第67話 【この御神託、どちゃくそ腹が立つ!】★
――『佐々木春香様へ このヘタレ男はヘタレのくせに、それはそれは頑固アルね。なので素直になる魔法をかけておいたアルよ。効果は12時間継続するアル。その間記憶がないから、煮るなり焼くなり、後生大事に取ってある腐りかけた貞操を奪うなり、好きにするヨロシ』
手紙の前半には、こう書かれていた。
間違った中国風口語体や、失礼な言葉にもイラッとしたが、妙に丸っこくて可愛い文字なのが、さらに神経を逆なでした。
加えて腹立たしいことに、礼二郎の女性経験をしれっと暴露している。チクショーめ!
この手紙は、礼二郎が春香に渡したものらしい。
礼二郎は今、車の中でそれを読んでいる。
ホテルではなく、今読んでいる理由は、春香が催眠状態の礼二郎を連れホテルに入る際、手紙がポケットに入ったままのアウターを車に置いていたからだ。
差出人はもちろん、あのなんちゃって占い師――インチキ女神である。
イライラしつつも、続きに目を通す。
――『ちなみに、このヘタレ男の家に連絡する必要はないアルよ。ワタシうまいことやっとくから心配いらないネ。この男の携帯ととんでもなくダサい財布は、それに使うアル。紛失したわけではないネ。警察に言わないで欲しいアル』
なるほど、この手紙中盤に書いてある通り、財布と携帯は見当たらなかった。
もうひとつ――イライア謹製の護符も見当たらなかったが、これは言う必要があるまい。
「礼二郎君が戻って、すぐにその手紙を読んだの。それで電話をかけてみたんだけど、つながらなかったわ。電源が落とされてたみたいね。ちょっと! なんで車線変更させてくれないのよぉ! ウィンカー見えないの!?」
と、ガチガチに緊張してハンドルを握りしめる春香がクラクションを鳴らしながら言った。
運転に不慣れなようで、高速道路には上れないらしい。
隣の礼二郎へ顔を向ける余裕も無さそうだ。
盗まれたファッショナブルなサイフに携帯電話にイライアの護符。
あの女神め、一体どう使うつもりなのだろうか。
それにだ。
(家に連絡しなくてもいい、だって?)
どういうことだ?
まさか、あの女神が直々に事情を説明しに?
『お邪魔しま~す。礼二郎は、他の女と楽しい一夜を共にしていますよ。なので、ご安心くださいね。ではごきげんよう~』
なんて爆弾(発言)を放り込むかも知れない。
……あり得る。
あのインチキ女神なら、これに近いことを言うに違いない。
そして、その言葉は悔しいことに嘘ではないのだ。
愚妹に知られようものなら、一気にご近所さんへ拡散することだろう。
夕食に赤飯をだしてくるかも。
皆の冷たい視線に晒されながら赤く炊いたもち米を食べるシーンを思い浮かべ、身ぶるいしつつも、手紙の続きを読む。
――『最後に、佐々木春香さん』
すこしスペースを空けた手紙の後半、今まで違う文体でこう始まっていた。
ここから先に綴られているのは、春香個人に対しての言葉だろう。
「春香さん、最後の文章は僕が読んでも……」
礼二郎は、運転中の春香に声をかけた。
自分が読んでいい物かどうか、判断に迷ったからだ。
なにせ、この先の言葉は、曲がりなりにも春香個人に宛てた『神の啓示』なのだ。
「いいの。君にも関係してるかもだし。あれ!? この先どうやって右折すんのよぉ!」
春香の恐ろしい言葉を聞くと、礼二郎は再び手紙に視線を落とした。
が、読んでも礼二郎にはチンプンカンプンだった。
そこには、こう書かれていた。
――『あなたはこの先、二つの愛のうち一つを選ばなくてはならない場面に遭遇します。一生を左右する大きな決断です。しかし、これから先の行いで自分に恥じることがないのならば――これから悔いのない行いをするのならば、自信を持ってお選びなさい。どちらを選ぶにせよ、最後には神の祝福があることでしょう。わたくしが保証しますわ』
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「ここでいいの?」
路肩に寄せることなく車線ど真ん中に車を停め、春香が言った。
時刻は午前9時。礼二郎の家から一区画離れた人気のない場所だ。
「ああ、ただでさえ朝帰りなのに、これ以上、その……」
礼二郎は春香を傷つけない言葉が見つけられず、いい言いよどんだ。
「これ以上トラブルを起こしたくない、ってことね」
春香が礼二郎の心を正確に読み取り、言った。
その表情は意外なほど穏やかだった。
「……すまない」
礼二郎は下を向いた。
どんな表情で春香を見ればいいのかわからなかった。
「君の心がわたしに向いていないことは、わかってる」
「…………」
「でもいいの。だって君の目は、わたしを見てくれているわ。初めて会った日よりずっとまっすぐにね」
「春香さん、僕は……」
礼二郎が顔を上げると、春香の右手がその顔に添えられた。
決して力強くない、なのに決して抵抗できない不思議な力で引き寄せられる。
そして――ふたりの顔が重なった。
ブワッ! マグマのように熱い唇から礼二郎の心へ大量の情報が、想いが流れ込む。
――数秒の後、春香は顔を離した。
「不思議ね。人を好きになるのは時間じゃないんだって、この年で知ったわ。なら……」
春香がニコリと笑い、言った。
「なら、わたしにもチャンスはあるわ。――そう思わない?」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
礼二郎が車から降りると、春香は車を発進させた。
(離れたくない)
春香は無理とわかっていつつも、そう感じていた。
アクセルを踏む足が必死の抵抗を試みる。
だが春香のやるべきことは、ここで立ち止まることではない。
必死にアクセルを踏み、スピードを上げる。
バックミラーに映る少年の姿が次第に小さくなっていく。
離れていく少年の姿を見ながら、春香が左手の人差し指で、唇にそっと触れた。
そこにはまだ少年の感覚が残っていた。
夢にまで見た、礼二郎とのキス。
重ねた唇から流れ込んできたものは、深く大きな愛であった。
しかし、それは――
「……礼二郎君」
春香はひと言呟いた。
するとダムか決壊したかのように、想いがあふれ出す。
少年の姿が完全に見えなくなる頃、春香の瞳から、とめどなく涙がこぼれ落ちる。
「礼二郎君! 礼二郎君! 礼二郎君! うわぁぁぁぁぁぁ!」
春香は運転しながら、大声で叫んだ。
涙がポタポタと、三日前に買ったばかりの服へ染みこんでいく。
礼二郎から流れ込んだ温かい愛情は、春香に向けたものではなかった。
その相手は、手編みのマフラーを送った女性に違いない。
なぜか春香には、相手がイメージできた。
キスをしたときに、きれいな女性の映像が浮かんできたのだ。
春香はこんな不思議な体験を、どうしてだかすんなりと受け入れ、その女性が礼二郎の想い人だと確信した。
あんなに強く想われている、あんなにきれいな人に勝てるだろうか……いや。
「……いいえ。違う。違うわ。勝ち負けなんて!」
春香は己の心に湧き上がろうとする想いを抑えて、言った。
『愛する人に愛されたい』という欲望を強い意志でねじ伏せた。
「わたしは見返りを求めたりしない」
春香は涙を拭って、自分に言い聞かせるように言った。
春香の手編みのマフラーは、見返りが欲しくて編むわけではない。
春香は礼二郎と、彼の両親のお墓に参ったときのことを思い浮かべた。
墓の前に立つと礼二郎は、誰ともなしに話しかけるように言った。
『……僕は幸せになっちゃいけないんだ』と。
それから涙を流しながら、大声で両親に謝り続けた。
事故の後どんなことがあって、どんな思いで暮らしていたのかを、泣き叫びながら話した。
ところどころ、アニメや映画の話と混乱しているのか、魔法だのダンジョンだの意味不明な部分もあった。
だが少なくとも、大本の気持ちに嘘はないと春香は感じた。
礼二郎は己を罰するように生きてきたのだ。そしてこれからも。
春香の知る、大人顔負けに落ち着いたいつもの礼二郎が、そのときだけは年相応のーーいや、小さな、本当に小さな子供に見えた。
春香は気がつくと無意識に抱きしめていた。
我が子を慈しむ親の愛ーー春香の心に、それに近いであろう感情が湧き上がる。
少年は春香の胸で、長い時間、子供のように泣き続けた。
ずっとひとりで、甘えることのできなかった子供が、長い旅路の果てにようやく母の胸へ包まれたかのように。
「礼二郎君……」
礼二郎は、そのことを覚えていない。
春香は、そこであったことを礼二郎に話さなかった。
ただ黙ってお墓の前に立っていただけ、と嘘をついた。
話しても礼二郎の負担が増すだけだと思ったからだ。
これは春香だけの秘密だ。
春香だけの思い出だ。
そして礼二郎を抱きしめていたそのとき、春香のやるべき事がわかった。
『あなたがやるべきと思ったことを信じて行いなさい』
占い師のいった言葉はこれだ、と春香は確信した。
春香がそのときに決意したこと――春香がやらなければならないことを、あの占い師は予言したのだ。
「……大萩源太、ね」
春香は怒りに燃えた表情で、なぜか礼二郎の兄の名前を呟いた。
「いけない、いけないわ! まだ証拠があるわけじゃないのよ」
一度、深呼吸をした。
それでもまだ怒りが収まらない。
ただでさえ運転が怪しいのに、このままだと事故を起こすかもしれない。
それほど春香は、頭に血が上っていた。
そのとき、ふと気付き、ポケットの金貨を取り出す。
すると、気持ちがスーッと落ち着いた。
まるで最初から怒ってなかったかのように、心が静まる。
「やっぱり、このコインって不思議だわ……」
好きな人にもらったから、という理由だけでは説明がつかないほど、神秘的な力を感じる。
「はぁ、それにしても……」
冷静になると、ため息をついた。
「あんなに年上で、きれいな人だなんてね」
春香は、長い黒髪の日本人女性を思い浮かべ、呟いた。




