始まり
今夜の獲物はグリーンセンティピードだ。矢筒を背負った男はビルの屋上で息を潜め、やがて聞こえるであろう奇妙な足音をじっと待っている。周辺は酷く明るい。男は反射的に空を見上げ、すぐに目を細めた。小刻みに動く光を見つめ、男は不器用に手を伸ばし、はっとする。夜空の美しさに男は胸を打たれていたのだ。男は苦笑し握り締めた手をゆっくりと解く。そこには何もない。男は首を振り、首を傾けた。
目を細める。ダークブルーの空には無数の星が光の尾を伸ばしていた。光は空を裂き、地に冷たい光を落としていく。男は小さなくしゃみをし、冷えた鼻を指先で乱暴に拭う。その間も空は輝きを忘れない。
ふと、クレイグ・スライは異臭に顔をしかめた。同時に地が異様な音をたてた。クレイグはビルの屋上から身を乗り出した。黒い外套が揺れた。身体に纏わりつく。クレイグは眉根を寄せる。
来た、グリーンセンティピードの群れだ。右頬の傷痕を指先でなぞり、クレイグは苦笑する。うっすらと濡れた緑色の大ムカデが大地を這う。全長十メートルはあるたろうか。気分が悪くなってくる。大ムカデの偏平な身体からはぞっとするほど長い脚が伸び、大地を俊足に移動する。
見れば、強靭な顎から透明な液体が滴っている。クレイグは発煙筒を空に投げた。数メートル先にいる息子のトラビス・スライに向けた合図だった。そして、グリーンセンティピードが目指す先はファクトリィなのだ。そこでは干し肉が製造されている。クレイグは息を吐いた。矢筒からグレイの矢を三本抜き、その二本を足元に置く。クレイグは残った一本を弦にあてがいルビーに染まった長弓を構えた。狙うは頭部だ。クレイグは両拳を引き上げた。
矢じりをグリーンセンティピードに向ける。クレイグはそのまま、弓を押しながら右手をゆっくりと捻り、拳を頬骨の位置まで引き下げていく。弦が乾いた音を鳴らす。一体のグリーンセンティピードの顎先に肉片が突き刺さっていた。クレイグは目を細めた。
誰かが既に襲われたのだろうか。クレイグはそれが人なのか異人なのか分からない。クレイグは心身を集中させていく。一発で仕留めなれば反射的に向ってくる。
「嫌な世の中になったもんだ」
クレイグは呟いた。グリーンセンティピードは非常に乾燥に弱く、数百年前はハンターでなくとも容易に仕留めることが出来た。だが、進化の過程でグリーンセンティピードは自らの身体を分泌液で湿らせることで長距離の移動を可能にしたのだ。この進化によってグリーンセンティピードは短期間で巨大化と凶暴性を増しながら数を増やしていった。生臭い匂いは分泌液の臭いだ。
今では砂漠以外どの地域でも生息し、時には人間を襲い、肉を食う。特に柔らかな子供と簡単に捕えられる老人、女が狙われている。被害は年々拡大していた。グリーンセンティピードは雑食で何でも口に入れてしまう。その習性により若い異人ハンターの未来が消えていった。それでも、異人ハンターになるものは多い。
強くなければ生きていけない、人類はこの世界で常に弱者だ。人は異人に対抗する為に武器を取った。クレイグは弓を、息子のトラビスは剣を。
クレイグは目を見開き、矢を放った。矢はグリーンセンティピードの頭部を貫いた。その刹那、頭部が燃え上がった。ダリアパープルの炎が地を照らし、一気に明るくなる。グリーンセンティピードは長い身体を丸め、脚をめちゃくちゃに動かし、地面をのた打ち回っている。
だが、火は消えることはない。炎は風を飲み込み、グリーンセンティピードの身体に移っていく。グリーンセンティピードは仲間の身体に衝突し、後方から迫るグリーンセンティピードに踏みつけられていった。グリーンセンティピードは口から透明な液体を撒き散らす。確実に死に向かっていた。クレイグは笑った。金色の髪を揺らす青年の姿が見えたのだ。
トラビスだ。トラビスがブルーソードを両手で持ち、燃え盛るグリーンセンティピードに肉薄する。トラビスは雄叫びを上げながらグリーンセンティピード目掛けて長剣を振るう。重い頭部が舞い、黒い体液が吹き出していく。他のグリーンセンティピードの背に当たり、その身は瞬く間に燃え上がった。クレイグは満足げに笑い、今度はグリーンセンティピードの背に矢を放った。トラビスは身を翻し、ブルーソードを地面に突き刺した。眩い光が浮かび上がった。
クレイグは目を細めた。数体のクジラが出現する。トラビスが召喚したのだ。
「此処は僕と父さんで始末する。お前はファクトリィを守ってくれ」
トラビスはファクトリィを指差す。クジラはトラビスの命を受け、地面に潜っていく。
「トラビス、俺がいるからって油断するなよ。いつだって助けてやれるわけじゃないんだ」
クレイグは叫んだ。トラビスは頷き、「父さん、解ってるよ」と返事を返す。クレイグは口角を上げ、トラビスはグリーンセンティピードの尾を切断する。間髪入れずにトラビスは宙返りをし、巨大なグリーンセンティピードを避け、左に走る。トラビスは吠え、巨大なグリーンセンティピードの脇腹に長剣を突き刺した。グリーンセンティピードは一瞬、動きを止めたが、すぐに脚を動かした。
咄嗟にトラビスの身体に巻き付こうとする。トラビスは長剣をすばやく抜き、迫りくる脚を次々と切り落としていく。黒い体液がトラビスの身体を濡らしていった。クレイグは息を詰まらせる。眉根をぐっと寄せ、息を止めた。臭いがきついのだ。トラビスに向かっていく二体のグリーンセンティピードを見つめ、矢を放った。燃え上がる。
トラビスが苦い顔でクレイグを見上げ、ブルーソードで小柄なグリーンセンティピードを吹き飛ばした。トラビスは駆け、大きく跳躍する。トラビスはグリーンセンティピードの背に乗り、突き刺した。グリーンセンティピードは暴れ、トラビスは地面に飛び込み、受け身を取った。顎を引き、顎で引き裂こうとするグリーンセンティピードの口を突く。グリーンセンティピードは仰け反り、液体を吐き出す。
トラビスは顔をしかめたが地面を踏み込み、一気にグリーンセンティピードの身体を真っ二つにした。クレイグは口笛を吹き、にやけた口元をきゅっと引き締めた。突然、古い友人であるリュン・レアの言葉を思い出したのだ、「トラビスは信用ならない」と。クレイグは重苦しく息を吐き出した。
「父さん!」
トラビスの声、クレイグははっとし飛び込んでくるグリーンセンティピードを見た。強靭な顎が大きく鳴った。脚が闇にうごめいている。
「ああ、化物め」
クレイグは鼻を鳴らし、弓でグリーンセンティピードを殴りつける。強い振動が伝わってくる。グリーンセンティピードは微かに揺れた。クレイグは舌打ちをする。建物を脚がしっかりと掴んでいる。落ちる気配はない。クレイグは耳を乱暴に掻き、矢筒から矢を手に取る。弓を構えた。クレイグは落ち着き射る。グレイの矢は真っ直ぐにグリーンセンティピードを貫き、炎が生まれる。
グリーンセンティピードの身が建物を離れた。燃えながら地上に落ちていく。クレイグは笑おうとし顔を強張らせた。視界の端に四体のグリーンセンティピードに囲まれるトラビスが映る。
「トラビス」
クレイグは鋭く叫び、レモンイエローの矢を掴んだ。クレイグは色の異なる特別な矢をトラビスの足元に向け、放つ。矢は瞬く間に形を変え、蛇と成す。蛇は太い尾でトラビスを守る。クレイグは息を吐き出す。冷たい汗をかいていた。トラビスが見上げ、クレイグを見た。
「余所見をするな」
クレイグはトラビスを叱りつけた。トラビスの顔が引きつった。
「来るぞ」
クレイグは叫んだ。グリーンセンティピードの一体が動く。蛇は真っ赤な目で獲物を見つめている。トラビスが顎を引き、ブルーソードを構えた。一体のグリーンセンティピードは顎を鳴らし、蛇に食らいつく。その瞬間、トラビスが剣を振り上げた。
切っ先がグリーンセンティピードの頭部を深く切り裂いた。グリーンセンティピードは衝撃によって蛇から離れ、後退する。蛇は口を開けた。傷を負ったグリーンセンティピードに狙いを定めたのだ。トラビスは笑う。蛇は小さな音を吐き出しながら全ての恨みを詰め込んだ恐ろしい力でグリーンセンティピードの頭をかみ砕いた。
トラビスは叫び、飛び出した。クレイグはその声を聞き、建物から身を乗り出す。瞳にトラビスが映る。
「死ぬなよ……」
クレイグは祈るように呟いた。