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黒の住人   作者: にしおかナオ
9/11

8.遥人へ

最近もう背が伸びなくなったね。もう大人になった証拠かな?あなたのお父さんも私も背が高くなかったから、あなたが170センチに届くかってとても心配してたけど、どうにか届いたね、安心しました。高校に入ってからの身体測定の結果なんて見ることないかと思ってたけど、ごめんなさい、勝手に見ちゃってた。


それとごめんなさい、こんな書き出しで。わからないんだよね、書くことないから。

私が手紙を書くだなんて、とっても不思議な話だと笑ってください。


取り越し苦労ならいいんです。というか、こんな手紙、見つからなくていいと思ってるの。だから、見つかりそうにないところに挟んでおきます。


私は、遥人にお礼を言いたいことも、謝りたいことも山ほどあります。どちらかと言えば、謝りたいことが多すぎて、それを書いているとこの紙じゃ足りないし、きっととても悲しい手紙になってしまうから。お礼をたくさん言います。


遥人、母さんを描いてくれるなんて本当にありがとう。小学校1年生の時だったかな、あなたは覚えてないでしょうけど、一度私を書いてくれたことがあったよね。私はあの時飛び切りに嬉しかった。それとこんなことは最初で最後だと思ってきたから、本当にびっくりしたよ。


あなたを 連れ出して、本当に色んなところに行きましたね。まだ言葉も話さない子どもに芸術を見せて、聴かせることにどれだけの意味があるか、最初は不安だったけれど、あなたは絵を観るときも演奏を聴くときも一度だってグズらずいましたね。普段はあんなにわがままで泣き虫大魔王だったのに、あれには私も驚きました。


無理矢理にでもあなたを連れ出したのは、今思えば母さんのわがままでした。母さんは早くにあなたを産みました。まだ子どもなのに子どもを産みました。だから特に何の勉強もできないで、何にも知らないまま、勝手に大人になっちゃったの。だから一つだけ後悔したの。もっと色んなことを知っていたら、もっと色んなことを感じていたらって。特に絵とか音楽とか彫刻とか写真とか、芸術って何にも知らなかったから、興味が次から次に湧いてきたの。


押し付けになってしまうかもしれないけど、あなたには色んなことを知って感じて欲しいって。母さんとは違う道を行って欲しいって。遥か彼方に飛び出して欲しいって。


とっても楽しい時間でした。実は一緒に行った展覧会やコンサートのチケット、全部スクラップしてあるんだー。笑っちゃうよね。大切な思い出なのです。


こうやって考えてみるとあなたとちゃんと二人きりの時間なんて、いつ以来なかっただろうって、あなたが真剣な目で私を描いてくれている最中、ずっと思っていました。じーっと絵を見つめてたあの目が、今度は私を見つめてるって思うと、嬉しかったなぁ。あと、男前になったなぁって、これからこうやってあなたに描いてもらう人たちは幸せだなぁって。なんだか泣きそうなの、ずっと我慢するの大変だったよ?


私はもうだいぶ前から、母親失格だってわかってる。遥人が一人で出て行ったって、いつ壊れてしまったっておかしくないってずっと分かってた。それでもあなたは私を母さんと呼んでくれたし、こうして私を描いてくれました。まだあなたの母親でいさせてもらえることが嬉しくて、書ききれないから省略ね!


なりたいものとか将来の夢は決まったかな、ごめんねこんなこと直接きけばいいのに、きけなくて。私はね、遥人は自分のなりたいものに突き進んで欲しい。母さんは、その邪魔には絶対ならないから。あなたは、あなたの行きたい道へ行ってください。この絵の、もうちょっと見つかりにくい場所に、ちゃんと応援できるものを母さん準備してます。ほんの少しだけどね、へそくり。


最近、ふと記憶が飛んでしまう時間があったりして、自分で自分がよく分からなくなる時間があるの。それこそ取り越し苦労ならいいのだけどね。何だか怖くなって。こうやってちゃんと何か残せるうちに残しておきたくて。少し遥人を頼らせてもらいました。見つけてほしいけどどうか、見つかりませんようにー。


ともあれ、私はいつだって遥人の一番のファンで、味方で、お母さんです。

どんな時だって、どこにいたって、応援してるからね。


ありがとう遥人、負けるな遥人!頑張れ遥人!


さてと、じゃあ今晩はハンバーグだから、気合い入れて作るね。


またね。















そしてボクは結局殺してしまった。


結局、田村さんを殺してしまった。


ホコリ一つなくきれいに掃除されたダイニングキッチンのフローリングに、鮮やかな赤い湖が広がって、ボクの足元まで迫ってくる。


背中を何回刺しただろうか。最初に突き刺したときには拍子抜けなほど手ごたえがなく、確実に殺すためというよりは手ごたえを確認するために2回ほどやり直したところまでは覚えている。


3回以上刺すと、こんなに出るものなのだな、血って。


さっき田村さんが僕に椅子を投げつけたときにできた傷だろうか、まだ築3年の真新しいマンションのフローリングには不自然なくぼみができていたけど、そのくぼみにもどろりと血が広がって埋める。


あぁ、死んだ。やっと死んだ。


一言を冷静に反芻してクールダウンを図るボクの脳が半分。もう半分は今にも脳の血管が焼き切れてしまうのではないかと思うくらいに煮えたぎって熱い。脳にモーターも歯車も、バッテリーだって埋まっちゃいないけれど、とにかく脳細胞がそれに似た形をしているならば、目で追えない速さできゅるきゅると軋みながら回っている感覚に近い。


顔からは汗なのか涙なのか鼻水なのかヨダレなのかもよくわからない液体がぽたぽたとバカになった蛇口の水漏れのように滴りおちて、足元まできた赤い湖と混じるとすぐに赤に飲まれていく。


食器洗いの洗剤が油汚れを寄せ付けないCMみたく、正義を行ったボクの数滴の体液が、邪悪な血を清めて寄せ付けないなんて描写を、ボクは半分の冷静な頭の中で想像して願ってみたけど、それはなんだか田村さんに申し訳なくてやめた。


息が荒い。


最期の十数秒、田村さんが残った力を振り絞りながら這いつくばって30センチほど動いた跡が、生々しく残っている。猛獣の爪に引き裂かれたかのような鮮やかな模様が、フローリングに残る。


あぁ、これは絵の題材にできそうだから写真に残しておこうかなんて、また田村さんに失礼なことをボクは思ってしまった。


田村さんが這ってでも向かおうとしたのは、助けを求めるための出口でも携帯電話を置いてあるリビングテーブルでもなくて、キッチンカウンターの隅で笑う母さんの写真だった。


ほんの数メートルの移動の余地すら自分の人生に残されていないと悟った田村さんは、動けなくなったその場で大きく右手を伸ばしていた。


この人は、いざ自分の命が尽きようという時にあの女性に何を求めようとしたのだろうか、子供ができないと分かった途端にボロ雑巾よりもひどい扱いで壊してしまった女に今更なにを求めようとしたのだろうか。


許して?助けて?もうすぐ行くよ?


何にせよ最後の瞬間まで母を求めようとしたこの男に対して湧き上がるのは怒りというより、どうしようもない哀れみともう母さんに近づく資格はないということを絶命をもってわからせる使命感にも似た義務感だけだった。


いつもはデッサン用の鉛筆を削るボクのナイフが、今は田村さんの大きく伸ばした右手の甲に深く突き刺さっている。


11月の雨の日だった。マンションに打ち付ける雨は鋭い風を味方につけて、今にもこの部屋めがけて窓を突き破ってきそうな勢いで打ちつけてくる。


血の海になったフローリングが異常に冷たい。田村さんの赤は失った体温を奪い返すかのごとく、ボクの足の裏から熱を奪ってかかる。


冷えは皮膚を通り越し骨を伝って、さっきまで焼き切れそうだった脳まで凍らせるのではないかとボクは怖かった。



ボクは田村さんの手の甲に刺さったナイフを抜き取り、べっとりと張り付いた田村さんの赤が乾ききっていないのにも気づかず、そのままガスヒーターのスイッチを押す。



点火までは、まだ時間がかかりそうだ。


背面からプールにダイブするように、さっきまで田村さんが腰かけていたソファに沈み込み、ぼうっとガスヒーターのランプが点滅しているのを見た。


テレビは相変わらずNHK教育で、今は小学生くらい向けのアニメの時間だった。


沈んだままゆっくり、天を仰ぐ。


一回。


一回。


また、一回。


自分が大きく深呼吸する音がようやくボクの耳に届いてきて、『あぁ、生きてる』なんてことを確認しないといけないくらい、ボクはどこかに行ってしまっていた。




一瞬にして黒く染まった。


何がと考えると筆舌が難しい。


母さんが見つかって欲しいと望みながら見つからぬよう願った手紙を、ボクは3年の時を経て読む。


そして手紙より奥、絵の裏側にガムテープで貼り付けられた小包には身に覚えがないボク名義の預金通帳と印鑑が入っていた。


預金残高、1033117円。


当時のボクたちの生活、母さんの稼ぎを考えれば大変なお金だった。


ボクはもうーー


ボクはもう許すことができなかった。


その時だ。目の前の母さんの絵に像が見えた。


とっさに目を何度も強くまばたきし、こすり、反らし、閉じた。


母さんの優しい表情が、黒く塗りたくられて消えていく。


何度眼前の光景を否定しても見えるのは母さんの絵にべったりと張り付きこちらを飲み込みにかかろうとする黒い像。


目の前に広がる人の形をした色はボクの視界を奪い釘付けにする。


それは人の輪郭を飛び出し、キャンバス全体を埋め、そしてボクの目の前に飛び出して埋めた。


まばらに覚えているのは、デッサン用の鉛筆を削るナイフを手にして部屋を飛び出したこと。


それをテレビを眺める田村さんめがけて振り下ろしたこと。


そして彼の霧のような像が、黒く塗られ飲み込まれていく様。


途切れ途切れの記憶、視界を埋め、間隙にあるのはただ、黒だった。


捕まるとか、自首するとか、そんな心配をすることは、ないだろう。


まだ寝転がって血を垂れ流したままの田村さんを斜め下に眺めながら思う。


一度、”完全犯罪”を目の当たりにしているからのか、それが田村という男だからなのか。この場に限って人を殺す罪の意識というのがない。


ただただ思うのは、殺人なんて物騒な要素がこの部屋から漏れ這い出ることはないだろうという乾いた納得感だった。


もう、社会でいうこの男は死んでいる。ボクの眼前でのみ生きていたのだ。それこそ彼の像よろしく、目の前の霧を晴らしただけのような感覚が残った。


そして、ボクは今この瞬間も手に持つナイフで自分の首をかき切りたい衝動に食い殺されそうなのを静かに封じ込めている。


あぁ、罪の意識がないのはそうか、ボクもこれから死ぬかもしれないからってものある。


深呼吸で刻むこの一定のリズムを乱してしまった瞬間、自分の意思に関わらず右手が勝手に首元にその刃を突き立てそうになる。


窓の外で雨風が踊るのが、ボクの決断を急かしはやしているように聞こえる。


相変わらず冷たいフローリングは下から生気を奪ってボクを追い立てる。


あぁ、


あぁ、


ごめんよ、母さん。




死のうか。




黒く埋まる視界の中で微かに見えたのは、黒いワンピースだった。


リズムを乱さず吸い込んだ深呼吸で呼び起こされるのは、交換した甘い吐息だった。


『大丈夫、あなたは頑張ったの』


密度濃く塗りたくられた黒い視界の中で、それを上塗りするように輪郭を帯びてぼくに呼びかける声がある。


こんな時に思い出すものかと、ボクは内心笑った。


そうだ、彼女の絵も、黒かったな。


『向き合うの。もう一度、ちゃんと会うの』


ちゃんと会った。向き合った。結果として現れたのは黒い虚像だった。


虚像は過去を一瞬にして飲み込み、今ボク自身にも償いを求めて牙を立てようとする。


『もう一度、ちゃんと会うの』


一際大きく、ボクの中で声がこだまし、右手の疼きを抑え込む。


ボクはもうろうとする意識の中で立ち上がり、田村さんの身体を越え、もう一度自分の部屋へ戻る。


そこに居るのは、黒く塗られた虚像ではなくて、優しく微笑む母さんだった。


「母さん」


黒はない。見慣れた姿がそこにあって、ボクはその場に力なく座り込む。


そこで流れ込んでくるのは最初と変わらず、母さんと一緒に過ごした記憶、そして美味しかったハンバーグの匂いだった。


「ごめんよ母さん、帰ったよ」


右手に強く握りしめたナイフがカランと甲高い音を立てて落ちると、ガスヒーターが隣のダイニングでぼうっと点火するのが聞こえた。


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