近く続けています。もはや立派な宗教家です。
先日、母にこんな質問をしました。
「死んだら、墓はどうする?」
「遺体を焼いて灰にして、遺灰を土葬してちょうだい」
「海に散骨したらどう?」
「いや、土葬にしてちょうだい」
「なんで?」
「遺灰を土に返すから」
「海に遺灰を撒いても、自然に帰ると思うけどな」
「あかん、土葬にして。海に私の遺灰を撒いたら、あんたを悪霊になって祟ってやる」
母に理屈などというものはないのです。母にとって、宗教施設に鎮座する教祖から学んだ知識や情報が全ての真理となります。
毒親の生活環境と思想。少しずつではありますが、毒親とは一体何なのか、実例を通して見えてきました。ちなみに、父はその宗教とは全く無関係であり、基本的には家でウンコとパソコンばかりやっています。
もちろん、私と弟も幼い時に信者となったとはいえ、その宗教とは無縁に近いぐらい疎遠です。私に至っては、父と同じく、母も反面教師として学び、無神論者の境地に至りました。母は来たる来世が天国だと信じますが、私にとっては、現世が天国です。来世はありません。だから、今を精一杯楽しみます。毎日を一生懸命に生きます。
というわけで、母が悪霊になり私を祟ることはないと確信していますので、母の遺灰を思う存分、海に散骨しようと企んでいます。
七
ここで母の信仰が私に与えた影響を別の角度から述べてみましょう。
母は容易に他人の言うことを信じる。私は容易に他人の言うことを信じない。いや、正確に言えば、他人を信用しますが、信用の裏付け、つまり科学的な根拠やデータの提出を相手に必ず求めます。
科学者は科学的な根拠に基づいて真理を追究します。私は会社で働きながら、大学院で博士号を取得しようと考えていますが、この科学的な根拠やデータを基に自身が関心のある分野の真理を追究していこうとする行為が、私にとって、なんとも心地よいのです。
母は宇宙の真理を宗教に求めました。ところが、私は違います。科学に求めました。
後年、つまり今の私にとって、常に科学的な根拠やデータを求めるという冷静沈着な態度、母に「冷たい人間」とまで断言されたこの態度こそが、すべての活動をするうえで大きな強みとなっています。
さて、次はこのような毒親を生み出した背景を探るために、私の知る限りの父と母の生い立ちと私の子供のころについて、書いていきます。
毒子回顧録(八~十八)
八
「勉強しろ」
「勉強しとるか?」
勉強、勉強、勉強とやたら勉強を強いる父でした。父が学生の時に勉学に熱心だったのか定かではありませんが、母曰く「学内で五本の指に入る」優等生だったようです。ただ、父の家庭は貧しく、父は高校を卒業するとすぐに、建設会社で働き始めました。
父は、私に工業高等専門学校に入学するように強く勧めました。たしか「就職に強いから」という理由で父が私に入学を進めていましたが、今になって思うと、それはただ単に叔母の息子が工業高等専門学校を卒業し、安泰の役所に勤めていたので、私にも同じようにそれを投影しようとしただけでした。
本来、子供の学びついて、親は色々な選択肢を熟考する必要があります。高校を卒業して大学に入学するのか。それとも専門学校に入るのか。はたまた、高校卒業と同時に働き始めるのか、などなど。工業高等専門学校に入学するのも一つの選択肢ではありますが、あくまで選択肢の一つにすぎません。
父は二人の子供、つまり私と弟の輝かしい未来のために、教育機会についての情報収集を著しく怠りました。私は運よく、父の進める工業高等専門学校の入学試験で不合格になり、県立の普通高校に進学することになりましたが、頭の良い弟は、工業高等専門学校の試験に受かり、高専に入学することになりました。
教育には主に学校教育と家庭教育の二つがあります。毒親というものは、後者の子供に対する家庭教育が苦手なようで、私も親からまともな家庭教育を受けた記憶が一つもありません。そして、毒親が子供に求めるもの。それは学校でよい成績をとることです。
私は暗記科目にめっぽう強く、学校の成績は抜群によかったので、その意味で父から怒られることはありませんでしたが、これは一種の自己防衛というものです。学校の成績さえよければ、父から怒られること、もっと深刻な問題は、幼い時のように暴力を振るわれることがないことを、子供ながらにも理解していたからでしょう。私は本当によく勉強しました。
実家には父の勉強した形跡は一切なく、幼少から今日に至るまで、私は一度たりとも父が本を読んだところを見たことがありません。父は異常でした。まともに子供に家庭教育を施せる状況にありませんでした。そして、家庭教育をまともに受けてこなかった私に暗い影がつきまといます。
つまり、毒親の遺伝子をもろに受け継いだ私が人の親になって、子供ができても、その子供にまともな家庭教育を施してあげられないのでは、という強い疑念です。
毒親の下で育った毒子でも、学校で教育された一端のまともな大人に育ったならば、毒親から毒子への負の連鎖を断ち切るために、あえて結婚しない、または結婚しても子供を作らないという賢明な選択肢を考えます。私は二十代にして結婚しない、子供を作らない、という選択をした一人です。要するに、独身貴族の道を選びました。
ちなみに弟は、工業高等専門学校を卒業して、国立大学に飛び級で入学しました。大学院まで出て、大企業に就職したものの、紆余曲折があり、その会社を辞めてシンガポールに逃走。シンガポールで仕事と生涯の伴侶を見つけました。そして今は北海道の役所で仕事しています。
ちなみに、弟の奥さんとは一度も会ったことがないです。というか、興味ないです。たぶん、一生、弟の奥さんと会わないでしょう。
九
私の中学生時代の話をしましょう。私はとても寡黙な人間でした。そして、とても素直な人間でもありました。両親や先生の話をよく聞きましたし、まじめに勉強もしました。学校の成績もよかったです。この傾向は中学に続く高校や大学、社会人生活にも受け継がれました。
なぜ、まじめで寡黙な人間が誕生したのでしょうか。
それは、私の脳裏に幼いときの辛い記憶がべったりとこびりついていたからでした。小学生のころ、父からお尻をつねられたり、背中を手でたたかれたり、腹を足でけられたりと、頻繁に暴力を受けました。これまでの告白からも明らかなように、父のコミュニケーション能力は、ノミよりも小さいので、うまく言葉で表現できない代わりに、手と足がよく動いたのです。
そんな私を哀れに思ったのか、ある時、母は「お父さんは、小さい時に母を亡くし、貧しい家庭で育ったから、あのようになってしまった」と言い訳のようなことを並べ立てていました。
そして母は母で、そんな父との家庭生活に耐えられなかったのか、よく父を置いて家を出て、私と弟と連れて祖母のいる実家に避難していました。
毒親と毒子の関係は、何世代にもわたって受け継がれていくのでしょうか。残念ながら、父は毒親の遺伝子を次の世代に残してしまいました。そしてここに私と父との決定的な教育格差が表れています。
つまり、一端の親としての教育や教養を疎かにしてきた毒親は、安易に毒親の遺伝子を次世代に残す。教育された毒親の子供(毒子)は、負の連鎖を生み出す毒親の遺伝子を断つために、安易に毒親の遺伝子を次世代に残さない。例えば、結婚しない。または結婚しても、子供が作らないなど、そのための手段はいくらでもあります。
私は中学時代、ソフトテニス部に入って、仲間とともにソフトテニスに打ち込みました。今でもソフトテニスは良い思い出です。しかし、この時期、さらには小学生時代も含めて家庭生活での思い出はほぼ皆無です。父の「勉強しろ」の言葉以外に、頭に思い浮かぶものはありません。
いや、ひょっとすると、過去の辛い記憶が多すぎて、私の脳が防衛反応を起こし、辛い記憶を思い出させないように、幸せのアミラーゼで辛い記憶を覆い隠しているのかもしれません。
毒子はしばしば、妄想力がたくましいです。
十
面白いことに、私と弟は、兄弟でありながら、まったく違った性格となりました。
中学生になった弟は、親に対して非常に強い反抗心をもっていました。親に「ボケ、アホ、ボケ、アホ、ボケ!」と毎日のように言っていました。私はその弟と両親のやり取りを目撃して、そこから何かを学習して、大人しい性格になった可能性があります。
弟も、叔母の入れ知恵に洗脳された父の言うままに工業高等専門学校に入学したものの、また私とは別の形で、毒親に毒されない子供としてたくましく生き抜いてきたのでしょう。
そして弟と奥さんとの間には、まだ子供がいません。というか、賢い弟なので、私と同じく、毒親の遺伝子を次の世代に残すことを意識的に停止しているのでは、と考えています。
毒親への異議申し立て。
私と弟は、心の奥底で通じる同志なのです。
十一
母の生い立ちは、父と比べれば、比較的はっきりとしています。なぜならば、私が小中学生のころ、母は父と距離を置くために、しばしば私と弟を連れて、祖母のいる実家に帰っていたからです。
私は、母には姉(私にとっての伯母)がおり、その当時、すでに父(私にとっての祖父)は亡くなっていたものの、母(私にとっての祖母)はすこぶる元気で、実家でのんびりと生活していました。祖父が亡くなったのは、私が生まれて間もないころと聞きました。私は幼い時に祖父の膝の上に乗せられたこともあったようです。
母の実家は、とても貧しかったと記憶しています。祖母は、あばら家に住んでいました。
祖母との思い出は、あまり記憶にありませんが、優しい祖母でした。祖母は、私が学校でよい成績をとると、褒めてくれました。
母は父と結婚して、専業主婦になるまでは、製薬会社に勤めていたようです。母が「製薬会社は従業員への待遇がよいと」と時々言っていたのを思い出します。
ところが、私は父と母がどこで出会い、どういった経緯で結婚したのかを全く知りません。結婚前の母は、まだ宗教にのめり込んでおらず、真っ当に会社で仕事をしていました。私の記憶の中では、幽霊のように、急にどこからか、父がスーッと現れて、母と結婚してしまったというぐらいにしか、想像力が働きません。
後年、毒親となるこの父と母は、どこでどのようにして出会ってしまったのか。世界が膨大に広い中で、二人が出会ってしまったということ自体が、ある意味、奇跡です。しかし、この奇跡の出会いは、後に波乱を起こしました。
小学生のとき、興味本位で母に父とどこでどのようにして出会ったのか、聞いたように記憶しています。しかし、母の返答は曖昧模糊としていたように思い出されます。その時点で、母は、既に父との結婚を後悔していたのではないか、と今になって思うのです。
子供のころの記憶がほとんどない。または、全くない。あるいは、記憶の断片をあちこちに飛び散らかして、記憶と記憶のつながりが入れ替わり変になっている。子供のころの正確で正常な記憶がない。これは、毒子によくある傾向です。
十二
小学生のころの話です。
家庭生活に目を向ければ、父から暴力と暴言を受けたこと、そして母からは、父と距離を置くためによく祖母の家に連れていかれたことぐらいしか、記憶に残っていません。
学校生活を思い出すと、小学生の時に仲の良い友達が三人できて、よく一緒に遊んだ記憶が残っています。類友の法則が働いてしまったのか、彼ら三人のうちの一人O君も、私と同じような家庭環境で育ち(両親から暴力は振るわれていなかったようです)、大学卒業後、新卒でシステム会社に就職したものの、毒子に見受けられる社会適応能力の低さがあだとなって、会社での仕事がうまくいかず、入社後すぐにうつ病になってしまいました。O君とは十年以上会っていません。うつ病から立ち直っていれば嬉しいのですが、彼の病気の根っこにある毒親・毒子の問題がまだ尾を引いているのではないか、と心配しています。昔、O君は「生きがいはボルタリングだけだ」と言っていました。悲しい男です。
もう一人の友人N君はお坊ちゃんで金持ちの家の子供でしたが、高校生の時に不良になりました。高校生で不良になり、その後どうなってしまったのか、トレースできていません。ダジャレをよく言う面白い男でした。ソフトな不良のN君ですが、毒親の問題とは無縁だったと思われます。
そして友人K君は、金玉とチンコがバカでかいのが唯一の取柄の男でしたが、大学を卒業してすぐに結婚しました。また、K君は会社を立ち上げたり、会社を倒産させたりをひたすら繰り返しながら、今日まで生きながらえています。ビジネスや経営のセンスはなく、やはり、金玉とチンコのサイズ以外に取柄はないようです。また、彼は精力絶倫であり、結婚してすぐに子供ができました(できちゃった婚の可能性もあり)。K君の子供がまともな人間に育つことを強く願います。K君の場合、小学生のころの家庭環境は微妙で、毒親問題がグレーゾーンのように感じられましたが、彼の金玉とチンコのインパクトのせいで、K君一家の毒親問題の本質を見逃してしまいました。とにかく、デカかったのです。
K君は生粋の関西人であり、串カツ屋の「ソースの二度漬け禁止」をちゃんと心得ていますが、夜の営みの「タネの二度付け禁止」は自制が効かないようです。
小学生の仕事は勉強することと遊ぶことなので、まあ、その意味では、私も普通の小学生だったのかも知れません。しかし、それは傍から見れば、の話です。家庭生活が壊滅状態にある小学生の悲劇や悲哀を見通せるだけの神通力を持った学校の先生や地域住民などの第三者は皆無に等しいです。
友達と遊ぶ。一見すると楽しそうに見える。
小さいころの毒子は悲しい運命を背負っています。
十三
中学生のころの話です。
私の担任の先生は、社会科の先生でした。社会科の授業中にその先生から「戦争は政治の延長線上にある」と教わったことが、なぜか今でも鮮明に覚えています。目を閉じると、その当時の授業風景が目の前によみがえります。不思議です。それはあたかも「毒子は毒親の延長線上にある」と言わんばかりに。
ある時、先生は、学校の成績が優秀だった私に、工業高等専門学校に入学するように勧めました。先生は純粋に私の学力や学習態度、将来性などを総合的に熟慮して工業高等専門学校への進学を勧めてくれたのだと今でも感謝していますが、そこに毒親甚だしくなった父が「共謀」する形で乗っかり、工業高等専門学校を受験することになりました。
先生の優しさと父の毒々しさが交じり合い、工業高等専門学校を受験しました。結果は、不合格。先生は本当の親のように不合格を悔しがってくれました。先生の優しさを感じました。そして、父と母も不合格を残念がってはくれましたが、特に父に関しては、何か腹黒いものを感じました。
父は、姉(私にとっての伯母)の息子が工業高等専門学校を卒業し、役所で働いていることを羨ましく思っていたのでしょう。
今でもはっきりと覚えています。工業高等専門学校から「不合格」通知を受け取り、内心ホッとしました。
十四
高校生のころの話です。
普通高校に進学した私は、現役での難関大学受験合格を目指して、受験勉強のために予備校に通い始めました。
高校生になった私は、どんどんと痩せ衰えていきました。最後には、骨と皮だけになりました。その頃の私は、精神的におかしくなっていました。中学生の時にソフトテニスをやっており、体も大きく健康そのものでしたが、これまでずっとため込んできた家庭崩壊の負のエネルギーが爆発したのか、精神に異常をきたしました。と同時に、激やせしました。
人間というのは滑稽なもので、他人への関心がほとんどなく、たとえ他人に関心があるとしても、その人の一面しか見ていないのに、その人の全体像を勝手に想像してしまいます。
私は、寡黙で非常にまじめな高校生でした。担任の先生やクラスメートたちは、そんな私を「がり勉の優等生」と見間違えていました。おかしなことに、あるクラスメートは私に尊敬の念まで抱いていたのです。
高校時代の家族との思い出は、一つしか残っていません。それは、私と母と担任の先生との学校での三者面談です。学校での成績が抜群に良く、現役で難関大学受験合格を目指していた私をよく知る担任の先生は、あろうことか、「毎日まじめに勉強して成績もよいです。きっと、お母様の家庭教育が行き届いているからでしょうね」とほざいていました。その担任の先生の発言に、母はたれ笑いしていましたが、心の奥底でどのように感じたのか、今となっては知る由もありません。
高校生になって、私は本格的に孤独を愛するようになりました。今でもそうですが、私は勉強が好きです。働きながら、博士号の取得も本気で考えています。学びというものは、自分と徹底的に向き合う行為であり、孤独を愛する私と相性がよいのです。
孤独を愛する私は、一人でいる時間を非常に大切にしました。一人でいると、心が和みました。学校での昼食も努めて一人で食べました。一人で学校の運動場を眺めながら、昼ご飯を食べた記憶がよみがえります。
私はいわゆる厭世家、とは違います。傍から見れば、そのように見えるかもしれません。
学校での成績が抜群によかった私は、学校から指定校推薦され、難関私立大学に合格しました。現役予備校で受験勉強を頑張っていましたが、結果的には、センター試験などのペーパーテストを受けることなく、大学への入学が決まりました。
孤独を愛する。友達はいない。いや、要らない。感情が表に出ない。内省を非常に重んじる。その結果、きわめて知的で理性的な人間に育った。しかし、私は厭世家とは違う。家庭崩壊の副作用として、また毒親問題の結果として、私のような人間が大量生産されることは、社会全体を見渡したときに便益があるのかどうか、現時点の私の見識では判断できません。
十五
大学生のころの話です。
相変わらず、勉強が好きで大学の授業はほぼ皆勤賞でした。大学三年生から始まった経済学部のゼミでは、京都の観光政策について研究し、卒業論文としてまとめました。その卒業論文が大学の先生の間で好評だったのか、経済学部が発行している論文集に私の卒業論文が掲載されました。大学卒業時には、大学の成績優秀者に贈られる賞状と賞金もいただきました。
大学の教室の教壇に先生が立ち、授業が始まる。私は大きな講義室の最前列の席に座り、先生の板書をひたすら書き写すような輩です。大学の同級生からは、勉強ばかりやっている変人と思われたかもしれません。
大学生になり、アルバイトも始めました。週に何回か、映画館でアルバイトをしました。映画館の映写室に閉じこもり、映写機を回し、映画館にある大きな画面に映画を映すのです。映画館には大勢の客が集まりますが、上映中は黒一色の世界です。孤独の愛する者は、すべての人を覆い隠す暗黒の世界に魅力を感じます。
大学生のころの家庭環境の大きな変化は、父が急速に衰えていき、今日のウンコとパソコンばかりやっている「生きる屍」の原型が確立されたことです。つまり、家庭で暴言と暴力だけを振るってきた父は、職を失ってから、すべての人生を失ったかのように、暴言と暴力は鳴りを潜めて、大人しくなりました。そして太り始めました。痴呆症へのステップを踏み始めたと言えるかもしれません。
高校生以来、私は孤独を愛していますが、父が私の孤独を追従するようになりました。いや、毒親と毒子の間柄なので、たまたま私が先に病的なレベルの孤独になっただけで、私と同じ遺伝子を持った父も遅れながら孤独に愛情を注ぎ始めたのかもしれません。
この頃から今日に至るまでの父は、これまでの毒親像から離れて、生きる屍、いや変人とでもいいましょうか、ひどく社会から孤立した孤独な人間となっています。父は勉強しません。学びません。友達はいません。人と会いません。毎日、同じものばかり食べます。一日中、ウンコとパソコンばかりやっています。野糞もします。著しく変な人間です。しかし、幸いなことに人様には迷惑をかけていません。なので、そのまま放っておきましょう。
毒親たる父の行く手にあったものは、恐ろしいほどの孤独で長い余生でした。私は孤独を愛していますが、父の毎日実践する「孤独」には恐怖の念があります。本当に恐ろしい。人生百年時代と言われます。父はあと十年、いや二十年近くもこのような孤独な生活を続けるのでしょうか。私は父のこれからの余生と孤独を想像するとき、一種の戦慄と慄き、そして絶望を感じます。
父から否応なく孤独な遺伝子を受け継ぎましたが、その孤独の性質が腫瘍のような悪と破滅の道に私を導かず、善良な孤独の道に進ませてくれたのは、私の人生における幸福の果実でした。
十六
社会人になってからの話です。
私は大学を卒業し、新卒で化学メーカーに入社しました。配属先は経理部となり、入社以来退職するまで、経理・財務の仕事を一貫してやってきました。このメーカーは上場企業であり、決算業務は主要な仕事の一つです。経理や財務は、営業とは違って内勤が多いため、私のような性分の人間には向いています。実際、経理や財務の仕事をやって、この仕事が自分の性に合っており、楽しかったです。
孤独を愛する私は、会社の色に全く染まりませんでした。同期の社員の中には、週末に会社の連中を誘ってゴルフをやったり、食事会を開催したりする者もいましたが、私は努めて参加しませんでした。そのような会合やイベントは、この会社で一生働き続ける者には意味があるだろうが(とりわけ社畜にとって有益)、私のようにキャリアップのための転職も辞さない自由な発想の人間にとっては、お金と時間の浪費以外の何物でもない、と考えたのです。
では、若かりし頃の私が週末に何をしていたのかというと、ビジネススクール(経営大学院)でファイナンスの研究に打ち込んでいました。当時、私が勤めていた会社は、積極的にM&A(企業買収)を実施しており、社内でのキャリアアップと称して、M&Aを実施するために不可欠なファイナンスの知識を体系的に学ぶことは、会社にとっても有益でした。なので、週末にビジネススクールで学ぶことは、会社からお咎めなしでした。教育は最高の投資です(実際のところは、将来的な社外でのキャリアアップを見据えての行動でした)。
ただし、自費での学びです。会社からのボーナスを全てビジネススクールの授業料に充てていました。
おそらく、ビジネススクールで学ぶことがなければ、私は化学業界という狭いフィールドに閉じこもった残念なビジネスマンに成り下がっていたでしょう。ビジネススクールでの学びは、今後の働き方や生き方を考えるうえで、大いに役立ちました。
新卒で入社しました化学メーカーには、フィリピンで海外ボランティアを始めるまでの約九年間勤めました。会社を辞める決め手になったのは、社内の仕事を通じて学べることがなくなってしまったからです。経理や財務の仕事は、大概のことはやりつくしました。
また、同僚や上司が社内政治や社内調整に明け暮れる様子を見て、彼らは、典型的な日本人サラリーマンであり、残念過ぎるほどのクズ連中だと思いました。こんな会社にいては、グローバルな競争で勝ち残れるだけの市場価値の高い人材にはなれません。また、孤独を愛する私に言わせれば、社内政治や社内調整に惜しみなく時間や労力を投じるのは、プロフェッショナルな仕事ではありません。ましてや、社内の会議中に結論が出ないからと言って、飲み屋に会議の延長戦を持ち込むようなクズリーマンは、プロフェッショナルの端くれにも置けません。
さて、ここで意外な告白をしましょう。
孤独な私ではありますが、ビジネススクールの同期生や会社の上司、同僚などの関係者の私に対する印象は「寛容」や「優男」といったプラスの印象ばかりです。
家庭で毒親に虐げられて育った人間は、人の意見をよく聞くようになります。つまり、学校でいえば、先生の教えを素直に学び、会社では、上司や同僚の意見に素直に耳を傾けて仕事を遂行する、といった具合です。これは、幼少期に毒子が毒親に反抗すると、暴言や暴行を受ける、また最悪の場合は、包丁が飛んでくるといった危険に犯され続けた反動です。
要するに、無意識のうちに相手に服従する態度が心の芯まで染みついてしまったのです(一種の防衛反応です)。
そして困ったことに、日本社会ではこのような態度が「善良」とみなされます。つまり、素直に学ぶ生徒は先生に褒められる。先生は大いに勘違いして、まじめに学ぶその生徒の家庭では、家庭教育(両親との関係)も非常に上手くいっていると勝手に思い込むのです。
幼少期から歪な形で育まれてきた優しさ。表面的な現象からその根本原因を読み解くことはできません。
学校の先生や職場の仲間も、所詮は表面的な現象の真因を理解できない赤の他人、ということです。
その当時、私の弟も大学院を修了し、家を出て働き始めましたので、実家には父と母の毒親二人を残すのみとなりました。父はすでに、もはや毒親と呼べない「生きる屍」と化して彷徨っていました。そして、母は本格的に宗教にのめり込み始めました。母は、宗教家へと転じたのです。
母は目の前にいる「生きる屍」の成仏祈願や死後の供養の準備を始めたのかもしれません。
十七
ビジネススクールを卒業し、これまでビジネススクールの授業時間に充ててきた土日が完全なフリーになりました。
私は毒親に育てられた人間の中では、異端児の部類に入るかもしれません。つまり、不幸な家庭環境で育ったものの、後天的に家庭教育以外のところで徹底的に教育されて育ったため、家庭教育以外の教育による成果の一つとして、社会に対する奉仕精神が人一倍強くなりました。毒親問題を語るとき、毒子が社会や生まれ育った家庭環境を恨んだり、罵ったり、後悔したりすることは枚挙にいとまがありません。私のように、毒親を乗り越えて、毒子が超然として社会貢献に挑戦するのは、まだまだレアケースです。
大企業に勤める多くの人たちは、休日に各々の余暇を楽しみます。ある人は仲間と一緒にゴルフをやり、ある人は仲間と一緒に居酒屋で飲み明かす。私は大企業(化学メーカー)に勤める傍ら、土日にNPO法人で地域貢献活動を始めました。
NPO法人では、不登校や引きこもり、ニートなどの社会復帰を支援しています。学校や会社からはじき出された社会的弱者の中には、発達障害やアスペルガーなどを発症している者も少なくありません。これまでに支援してきた人の中には、幼い時に母親が首つり自殺した者もいました。きっと、彼らの中には、毒親に毒されて不登校や引きこもり、ニートになってしまった人もいます。
同じような境遇にある人たちと手を携えて、当事者として支援する。私と同じ世代の若者は、「失われた平成時代」の社会不安と不景気のど真ん中で青春を謳歌してきました。バブルは遠い昔の話です。でも、失われた平成三十年の中で、社会や経済に疲弊しながらも、他者に共感できる、優しくてたくましい世代(若者)が生まれてきたことは、先進国にも関わらず、今や色んな意味で、世界の先進諸国から周回遅れの様相を呈している絶望の国、日本にとって、最後の希望になるかもしれません。
ますます際立ってきた父と私との孤独感の違い。それは一言でいうと、内なる絶望的な孤独に向かうのか(社会から完全に孤立するのか)、それとも外の大きな世界で孤独を満喫するのか(社会包摂の中で孤独と真剣に向き合い生きていく)の違いです。
十八
軽いノリで長年勤めてきた会社を辞めて、フィリピンで海外ボランティアを始めました。フィリピンのルソン島北部にいる山岳少数民族の文化継承活動です。フィリピンでの二年間超のボランティアを終えると、今度はネパールで国際NGOのプロジェクトに従事し、ネパール大震災の復興支援を行いました。同様に国際NGOのプロジェクトとして、アフリカのマラウイに駐在し、アフリカ南部で発生したサイクロン被災者への食糧緊急援助を実施し、ウガンダではウガンダ国内に流入している南スーダン難民への社会心理ケアを実施しました。新型コロナウィルスの蔓延が収束しましたら、今度はラオスで私たちのNPO法人が実施しているICT(情報化)推進事業を視察します。
私は非常に長い思索の果てに(何千冊もの本も読みました)、毒親をポイ捨てし、結婚及び子育てからの戦略的撤退、さらには海外のプロジェクトベースでの働き方(≒生き方)へのシフトを実施しました。現在、毒親問題は、私から完全に切り離されており、私は自分の仕事や学びに集中することができます。
軽いノリでいきなり海外での仕事ができるのは、「英語」というコミュニケーション手段が、実は毒親に育てられて、社会適応能力やコミュニケーション能力が低い毒子と非常に相性が良いからです。日本人にとっての英語とは、第一義的に、やはりコミュニケーション手段であり、流暢に英語を話せなくても、英語で外国人と的確に意思疎通し、こちらの意図をしっかりと相手に伝えて、実際に相手に動いてもらうことです。これを逆手に取れば、英語で意思疎通さえできればよく、日本人の間でよく見受けられる余計で悠長な会話や談話がありません。また、極端な話をすれば、事業計画書に記載される目標値や活動の実績値などの「数字」のみで英会話が成り立つのが(データなどの客観性重視)、特にビジネスの場における外国人とのコミュニケーション、というものです。
孤独を愛する私は、世間の人たちと常に一定の距離を保っています。そして、その適度な社会との距離感は英語によって保障されているのです。私にとって、英語は安全保障上、きわめて重要なツールの一つです。
毒親に育てられた毒子の生存戦略を考えると、毒子はかえって海外で孤立奮闘する方がよい。これが私の経験則です。
なお、最近、イギリスやインドなどで反出生主義が台頭してきました。毒親・毒子問題と反出生主義の関係性については、今後、研究すべき重要テーマの一つです。
毒子の生存戦略(十九~二十六)
十九
やがて毒親は息絶えます。必ず死にます。そして毒子は生き残ります。毒親に育てられた毒子たちは、社会の中でサバイバルしなければいけません。
私のこれまでの経験を踏まえて、毒親に虐げられてきた毒子が生き残るための処方術を述べていきます。
・自分の勝ちパターン(及び負けパターン)をいち早く見つけよう。
私の父は、驚異的なほどに勉強しない人でした。父は約半世紀前に会社で働き始めた時から、おそらく、勉強したことがありません。おそらく、というのは、私は学校で勉強しており、父が働いているところを見たことがないからです(会社の勤務時間中に勉強していた可能性を排除できない)。しかし、父が勉強しなかった間接的な証拠として、父が家で本を読んでいるところを今までに一度も見たことがありません。実際に父の本は本棚に一冊もありません。そして間違いなく、父の頭にある知識や情報などの思考や判断の源泉は、会社の辞めたあの日からピタッと止まっています。
私が子供の時に、父からは「勉強しろ、勉強しろ」と散々言われ続けました。今思えば、滑稽な話です。父親たるもの、「背中で語る」のがちょうどよいのです。しかし、父は私の前で勉強してみせたことは一度もありませんでした。
毒親問題の悲劇は、子供が親を選べないことに尽きます。しばしば、毒親は子供をコントロールしたがりますが、それは一種の洗脳です。子供にとって、家庭内における親の影響力は絶大です。本来なら、ずっと毒され続けるという悲劇を誰かが阻止しなければいけません。
私の父のように、クソ古い知識や情報、そしてその古い世界観でもって、現在の文明社会や現象を見るというのは、どういった気持ちがするのでしょうか。私はそれを想像するだけで、一種の戦慄と慄き、そして絶望を感じます。
私は毒親の父を反面教師としてきましたので、非常に勉強する人間になりました。勉強好きです。学ぶ意義も悟りました。サラリーマンとして働きながら、ビジネススクールでも学びました。今後は働きながら、博士号の取得も目指します。
また、これまでにスキマ時間などを活用して、あらゆる学問分野の本を大量に読み込んできたこともあり、しっかりと自己分析をすることができました。自分への理解が深まりました。
自己分析。毒子にとって、きわめて重要な作業です。いや、貴重な自己成長のための投資です。
つまり、しっかりと自己分析し、自分への深い理解を得ることで、毒子各々に見合った、上手な社会生活を営むための生存戦略を描けるようになります。自分の「勝ちパターン」と「負けパターン」が明確になるのです。
私は、集団内でのコミュニケーションや組織だった行動が嫌いです。というか、集団内では「仕事」以外に、相手に対する関心がないので、相手との日常会話は弾むことがありません。しかし、味方によっては長所でもあります。
この私の特性を「負けパターン」から「勝ちパターン」に変換するために、仕事の主戦場を日本から途上国へ、また仕事の同僚や仲間を日本人から英語でコミュニケーションする必要がある外国人にシフトしました。
英語というものは興味深く、英語で外国人とコミュニケーションをとる場合、日本人のような悠長な会話がなく、客観的な事実や数字をベースにした会話が中心になります。日本人と話す時にように、本題に入る前のクソ話(世間話)はないので、外国人と気持ちよく対等に会話できます。
また、小さい時から貧しい家庭で毒親に毒されて育ってきた私には、いわゆる「物欲」がほとんどありません。家にテレビや冷蔵庫がありませんし、自動車も所有しておらず、移動は主として徒歩です。悟りの境地に達した仏教の如来のごとき私の物欲の無さは、長期間、資源に乏しい途上国で活動するうえで非常に役立ちました。日本で純粋培養されて普通にリッチな日本人にとって、途上国での生活は耐え難いものがあります。不便さを楽しむことができません。冷蔵庫がなければ不便だと嘆き、洗濯機がなければこれまた不便だと嘆きます。途上国で起きている全ての現象(不便さ)を、日本と比較して「減点対象」とするのです。
物欲のない私は、途上国での不便な生活を自分の「勝ちパターン」へと昇華させることができました。つまり、冷蔵庫がなければ、生温かいミネラルウォーターをおいしく飲み干し、洗濯機がなければ、時間をかけて手で洗濯物を洗うのを楽しめばよいのです。
ちなみに、生物の三大欲求の一つである食欲もほとんどないので、途上国の食糧不足で飢えても辛くありません。一日中、腹が減らない。私は、食糧不足に直面している途上国に適した体質をもっています。
二十
・自分が毒親に育てられたと気付けただけで、十分にすごい。
自分の親が毒親だと気付いたのは、私の場合、社会人になってからでした。遅きに失しました。
いろいろな人の話や書籍などをチェックしていく中で、自分の両親が異常であることを理解できました。いや、悟りました。そして自分の両親を毒親と確信できたとき、一種の安らぎを覚えました。これまでに心の中に蓄積されてきた親に対する違和感が全て払しょくされました。
さて、コミュニティというものを考えると、小学生や中学生の頃のコミュニティといえば、家庭と学校、そして、少しの地域活動ぐらいでしょうか。家を中心とした半径数キロ以内に全てが収まる小さなコミュニティです。この小さなコミュニティ(世界観)が高校生、大学生、社会人と成長するにつれて、加速度的に大きくなっていきます。
ところが、子供にとってコミュニティの出発点になる「家庭」という小さな集団で、いきなりつまずいてしまうと、子供は心身ともに致命的なダメージを受けます。
私は貧しい家庭で無知な両親から暴言や暴力を受けながら育ちましたので、非常に大人しい従順な人間になりました。「勉強しろ、勉強しろ」と父にどなられ、時には理不尽な暴力を受けて育ってしまうと、子供は親に対して恐怖心を覚えて従順になります。完全に親に支配されてしまいます。私は小学生の時、父が手を振り上げると、頭の働きとは関係なく、反射的に両手で顔をガードし身構える癖がつきました。父から暴力を受け続けることで、自然に身に付いた「防衛反応」です。
現在、学校や行政、NPOなどの多くのセクターが子供たちのセイフティーネットとして機能していますので、以前に比べれば、毒親から毒子が救出される、言い換えれば、毒子が社会福祉のセイフティーネットに絡まって、助かることが増えました。
しかし、問題は氷山の一角に過ぎません。毒親問題を家庭内部にまで切り込み、毒子を根本的に救済するという試みは、行政をはじめ、まだまだ手探りの様相です。
「あなたの家庭に問題がある!」
「あなたは毒親だ!」
「あなたの子供は毒子だ!」
「ゆえに、私たちが子供を救出する!」
このような会話が軽いノリで交わされる日は来るのでしょうか。毒親問題、待ったなしです。
毒親の発見と対処が早ければ早いほど、毒親も毒子も確かな未来への希望を持てます。
二十一
・毒親を自分の人生にどのように位置づけるのか?
幼少期から毒親に毒され続けて大人になった毒子は、やがて自分の毒親をどのように処分すべきか考えるようになります。私のように毒親をポイ捨てするのも一計ですが、様々なアプローチがあります。
私の場合、毒親を赤の他人と同等の位置づけとしました。いや、もっと正確に言えば、これまでのいろいろな経験や学びを通して、自然とそのような態度になっていきました。
私は、毒親の誕生日を知りません。他人なので、知る必要もありません。自分の親が他人と同じように見えるようになった時、頭で考える必要のない無駄な思考は、これ一切消え去りました。父が病気になっても何も感じません。実際、父がガンで闘病生活を送っていることを「後日談」として聞きましたが、「あっ、そう」の一言で家族との会話は終わりました。そして、私は親が死んでも、葬式に行かないことを約束します。
私は弟とも疎遠で、弟の奥さんを見たことがありません。どうやら、自分でも気づかないうちに、毒親に対する赤の他人思考が、兄弟や親族にまで拡張してしまったようです。
時々、伯母から連絡がありますが、全て無視します。
私は高校生の時に突き落とされた精神の奈落の底から抜け出し、人生を謳歌するに至っています。その一方で、私を奈落の底に突き落とした毒親は今、自らを奈落の底に突き落とし、永遠の闇の中をさ迷い続けています。
私は後天的な猛烈な学習と経験を通して、奈落の底から抜け出す術を得ました。しかし、毒親、とりわけ父は学びませんので、奈落の底から抜け出す術を知りません。このまま地獄でのた打ち回り続けるでしょう。
父は死ぬまで地獄でのた打ち回る。
父は無意味に老いゆく。
そして死ぬ。
それでいいのです。
二十二
・私たちは精神疾患なのか?
肉親が他人にしか見えないことについて、議論すべき点があります。
例えば、精神疾患との関係です。
スキゾイドパーソナリティ障害という人格障害があります。
ウィキペディアによると、「スキゾイドパーソナリティ障害あるいはシゾイドパーソナリティ障害とは、社会的関係への関心の薄さ、感情の平板化、孤独を選ぶ傾向を特徴とする人格障害」です。
スキゾイドパーソナリティ障害の原因は、「生まれ持った資質の弱さ、発達のアンバランスさ、親からの虐待やネグレクト、母子関係のこじれ、発達早期のトラウマ、医療トラウマ、学校や社会でのトラウマ、生活全般の困難など」(ウィキペディア)が考えられます。
スキゾイドパーソナリティ障害の診断基準は、「次の診断基準の内、少なくとも四つ以上を満たすことで診断されます。
①家族を含めて、親密な関係を持ちたいとは思わない。あるいはそれを楽しく感じない。
②一貫して孤立した行動を好む。
③異性と性体験を持つことに対する興味が、もしあったとしても少ししかない。
④喜びを感じられるような活動が、もしあったとしても、少ししかない。
⑤第一度親族以外には、親しい友人、信頼できる友人がいない。
⑥賞賛にも批判に対しても無関心に見える。
⑦情緒的な冷たさ、超然とした態度あるいは平板な感情。」(ウィキペディア)
私の父は、七つの診断基準のうち、少なくとも四つ(②+③+④+⑤)該当します。⑥については、父は四六時中、パソコンとウンコしかしませんので、診断不可能です。
私の場合、七つの診断基準のうち、五つ(①+②+⑤+⑥+⑦)該当します。
診断基準に従えば、私たち親子は、スキゾイドパーソナリティ障害の可能性があります。
この人格障害の興味深いところは、当の本人が、社会生活を営む上で他人に迷惑をかけることがないので、仮にスキゾイドパーソナリティ障害の疑いがあっても、わざわざ病院で診断を受ける人が極めて少ない点です。もちろん、私も父も病院でスキゾイドパーソナリティ障害かどうかを診断したことがありません。
もし私がスキゾイドパーソナリティ障害と診断されても、その原因が先天的なものなのか、後天的なものなのか、原因を突き止めることは困難でしょう。父は著しく変な人間であり、その遺伝子を私が受け継いでしまったからなのか、それとも、毒親の父から暴力や暴言を受けて育ってきたからなのか、はたまた、その両方の影響を受けているのか、判別が難しいです。
二十三
・結果的にミニマリストになれたのは、ラッキーだった。
私の性格に合っている経理や財務の仕事をやったり、また大学院でファイナンスを研究したりしたことで、計数管理に明るくなりました。しっかりと毎日の家計簿も記録するので、収入と支出のバランス及びその結果としての貯金も管理できます。
また、長らく物価の低い途上国で生活してきましたので(支出が少ない)、貯金が右肩上がりに増えました。現在、同年代の平均貯金額の何倍もの貯金があります。
収入と支出のバランスを考えるときに、支出の大きな割合を占める固定費をいかにして削減するかが一つのポイントになります。固定費の代表的なものに家賃の支払いがあります。
途上国から帰国した際の仮の住処は、あろうことか、毒親のいる実家です。しかし、感覚的には、もはや毒親と同居するというより、他人とシェアハウスしている、といった方が適切です。つまり、両親がその辺にいる他人と同等の生き物に感じるので、一つの家を外国人とシェアしているようなものです。シェアハウスは、家賃削減の切り札になります。
コロナ騒動然り、先の見えない世の中では、キャッシュイズキングです。適度な貯金は私たちの生活の安全装置として働き、気持ちにゆとりを与えてくれます。また新しいことにチャレンジしようという勇気も出てきます。
二十四
・毒親の存在が、毒子の結婚へのモチベーションを大きく下げる。
私の周りには魅力的な独身の女性が多いです。これまでに仕事や活動を通じて、交流してきた女性たちです。女性の国籍も多岐にわたります。
私が結婚を考えるときに、真っ先に頭の中に浮かぶのは、肉親である毒親をどのように処理するべきかという問題です。
もし私が結婚する場合、基本的には彼女を私の両親(毒親)に引き合わせる必要があります。これは非常に面倒な問題です。リスクマネジメントの観点からは、「最悪」の状況も想定する必要があります。つまり、その彼女が私の毒親に毒される可能性です。いや、もし彼女が私の毒親に毒されないとしても、彼女が毒親に合った後、私に対する印象は大きく変わるでしょう。
このようなことを考え始めると、必然的に「結婚しない」という選択肢が頭をよぎります。私は、孤独を愛する人間ということもあって、今ではひたすら独身貴族の王道を突っ走っています。
毒子が毒親と縁を切るというアプローチもあります。そして意中の女性(又は男性)と結婚したとしましょう。その先にあるもう一つの重大な問題・・・。それは子供です。
毒親から受け継いだ遺伝子、または毒親と一緒に生きてきた過酷な家庭環境によって、毒子の脳には否応なしに「毒親」という鬼が住みついています。
毒子が結婚する。子供ができ、人の親になる。そして、最も恐れる毒親に自分がなってしまう。
その可能性はゼロではありません。
これも毒子が結婚を躊躇する理由の一つです。
世間では独身貴族に対して、色々な意見があります。ポジティブな意見もあれば、ネガティブな意見もあります。しかしながら、その独身貴族の中に一定数の毒子も含まれています。これは大いに留意すべき点です。
ちなみに、私はフィリピンの貧しい家庭の子供に奨学金(学校の授業料)を提供していました。自分と直接血が通わなくても、子供との心の交流は可能です。
二十五
・毒子になって見えてきた、楽しい世界。
子供の時に毒親から虐待を受けて育った私は、後天的な経験と学習を通じて、孤独を愛する境地に至りました。
孤独というと、一般的にネガティブなイメージがあります。しかし、孤独を極めることで、自由と責任の下、やりたい仕事や活動を楽しんだり、十分すぎる自由時間を自分の好きなように活用したりすることができます。孤独とは面白いもので、精神的なゆとりさえもたらしてくれます。
私と他の毒子を比較検討する必要はこれっぽっちもありませんが、毒子の各々の個性を活かして、皆さんも大いに人生を謳歌してほしいです。社会で頑張ってほしいです。
人生を謳歌する。こんなエピソードを思い出します。
昔、勤めていた会社の重役(故人)の中に、毎日の昼食で脂肪分たっぷりの特大ステーキを頬張る方がいました。常識的に考えれば、その方は八十歳ぐらいの高齢者なので、栄養バランスや減塩などを毎日の食生活で実践すべきです。しかし、この方は、死ぬまで特大ステーキを食べ続けました。
その方曰く、「食生活に気を付けると、食べられるものが限定されて、ストレスがたまる。わしは、肉が好きや。毎日、美味しいステーキを食べたら、ストレスがたまらない」と。
栄養バランスの大切さについて、その方も百も承知です。でも、あえて特大ステーキを食べ続けました。
私はここに人生の本質を感じるのです。
つまり、地球上に多数ある動植物の中にあって、幸運にも、生態系の頂点に立つ人間として生まれてきた境遇や奇遇を死ぬまでずっと、思いっきり楽しんでやる。もしやりたいことが千個あるのなら、その千個を全てリスト化する。そして、生きている間に千個全てをやり尽くす。遊び尽くす。
毒子の境遇をプラスの力に昇華させたいものです。
毒子にしかできないことだって、世の中にたくさんあるはずです。
二十六
・権勢をふるった毒親もついに衰えて、最後は無意味な人間として死ぬ。
昔、権勢をふるった毒親の現在の凋落ぶり、そして毒親から虐待を受けて育った私(毒子)の悲しい過去と現在の面白おかしい活動や仕事を、一つの実例として見てきました。
誤解を恐れずに言えば、私は、毒親も毒子も一つの「個性」として考える境地に至っています。私の父と母は、著しく変な人間です。毒親です。でも、それもまた個性。そんな毒親に育てられた私も、著しく変な人間だと確信しています。でも、そんな私にも個性があります。
毒親との縁切りや復讐などを超えた毒親とのフラットな人間関係を築くことができたのは、最も身近な脅威である毒親から生き残るために、私の脳の中で本能的に巧妙に編み出された生存戦略のおかげであり、それを体現する現在の活動や仕事の中に、私の強烈な個性が発揮されています。
毒親問題は、千差万別です。毒親の数だけ毒子がいます。そして、毒子の数だけ個性があります。
最後に、最近の毒親の様子を「観察記録」として記述すると共に、死にゆく毒親への手紙、毒親という同じ境遇を生きてきた友人O君への手紙、そして未来の私への手紙を書いて、筆をおきます。
二十七
ある年老いた毒親の一日。
男はひどく怯えている様子であった。今朝、その男の妻は「お隣の部屋のZさんが亡くなった。孤独死。死後一週間ぐらい経っているらしい」と男に伝えると、男は少し変な顔をして意味のない言葉を二つか三つこぼした。そして、家の中をぐるぐると歩き回り、いつもの定位置にあるパソコンの前に張り付き、黙りこくってしまった。そして、パソコンをいじり始めた。
少し補足すると、この男と女はマンションの四階にある部屋に住んでいる。その部屋の真向かいにもう一つ部屋があり、そこに住むZさんが奇妙な死に方をしたのである。
私は、男の様子から、男がそう遠くはない日に自分も死ぬことについて、ひどく恐れていることを理解した。
毒親とは興味深い生き物である。毒親の子育ては過酷を極めるのだろうか。毒親全盛のころ、彼らは元気だった。負のエネルギーに満ち満ちていた。しかし、もう二十年ぐらい前だろうか、男が会社を辞めたころから「生きる屍」の様相が著しくなった。男は毒親から脱皮すると、変人になった。男は毎日同じものを食べ、毎日同じことをする。一年間、三百六十五日、同じことを繰り返すのだ。この男は、日常生活の変化が止まったあの時から急速に老いていった。
私は男に「何のために生きているのか?」と聞いたことがない。男の生活状況を考慮して、その返答を想像してみると、「もう楽しみはない。でも生きているのだ」辺りに男の返事は落ち着くだろうと思われる。
そんな変化を恐れて、一か所に留まり続ける男が唯一恐れる変化。究極的で破滅的な変化。後戻りのできない変化。死。
私はこの男の死を想像するとき、赤の他人のように排他的な、例えるなら、あの美しい野山を歩き、ふと立ち止まった拍子に靴の底を裏返してみて、毛虫やアリを無意味に踏み殺していたのに気づいたあの感じによく似た印象を受けるのである。
この男に死に際の美学はないだろう。
この男に生きる美学もないだろう。
無意味に生きながられた人間が、誰からも看取られることなく死ぬ。
男はパソコンと睨めっこをしている。あの一瞬に見せた動揺の色はもうない。
男の変わらぬいつもの日常が始まった。
私は男をよそ眼に、レモンのように爽やかに玄関を飛び出した。
今日も楽しい一日が始まる。
二十八
死にゆく父への手紙。
あなたという人は、本当によく分からない人間だった。あなたは、何のために生きているのか。最後の最後まで、傍から見て理解できなかった。
人間の根本問題(何のために生きるのか)を考えるきっかけは、毒親のあなただった。私はあなたを反面教師として、学生の時から、あらゆる学問を手当たり次第勉強してきた。
そうして今、一人の「毒子」として、超越的な境地に達して、精神的な安らぎを得ている。
あなたの孤独と私の孤独は根本的に違う。
あなたの長らく直面している孤独は、あなたを根こそぎ不幸にし、長い思索の果てに到達した私の孤独は、私に心身の安らぎを与えてくれた。そして幸福になった。
毒親の血を否応なく受け継いだ私にとって、唯一克服できない問題がある。結婚し子供をつくることである。
まともな人間ではないと自覚する私は、全うに子供を育て上げる自信がない。つまり、結婚し子供を授かった瞬間、私の胸のうちに隠れ住んでいる鬼が目を覚まし、善良な私を毒親へと変貌させるのではないか、という強い疑念である。
破滅への階段は、取り壊さなければならない。あなたが死んでも、私が毒親になるような負の連鎖は絶対に避けなければならない。
私は、心の中に貫徹する強い正義感に従い、生涯、孤独を貫き孤独を愛し、もって私たちの心の中に住みつく邪悪な者どもを残らず、窒息死させる。
それにしても、私は幸福である。自助努力の果てに心身の安らぎを得た。
毒親を持つのも悪くはない。
二十九
来世での安寧を祈る母への手紙。
宗教というものは、信仰者にどれぐらいの力を与えるのだろうか。
私は無神論者であり、神の力の恩恵を全く感じ取れないので、あなたの存在意義がよく分からない。私の生命力の源泉が学びであったように、あなたの生命力の源泉が、あるときから宗教に傾倒していった。今思えば、それだけの違いである。
昔、神に仕える者が、私に向けて包丁を振り回していた。おかしな話である。
もし天国と呼ばれるところがあるとすれば、私にとっての天国は今まさにここにある現実世界であり、あなたにとっての天国は、神が約束する来世だろう。
私はこれからも、地球上に美しく現れている「天国」を精一杯生きて、心行くまで生活を楽しむ。
かつての毒親が信仰の力を借りて、天国にゆく。摩訶不思議な話だ。
毒親。宗教。天国。
オカルト教団のにおいさえ感じる。
三十
同じ境遇で生きてきたO君への手紙。
もう十年ぐらい前の話だ。
地元の飲み屋で君と飲み交わしたとき、君は深いため息ばかりついていた。私はその理由を尋ねると、会社での理不尽な人間関係に悩み、新卒入社一年目でいきなり、うつ病を患ったと語ってくれた。
私は君の勤める会社の職場環境や人間関係を知らない。しかし、話を聞いて頭をよぎったのは、今、君の目の前に立ち現れている様々な問題が、かつての私たちの生活に強力な負の影響を与えてきた毒親問題の延長線上にあるのではないか、という疑念である。
毒親に育てられた毒子のコミュニケーション能力や社会適応能力は低い場合がある。
私は、君が勉強熱心でまじめな男であることを知っている。君は、資格取得にも熱心で、情報処理技術者の国家資格も有している。
私は、君の現在の姿を知らない。
君には君なりの人生の「勝ちパターン」があるだろう。今ごろ、自分の勝ちパターンを見出して、毒親問題と精神疾患の人生のダブルパンチを乗り越えて、どこかでたくましく生きていると信じる。
三十一
未来の私への手紙。
多様性が認められる世界へ。
個が尊重される社会へ。
毒親に育てられた毒子でも、楽しく生活できる未来へ。
十年後の私は、さらに面白おかしく生きているだろう。
毒親も死んでいるだろう。
あらゆる拘束から解き放たれて、自由と責任を一身に背負い、楽しく孤独に生き抜く。
私の過去・現在・未来。
そして毒親。
広大な海に数滴のインクを落としたように、毒親の影響力は未来に進むについてますます薄れていった。
もはや、過去のもとになった毒親。
毒親はもういない。
私は今、毎日を精一杯生きている。
毒子の私は幸せだ。