6:洗礼の日
母が倒れた。理由はよくわからない。義父の仕事を手伝っているうちに、はやり病にかかったのか、それとも慣れない家事で体調を崩したのか。もしくは、その両方かもしれない、と考えていた。
ある時、母に呼ばれた。
ベッドで臥せっている母は、以前よりもずっと、痩せこけて、別人のように見えた。
「リーズ、きてくれたのですか。突然呼んでごめんなさいね」
「うん……」
やめて! わたしは心の中で叫んだ。そんな気弱な母を、母だと認めたくはなかった。
「呼んだのはね。あなたには、話しておきたいことがあって。もしかすると、私はもう長くはないのかもしれないから」
わたしは黙っていた。こんなのは母ではない。もっと、威厳があって、声を発するだけで、体の底から震えあがるような、そんな人だったはずなのに。
「いろいろと、厳しい事を言ってきましたね。それは全て、あなたを王都の騎士にしたいと思えばこそでした。今、あなたにその理由を話します」
わたしは、黙っていた。動揺を隠すのに必死だった。今の母の言葉なんて、聞きたくないと思った。でも、母は自分の言葉に酔うように、目を潤ませて話しはじめた。
「あなたのお父さんは、有名な騎士でした。洗礼を受けてすぐに、その実力を認められ、歴史でも最年少で王都に配属された。その名は王国全土に轟き、知らないものなどいない程でした。有能な騎士は、若いうちから王国の各拠点を転々とし、経験を積むもの。私とお父さんが出会ったのは、村の近くの駐屯地にお父さんが配属されてきた時です」
母は大きくため息をついた。まるで昔の自分に戻ったように、純粋で、若々しい顔をしていた。でもそれは、まったく、今の母の姿に似合ってはいなかった。
「村に視察に来たお父さんを見て、すぐに分かりました。私とあの人は一緒になる運命なのだと。私は自分でも驚くほどに素早く行動を起こし、両親に頼みこんで、夕食にお誘いしました。あの人と言葉を交わせば交わすほど、自分の正しさを理解し、あの人も、わたしと同じ気持ちだったようです。二人の恋は瞬く間に燃え盛りました。けれど、別れのときはすぐにやってきます。あの人は私を必ず迎えに来ると約束して、遠くの駐屯地に向かいました」
天井をうっとりと眺めていた母は、そこではじめてわたしを見た。
「あなたがお腹にいると気づいたのは、あの人が遠くへ行ってしまって、しばらく経ってのことでした。わたしは、命に代えてもあなたを大切に育てようと決めました」
母はそういうと、涙を流した。再び天井を見て震える声で続けた。
「でも、運命というのは残酷なもの。しばらくして、王国の領地に凶悪な魔物が攻め入り、遠方で配属されていたあの人も招集されました。それほどに、厳しい戦況でした。激しい戦いの末、魔物は撃退することができたけれど、あの人は帰らぬ人となってしまいました。あなたを騎士にしようと思ったのはそれから。あの人に恥じない、強い騎士になってもらおうと思ったのです。たとえそれが、娘だとしても、どこに出しても胸を張って、あの人の子だと言えるような騎士に育てたかった」
わたしは黙っていた。母がなにを喋っているのか、頭では理解していても、体では、心では、受け入れることができなかった。
なんて、なんて、くだらない。
母は泣いていた。まるで悲劇のお姫さまのようだった。
「ごめんなさい。あの人ことを思い出したら、悲しくなってしまいました。あなたに厳しくすることばかりを考えて、今までどうしてあなたに騎士になって欲しいのか、話していなかったから、わたしが居なくなる前に、伝えておこうと思って」
「はい……」
わたしの口からようやく言葉が出た。早く終わって欲しいと思っていた。
「でも、こうやって、病で臥せっていると、それが正しかったのかどうか、考えてしまうの。娘を騎士にすることは、ほんとうに正しいのかわからないのです。リーズはどう思いますか? あなたにもやりたいことがあるのですか?」
わたしは今すぐにでも、この部屋を出て行ってやりたいと思った。けれど、体は動かなくて、早くこの話を終わらせる方法を考えていた。
「お母様は、疲れているのですよ。お休みになってはいかがでしょうか」
「そう? でも、今、あなたと話し合っておかなくては、わたしが死んでしまったあと、どうなってしまうのか、そんなことばかりを考えてしまって」
「わたしのことは心配ありません。だから、お休みになってください」
「そ、そうね。リーズ。ありがとう。今日は眠ることにしましょう」
母はいい終わると満足したように目を瞑り、やがて安らかな寝息を立てた。
わたしは、母の部屋を出て、いっそこのまま、ベッドから起きなければいいのに、とまで考えて、自分が恐ろしくなった。
母の病状は回復へと向かった。わたしの予想は的中した。過労に、流行性の病が重なっただけだと、義父が言った。
くだらない。とわたしは思った。長くないかもしれない。なんて事を言って、結局これだ。わたしはまた、いつも通りの生活に戻った。
ただぼんやりと、母に言われた手伝いを繰り返すだけの生活。訓練に比べたら、ずっと楽なはずなのに、苦しさばかりが募る生活が続いた。
わたしが、洗礼を受ける日が近づいていた。
ある時、義父がわたしを呼んだ。台所のある居間に向かうと、テーブルに母は義父の二人が並んで座っていた。二人とも、優しげに微笑んでいた。
「なんでしょうか?」
わたしは、できるだけ考えていることが顔に出ないように喋った。何故呼ばれたのはわかっている。洗礼のことだ。
「洗礼の日が近づいていますね」
母がにこやかに行った。病気が治ってからというもの、以前にもましてわたしの嫌いな顔になったと、つくづく思う。
「はい」
「わたしも、お父さんもこの日が来たことをとても喜んでいます。ねえ、あなた」
母に促されて、義父が優しげな声で、
「そこで、リーズに話があるんだ」
といった。
「これまで君が、騎士となるために厳しい訓練を積んできたことは知っている。だが、わたしとしては、君の自由意思を尊重したい。騎士になりたいというのであれば、その道を選んでも止めはしないが、君は女の子だ。やりたいこともあるのだろう。わたしは、君に、未来を自由に選んでもらいたいと思う」
「ということです。わたしも、申し訳ないと思っています。お前を厳しくしつけてきたことは、間違いではないと思っているのだけれど、でも、騎士が必ずしも、人生のすべてではない。そうよね?」
「うん、その通りだ」
そう言って、二人は顔を見合わせてほほ笑んだ。こんなに嬉しそうな母の顔を、わたしは知らない。
「私は病気になってからというもの、ずっとあなたの将来について考えていました。そして、この人と相談して、ようやく決心がつきました。今度の洗礼では、あなたの好きなように自分の道を選びなさい」
「急にこんなことを言われて、驚いているかもしれない。でも、これは私の願いでもあるんだ。自分の道を自分で選ぶことこそが、これからの世界に必要なことなんだ」
「そうですね」
「できれば、私のような医者を目指してもらったら、嬉しいんだけれどな」
「まあ、お医者さまの仕事は大変でしょう? 今から間に合うかしら」
「間に合うさ。こんなに聡明な子は見たことがないからね」
「ふふふ、ですってよ」
母がほほ笑みながらこちらを見た。わたしは、奥歯をかみしめて怒りを押し殺した。
なにが、自分の道を選びなさい、だ。今まで母のいうとおりに生きてきた。その仕打ちが、これなのか。
「はい。少しだけ、考えさせて下さい。お医者さまというのは、今まで考えたこともなかったことですが、わたしにもできるものなのでしょうか」
それでも、わたしは仮面を外すことができない。相手の意に沿うような言葉が口から出ることを止められなかった。
「大丈夫さ! 洗礼までには時間がある。じっくりと考えてみて欲しい。もしもわからないことがあるなら、わたしに聞いてくれたら応えるよ」
義父が笑顔で答える。いやな笑顔。もう顔を見たくない。
「ありがとうございます」
わたしは、二人に背を向けて、自分の部屋に戻った。扉が閉まった途端、怒りで涙が出た。その涙は、長い間止まらなかった。
くだらない。くだらない。もう、なにもかも、どうでもいい。
わたしは繰り返し繰り返し、そう呟いていた。
一夜あけると、わたしは、何事もなくいつものように朝食のテーブルへと向かった。わたしの人生なんて言うのはどうでもいいのだと、投げやりな気持ちになっていた。
どうとでもなれ、医者にでもなんでもなってやる。
そう考えると、気が楽になった。誰かのために、心を痛めるのは自分が苦しいばかりでなんの役にも立たない。わたしは、もう、何物にも心を動かさないのだと、固く誓った。
そうすると、月日のたつのは早い。気がつくと、洗礼の時が迫っていた。
前日の夜、義父に声を掛けられ、改めて、医者を目指すかどうかを聞かれた。医者に必要なスキルはさまざまだが、最近では回復魔法を組み合わせた治療法が流行しているらしい。医者を目指すのであれば、魔術を勉強する必要があり、とても大変だ、と言われた。
わたしはうつむき加減に(あまりの演技に賞を挙げたいほどだ)どもりがちに、
「はい。わたしにできるかどうか分かりませんが、やってみようと思います」
と応えた。義父は嬉しそうに笑った。
翌日、朝早く準備をして、教会へと向かった。わたしと同い年らしい子たちが、列を作っていた。
洗礼は驚くほど簡単だった。聖職者の前に出て膝をつき、祈りの姿勢を取る。すると聖職者が頭に手をかざし、呪文を呟く。たったそれだけで、ステータスを開くことができる。
わたしは、なにも考えないようにして、聖職者の前で膝をついた。
何事もなく洗礼が終わり、わたしは教会を出た。試しにステータスを見ようとして、異変に気づく。
顔が固まって動かない。目の前の透明の板に、母の顔が映っている気がした。わたしにきつい仕置きをした昔の、あの恐ろしい母の顔だった。
「うっ……」
吐き気がして、必死に口をふさいだ。体のなかのものが暴れ回っているような気がした。吐き気が酷くなり、地面にうずくまる。様子がおかしいわたしの周りに、人が集まってくる。
これは、かつての母の呪いだ。わたしが、医者になろうとするのをやめさせようとしているんだ。ぼんやりとした頭でそう考えた。
いやだ。いやだ。いやだ。
わたしは立ち上がって、人だかりを押しのけ、走り出した。
母の顔が、頭から離れなかった。
だから、足を動かし続けた。走ることで、母の、あの恐ろしい顔が消えてくれることを願って、どこまでも、どこまでも走った。
いつしか日が沈んで夜になって、また日が登った。それでも走り続けた。ただまっすぐに。やがて、深い森に入り、わたしはようやく立ち止まった。
喉が渇いていた。遠くで川の流れる音がして、わたしは、棒のようになった足をほとんど意識もせずに動かして、音の方へと向かった。
ひざから崩れ落ちるように、川に頭を突っ込んで、水を飲んだ。あまりに急いで飲み過ぎて、大きく咳こむ。
川から顔を挙げると、森の中を見廻した。
わたしは、もう、村に戻る気はなかった。