第94話 【ちいさなきょうだい】
『ヘーターレッ。あソーレ、ヘーターレッ』
「やかましいぞッ、サナダ虫ッ」
『あら、いつもなら腹の立つ言葉なのに、ちっとも効かないじゃない。まるっきりヘタレ男の遠吠えね、プークスクス。あソーレ、ヘーターレッ』
「ヘタレじゃねぇッ。ロリが乱入してきたんだ。仕方ないだろ」
『よく言うわ。ロリちゃんが影から現れるまでの沈黙はどう説明するのよ。あの状況での黙秘は、相手を拒絶したも同然よ』
「……否定はせん。今の僕は、誰ともそういった関係にはならないんだ」
『はいはい、ワロスワロス』
「クッ、てめぇッ」
『なに切れてんのよ、チェリーボーイ。切れたいのはこず枝ちゃんの方なのよ。君、女の子からアレを誘うのに、どれだけ勇気が必要か分かってる?』
「それは……」
『それを断られたときの気持ちがわかる? しかも無言って、君ね……。よくもまあチェリーのくせに、乙女の心を土足で踏みにじれるものだわね。お姉さん軽蔑しちゃうわ。あーあ、こず枝ちゃんかわいそう。お姉さんに身体があったらヨシヨシしてあげちゃうのに』
「わかったッ。わかったからもう止めてくれッ。僕が悪かったッ」
『謝ればいいってものじゃないわよ。まぁ、時間もないし、今日の所はこれくらいで勘弁してあげる。あースッキリした。っと、そろそろ着くわよ』
「よし、気持ちを切り替えるぞッ。《魔導迷彩》ッ」
高速で空を飛ぶ緑色のバトルスーツが色を失い、夜の闇に溶けた。
『行くわよ、ヘタレッ』
「やッかましゃーッ」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「おかあたん……おかあたぁぁん……」
女の子がシクシクと泣いている。
年齢は3才ほど。
よそ行き風の赤いスカートは、あちこちに汚れが付着していた。
薄暗い、広くて寒い部屋だった。
灯りは隣の部屋につながる格子戸から漏れる薄明かりのみ。
周囲には古びた大きな機械が、幾重もの埃を纏っている。
「おにいたん……おうちかえりたいよぅ」
その女の子の背をさする手があった。
「おにいちゃんもかえりたいよ。それより泣きやまないと、また怒鳴られるぞ」
小さな男の子が震える声で言った。
年齢は6才ほど。
どうやらふたりは兄妹らしい。
妹の肩を抱く小さな兄の手も、寒さと恐怖でブルブル震えている。
そのとき足音が聞こえた。
ガチャガチャッ
鍵を開ける音。
兄妹の身体が強ばる。
ガンッ、鉄製のドアが乱暴に開き、大きな男が現れた。
「うるせぇぞ、クソガキ!」
ガッ
男が床にあったアルミ製の一斗缶を蹴る。
ガンガンガンッ
缶は兄妹のすぐ横の壁に当たり、激しい音を立てた。
「メソメソ泣くんじゃねぇッ。こっちの気が滅入っちまうわッ。クソッ、何で俺が子守りなんだよッ。ぶっ殺されたくなかったら静かにしてろッ!」
怒鳴り終えた男は兄妹を睨み付けると、ドアを開けて出て行った。
女の子は目を閉じて、小さな両手で耳を塞ぎ、うずくまっている。
ブルブルと震える妹を、小さな兄は力一杯抱きしめた。
「ユカ、もう大丈夫だぞ。怖い悪者はでていったからな」
小さな兄がそう言うと、妹がゆっくりと顔を上げた。
震えてはいるが、涙は止まっていた。
「おにいたん、ごみんなさい。ゆかがないたから」
「いいんだ。さっきは我慢できたじゃないか。えらいぞ、ユカ」
「うん、ゆかがまんできたよ。こあかったけどなかなかったよ。ねえ、おにいたん」
「どうした?」
「ペディキュア、たすけにきてくれゆ?」
言った妹が、小さな兄を不安そうに見つめる。
小さな兄は返答に窮した。
本当のことを言うべきかどうか。
妹が言ったのは、日曜日の朝、妹が毎週欠かさず見てるアニメ〝ぼっちなペディキュア〟に出てくるヒロインの名前だった。
アニメの登場人物が助けに来るはずが無い。
小さな兄は意を決して口を開いた。
「……ユカ、あれはアニメなんだ。ペディキュアは助けに来ない」
兄の言葉で、妹の表情が固まる。
「こないの? じゃあゆかは……」
でも、と小さな兄は、がっかりする妹の言葉を遮った。
「きっと、かめんドライバーが助けに来てくれるよ」
「かめんどらいばーッ? ほんとうッ?」
妹が目を見開き、見上げた。
その視線の先で、小さな兄は得意げに微笑んだ。
「ああ、ほんとうさ」
〝仮面ドライバー〟は、日曜日の朝、小さな兄が毎週欠かさず見ている特撮ヒーローの名前だった。
アニメとはちがって、〝ほんもののヒーロー〟がでてくる、〝ほんとうのはなし〟だ。
自分達が置かれている状況は、その番組でよくあるシチュエーションだった。
小さな兄は、安心していた。
必ず仮面ドライバーは助けに来る、だけど。
ずっと高いところにある窓を見上げる。
そこから見えるお外は真っ暗になっている。
ここに来たときは、明るい光が差していた。
つまり、ふたりがこの場所に閉じ込められて、もう何時間も経過しているのだろう。
テレビでは15分と待たずに仮面ドライバーが助けにくるのに。
それを考えると、小さな兄はだんだんと自信がなくなっていった。
もしかしたら、仮面ドライバーなんて……。
「――おにいたん」
ビクッ、妹の声に小さな兄の心臓が跳ね上がった。
もしかして、不安な気持ちにさとられてしまったのか。
そんな小さな兄の顔を覗き込み、妹が言った。
「ゆか、おなかすいた……」
どうやら小さな兄の不安に気付いたわけではないらしい。
言われて気付く。
いつもならとっくに晩ご飯を食べている時間……いや、とっくに眠っている時間だろう。
小さな兄のお腹が、グーッと大きな音を立てた。
最後に口にしたのは、ここに来てすぐ男達が投げ渡したあんパンだった。
そのたったひとつのパンを、ふたりは半分こにしたのだ。
あ、そういえば。
小さな兄はハッと気付いて、ポケットをあさった。
「あった!」
取り出したのは、ひとつのあめ玉だった。
「ほら」
小さく笑い、小さな兄が妹へあめ玉を差し出した。
妹が明るい表情になる。
うれしそうに手を伸ばして、止めた。
どうした、と訊く小さな兄へ、妹は不安そうに尋ねた。
「……おにいたんは?」
お兄ちゃんの分はあるの?
妹はそう言ったのだろう。
やさしい子だ。
そう、この妹は、ずっとやさしい子だったのだ。
小さな兄は、こんな状況になって、初めて、いろいろなことに気付いた。
「いいんだ。おにいちゃんはおなかいっぱいだから、ユカがたべな」
「うんッ!」
くしゃッと妹が笑い、不器用にあめ玉を袋から出すと、両手を使い、ぎこちなく口へ放り込んだ。
シンと静まった室内、カラコロとあめ玉の転がる音だけが響く。
「おいしいか?」
その言葉に、妹はにんまりと笑い、大きく頷いた。
妹の笑顔を見ると、小さな兄の心は温かくなった。
この妹のことが、ずっと大嫌いだったはずなのに。
この1年で歩きが達者になった妹は、小さな兄がどこへ行ってもついて来た。
そして、小さな兄が何をするにも一緒にやりたがった。
積み上げた積み木はいつも壊すし、上手く描けた絵をぐちゃぐちゃにされたこともあった。
しかも、何かあったらすぐにワンワン泣いて、そのたび小さな兄は、大人から叱られるのだ。
おとうさんもおかあさんも、妹のことばかりかまった。
小さな兄は、いつもさみしい思いをしていた。
妹なんかいなくなってしまえばいい。
何度そう思ったかわからない。
でもここへ連れてこられ、泣きじゃくる妹を見て、小さな兄は思った。
『ユカをまもらなきゃ』
小さな兄は自分で驚いた。
彼は、いつも自分の邪魔をする泣き虫な妹のことを愛していたのだ。
妹に何かあったら……。そう思うと身震いがする。
助けに来る。仮面ドライバーはぜったいに助けに来るんだ。でも……
(それまでは、ぼくがユカをまもるんだ)
ガシャーンッ
そのとき扉の向こうから、ガラスの割れる大きな音がした。
「な、なんだッ。警察かッ? 源、ガキ共を連れてこい。リュウ、返事をしろッ。どうした、リュウッ。クソッ」
悪者のひとりが大声を上げた。
悪者はぜんぶでさんにんいたはずだ。
小さな兄妹を攫うときに車を運転していたのが〝リュウ〟と呼ばれる男だった。
その〝リュウ〟になにかあったらしい。
妹が小さな兄にしがみついた。
「おにいたん!」
「だいじょうぶ、きっとかめんドライバーが来てくれたんだ」
小さな兄が妹を抱きしめたとき、ガチャガチャと鍵を開ける音が聞こえた。
仮面ドライバーだッ。
小さな兄は歓喜し――絶望した。
入ってきたのは怖い悪者だった。
「ガキ共、騒ぐなよ」
手には大きな刃物を持っていた。
奥の部屋から男の焦ったような怒声が聞こえる。
『チクショーッ、身体が動かねぇッ。一体どうなってやがるッ。――クソッ、人質に手を出さねえと思ってやがるッ。ナメやがってッ。オイッ、源ッ!――』
ただならぬ事態に、妹が小さな兄の背中に隠れた。
「おにいたん、こあいよぉ」
次に聞こえた悪党の怒声で、小さな兄の顔から血の気がサァと引く。
その恐ろしい言葉は、小さな兄に〝ある未来〟を見せたのだ。
『――かまうことねぇッ、見せしめにひとり殺せッ!』
最悪で絶望的で、そしてリアルな〝妹のいない未来〟を。




