20:天使と悪魔
わたしはようやく死ぬ。
今までいろいろと苦労はして来たつもりだけど、今日が一番長かった気がする。それが今、終わろうとしていた。
天使の指は、まるでわたしの命をもて遊ぶかのように、ジリジリと力がこもっていった。
呼吸できない苦しさは知っている。幼いころに川投げ込まれた時、死ぬよりも苦しいことがあるのかと、心から思った。
苦しみとともに、わたしを死の恐怖が襲う。意識もだんだんと薄れかけていた。
わたしを見上げる天使の表情は、嬉しくて仕方がないといった感じだった。人を殺すことに何のためらいも持っていない。人でないものというのは、そういうものかもしれない。
「おいおい、ずいぶんとひでえ状況じゃねえか」
どこからともなく声がした。
次の瞬間。黒い塊が天使に向かって飛び込んできた。
「ぬう!?」
天使が態勢を崩して、わたしの首から指が離れる。そのまま地面に落下するわたしを、なにかが受け止めた。
「貴様は……!?」
え……?
わたしは、その声の主を知っていた。
わたしが、一度会って文句を言ってやりたいと思っていたあいつが、あの頃と変わらない声と姿でそこに居た。
「人間に手を出すってのはご法度だろ?」
「貴様は、まさか、ル――」
天使が何かを言い淀むように言葉を詰まらせた。
「お、今俺の名前を言おうとしたか? そうだよ。正解だ。ルシだよ、ル、シ。ほら、言ってみろよ」
ルシ。そう、それがあいつの名前だ。近くに居た時は、あんた、とかバカ、なんて呼んでばかりいて、ほとんど口にすることのなかった名前。
「なんだ? 言えねえのか。あー、わかった。またお前らお得意の掟だろ。掟、掟、掟、そうやって自分たちを縛って楽しいのかね」
「……一体、何の用だ」
天使の声色に焦りがみえた。正直、わたしにはなんのことだかわからない。それでも、二人が何らかのつながりを持っていて、天使があいつのことを警戒しているということだけは分かった。
ルシと名乗ったあいつは、わたしを地面に降ろして――え? 降ろして? 今、抱きかかえられてたってこと? それって、どういうこと?
……まあいいとして。よくないけど。いいとして。
ルシは、わたしの前に立ち、天使と向かい合っていた。
「これ、お前がやったのか? 派手にやらかしたもんだ。上のやつらはこのこと知ってんのかよ? 知らねえよな。知ってたらお前消されてるはずだもんな」
「貴様には関係のないことだ」
天使の動きは、迅速だった。ルシの言葉に応えると同時に、手のひらにいくつもの光の球を発生させ、飛ばす。次の瞬間にはわたしの視界は光の球で埋めつくされた。
だけどルシは動じない。手をかざし、その光の球を受け止める。光の球は手に触れた瞬間に消滅した。
こちらを睨みつけている天使の顔がゆがんだ。
「え? もしかしてそれで俺を消せると思ってんの? そりゃ無理ってもんだろ。やるなら本気でやれよ」
そう言いながら、ルシは、わたしから離れ、天使に向かって足を踏み出す。
「反逆者が!!」
「それはお前だろ。今やってることを考えてみろよ」
天使が怒りの表情を浮かべ、周囲に無数の光の球を発生させる。さっきよりもひとつひとつの球が大きい。両手をこちらに向かって振り上げると、光の球がルシに向かって殺到した。
だけど、それも同じことだった。どんな方向から来ても、ルシは的確に光の球をとらえ、腕で、あるいは手のひらで触れ、球を残らず打ち消してしまう。
「なんかつまんねえな」
ルシはそう呟いて、右腕を高く上げた。その腕が黒く染まり、掲げた手のひらの先に、黒い球体が現れる。
地面から上空に向かって突風が吹き荒れた。ルシを中心に、魔力の渦が発生し、黒い玉に吸い込まれるように、大きな流れが生み出される。
わたしはあまりの風の勢いに、身を伏せた。
ルシの頭上の黒球は、次第に大きくなっていく。
「正気か!? ここでその力を使えば、貴様自身ただでは済まないぞ!!」
「知るかよ。全力を出せる時なんて滅多にねえんだ。遊ぼうぜ」
球体はさらに大きさを増し、空を覆っていく。それは、ついさっき空から降ってきた光の球よりもずっと、巨大で、禍々しい空気を纏っていた。
「やめろ!! この国そのものがなくなってしまう!!!」
ルシの動きが止まった。
「そうか、なくなるのはまずいな。うん。ちょっとやり過ぎた」
一瞬で、空を覆っていた黒い塊が消えた。
「すまん。久々に全力でやりあえるかと思ったら嬉しくなってな」
ルシの言葉に遠目で見ても、天使が唖然としていることが分かった。
でも、わたしは知っている。こういうやつなのだ。ルシという男は。自分の行動によって、なにが起こるかなんて考えもしない。人の話を聞かないし、周りの状況を見ようともしない。それでわたしがどんなに苦労したことか。
「……なぜ、人間を庇う」
天使がゆっくりと、丁寧に、言葉を発し、ルシに問いかける。先程の明らかに異常な行動で、ずいぶん警戒しているらしい。
「かばう? 俺が? ああ、そうだっけ? どうなんだろうな。俺はさ、こいつに死んでもらいたくないんだ。それだけ。別に人間がどうとか考えたこともない」
こいつ、というのはわたしのことだ。相変わらず人の名前を呼ばない男だ。だからわたしも名前で呼ばない。
「ならばなぜ邪魔をする? 私はその人間が持っている石を回収できればよいのだ」
「ふうん」
ルシはそういうと、振り返ってわたしの顔をみた。
「おい、あいつはそう言ってるが、渡す気はあるのか?」
へ? わたし? この段階で、わたしに何か言えることってあるの? 今、まさに殺されかけたんだよ? 石を渡して、はい、それで終わりってならないでしょ?
……ってことが、わからないんだろうなあ。
この状況で、ルシがどちらの側に立つのかわからない。あいつの考えは今まで一度だって理解できた試しがないし、今この状況で、どのような答えを期待しているのかもわからない。
でも、わたしの言葉は決まっていた。
「やだ」
言葉に迷いはなかった。たとえ、ルシが石を渡せと言ってきても、自分の決断を譲るつもりはなかった。
「まあ、そうだろうな」
そう応えたルシの表情は少し嬉しそうに見えた。
「というわけで、交渉決裂だ」
「何故だ。石をわたせば済むことだ」
「違うんだなあ。この話はお前とこいつの話で、俺はその仲裁に入っただけ。こいつが渡さねえっていうんなら、その話は終わったんだよ」
天使は明らかに混乱している。ルシという男は、まともな会話をする相手として正しくない。この男は、自分の決めたことを絶対に譲らないのだ。
天使とルシが、長い間向かい合ったまま、時が過ぎて行った。
「うーん。これじゃらちが明かねえな。ひとつ提案させてもらって良いか」
沈黙を破ったのはルシだった。
「貴様の要求を受け入れる気は一切ない」
「まあそう言うなって、いつまでも睨み合ってるわけにもいかねえだろ。俺たちが決着付けようとすれば、ここら一帯は消えてなくなるし、こいつも死ぬ。なるべく死なないようにはしてやりたいが、おそらく無理だ。あ、後は、上のやつらに気づかれるかもしれねえな。おれはどうでもいいけど、お前は困るだろ? そこで提案だ」
天使は黙って聞いている。
「代理戦争といこうじゃねえか。俺はこいつを出す。お前は誰か適当な人間を連れてこい。お前の用意した人間が勝てば、石が手に入る。こちらが勝てば見逃す。誰を送り込むかは自由だし、人数は問わない。ただ、おれたちは一切手を出さない。これでどうだ?」
「……くだらんたわごとを」
「だがそのたわごとに、お前は付き合わざるを得ない」
天使が黙り込む。場はすでにルシが支配していて、あいつの思い通りだ。
「ふん。だが、その提案が破られぬ証拠はない。貴様が手を貸す可能性もある」
「おう。確かにそうだ。ごもっとも。だがこれなら……?」
ルシは手のひらを掲げると、そこに見たこともない文字が浮き出し、円を描いて浮んだ。
「まさか……貴様……!?」
「我、盟約にそむいた時、自らの魂をささげん」
輪がルシの首に巻きつき、文様が浮かび上がる。
「これでどうだ? 誠意を見せることができたか?」
「バカな!? その人間のために命をささげようと言うのか!?」
「おれの命をどう使おうが勝手だろ。強いて言うなら、面白そうだから、だな」
「やはり貴様のやることは理解できん」
「だから追放された」
天使はしばらく考えるようなしぐさを見せ、やがて口を開いた。
「よかろう。では、盟約に条件を加えろ」
「どうぞご自由に」
「一つ、手を貸さないという条件ではぬるい。この国の領地に一切の手を加えないことを誓え。二つ、私の用意した人間が勝ち、この件が終わったら、速やかに私の領地から去れ、そして二度と現れるな。三つ、上には絶対にこのことを口外するな」
「どうせ三つ目が一番なんだろ」
「黙れ。この条件が守られなければ、提案は全て受けぬ」
その声には厳しさがにじんでいた。ルシの出す条件への精一杯の反抗にも見えた。
「わかった。では、時間はこちらに決めさせろ」
「いつだ。待つ気はないぞ」
「次の新月が開けた時。暗闇に紛れて戦ってもつまらない。日が登った後に来い。こちらが準備して迎え撃つ」
「よかろう。反逆者よ。私を相手にしたことを後悔するなよ」
「後悔したことなんざ、今まで一度もねえよ」
「覚悟しておけ」
天使が光に包まれ、その強い光に、わたしは目を瞑った。再び目を開いた時には、天使は居なかった。
周囲に静寂が訪れ、焼き払われた空白地帯に、わたしとルシ、二人が立っていた。
……いったい、なにが起こったんだろう?
状況が飲み込めないまま、わたしはルシの背中を見つめた。
そこでハッと気づく。わたしは、目の前で繰り広げられたことに茫然としていて、大切なことを忘れていた。地面に転がっているメルルクのそばに駆け寄り、体に触れる。
やはり、というべきか、本来あるべき鼓動がそこにはなかった。間違いなく、死んでいた。
「ごめんね……」
不思議と涙は出て来なかった。ただ自分の無力さが身にしみた。
「安心しろ」
ルシがわたしの隣に座って、そう言った。
「どういうこと?」
わたしの言葉には応えず、ルシは口のなかで聞きとれないような小さな声でなにかを呟きながらメルルクの体に触れて、何度か撫でた。
すると、メルルクの身体から黒い霧のようなものがしみだしてきた。ルシはその霧を手で払うようなしぐさをする。黒い霧は、ルシが手で払う度に薄くなり、やがて、なにも出て来なくなった。
「悪いな。苦労かけた」
そう言って、ルシはメルルクから手を離した。すると、死んだはずの体がわずかに動いた。そしてメルルクは、まるで、今眠りから覚めたように顔を挙げて、周囲を見渡した。
四本の足で立ち上がり、自分の状況を確かめるように、わたしに近づいてきた。
「キュウ!!」
わたしは状況が理解できずにあいつの顔をまじまじと見つめた。
「なんなのよ、あんたも、さっきのやつも」
「さあてね」
「もうだめ、理解できない。なんなのよ! なんなのよ! わかんない!」
わたしは自分でもよくわからないことを言っている。ただ、とっても、身体が重くなって、いまにも倒れてしまいそうだった。
きっと、いろいろなことがあり過ぎて、精神的に、もう、限界だったのかもしれない。
「寝てろ。後でゆっくり説明してやる」
あいつの言葉を全部聞く前に、わたしの意識は遠のいていった。地面に倒れる前に、あいつの腕が背に触れた気がした。




