一茜の歌集(にのまえあかねのうたノート) あげまき
過ぎにける恋を思ひて独り言つ
東風は
夕菅くゆる
宿るのち
直なるものに
なれぬ暁
《私の真面目訳》
過ぎてしまった恋を思って独り言を言う
あゆの風は夕菅が燻るよ。その「くゆる」ではないけれど泊まった日の正直になれない暁を私は悔いている
《脚色した現代語訳(語り口調)》(今回外部委託してみました!)
君のいた東の風はユウスゲの香りをのせてやってきた
わかってほしくて、気づいてほしくて、まっすぐになれなかったあの頃
もう一度あなたに会えたなら……またワタシはあなたに恋してる
《一応の解説》
東風
東から吹く風。
有名なのは『こち』という読み方で、おそらくその原因は「こちふかば 匂い起こせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ(春の東風が吹いたら花を咲かせなさい梅の花。主人がいなくても春を忘れるなよ)」です。
万葉集の大伴家持の作品では「あゆの風」と読まれている。越の俗語で東風をそう読む。(万葉集より)
余談ですが、東風を「あいのかぜ」と読んだら夏の季語、「こち」と読んだら春の季語になるそうです。(歳時記より)
くゆる
「悔ゆる」と「燻る」の掛言葉。
夕菅
初夏の夕方に花が開き朝には閉じる花。匂いもいい感じ。
直なり
「正直である」の意味の古語
暁
恋の別れの時間というイメージ。和歌で有名なものだと、「有明のつれなく見えし別れより 暁ばかり憂きものはなし(有明の月が素っ気なく見えた。そんな月のもとでのあなたとの別れから暁ほどつらいものはない)」とかでしょうか?
《一解説》
作者の実体験そのままです。
以上!
と言いたいですが恥ずかしながらも話させていただきます。
もちろん、恋は一回で実らないんですよね。どこまでが常識でどこからが私の感覚なのかははっきりしませんが、やっぱり別れ際に次の予定とか立てるんですよ。お互いに会いたいなら。
でもまあ、自分でも分かってるんですが、素直になれずにちょっと一回断ってみて、もう一回誘ってくれたらみたいなこと考えて私はうやむやにしようとして、本当にそうなっちゃうみたいな……
(暁は別れ際を象徴するために使っただけで、茜は朝お別れしたことまだないですけど)
みたいなことやらかして、思い出しながら詠んでました
後悔するときの感覚って振り向く感覚と似てませんか?
風が吹いて夕菅の香りがする。おのずからその方向を向いて、香りの主を探す。そこには今の自分には綺麗すぎる花が咲いており、語りかけてくる。素直じゃないな?って
とまあ半分妄想なんですが∑(゜Д゜)
いつもは、『よき和歌』を選んでネットにあげてますが、今回は私が作りたくなったという衝動だけで作った和歌を選んでみました
でも、私らしさも伝わったら嬉しいです。
ありがとうございました。
追伸
いろいろ思い出して切り上げてましたが、どうして6文字にしてまで最初の5文字に「は」を入れた話をしていませんでした。
もし「は」を入れてなかったら、和歌を読み上げた時に2回切れるところが現れます。そうしたらリズムを失ってしまうので切らないようにしました。
短歌会に参加した時に2回切れるとリズムが悪くなるという考えを知ってはっとさせられました。今回のちょっとした工夫点なのですが、皆様どうでしょうか?
投稿前に読み返して後書きを書いているのですが、いろいろそのままみたいなこと言いながらもリズムも、古典らしさも気にしてるんだからちゃっかりしてるなーって客観視してます。まあまたそうやって逃げてるのかもしれないけど