7.来たる黒
最近、秋の影が薄い。
秋の居心地が悪そうに見える。
秋は年々、夏と冬に押しくら饅頭を食らって小さく小さくしぼんでいるように見えるし、聞こえる。
それは決して地球温暖化とか、それに伴った台風の早出出勤とか、地球の体内時計が駆け足になっているだけが理由じゃない。
青々と茂る草木が鮮やかに頬を赤らめて、湿り気を帯びた風がからりと干上がって、薄着の間に忍び込む冷たさを連れてくると、人は秋の訪れを自然と覚える。
草木の青がいきなり朽ちることはないのだし、夕立の翌日に豪雪が降ることなんてない。
その間隙には必ず移り変わりの緩やかな色の共演があるものだし、それに合わせた人の営みがあるものだと思う。
自然が刻むリズムに合わせて、人が楽器を鳴らし、筆を執り、シャッターを切る。
お彼岸に墓の前で手を合わせることだって、粒あんのおはぎを握ることだって、もみじを一枚手帳の間に挟み込むことだって、自然が刻むリズムに拍子を合わせていることなはずなんだ。
でも最近は、9月の末にもなるとコンビニの入り口にはクリスマスケーキの見本やカタログの展示が始まったり、百貨店ではおせち商戦がスタートしたってニュースが流れ込んでくる。
衣替えって言葉を秋に聞くのも少なくなったように思う。
人はいつの間にか、秋が刻んでくれるリズムに拍子を合わせなくなった。冬かその先の春の刻むリズムの方がさも大事かのように、秋にどこかで知らんぷりを決め込む。
ボクの好きな秋は、短くなってしまった。
でもボクは、秋を忘れることはない。
忘れることなどできない。
母さんが死んだのは、肌に打ち付ける雨粒が身体の芯まで冷やしにかかるこの季節だった。
風が一陣吹けば稲刈りの済んだ田んぼの少し香ばしい香りが漂ってきてわけもなく寂しくなるこの季節だった。
母さんが死んだ情景を、日々を思い出させる記憶のスイッチが、いたるところに落っこちているのがこの季節なんだ。
だからボクは秋を忘れることができない。
高校を卒業するまでの18年間住んでいたアパートの近くに、大きなお寺がある。ここには一族のお墓を作ることのできない人たちの遺骨を集めたお堂があって、ボクは年に一度、必ずお参りにやって来て、母さんの戒名が刻まれた墓標の前で気が済むまで手を合わせる。
それは何かの罪滅ぼしなのか、自分自身を納得させるためなのか、自分でもよく分からない。
ただこの季節になると母さんの命日に関係なく、ここに足が向いて、目を閉じて手を合わせたくなる。
親戚関係がとても薄いボクにとって、供養とか先祖への敬意とか、日本人が古来から養ってきた風習というのは小さいころから正直馴染みがない。
そんなボクでも自然とこうして母さんに手を合わせたくなるというのはやっぱり、人間どこかしら本能で親や一族、自分につながるルーツを敬うこころというのがあるのだろうと、ボクは他人事のように考えてしまう。
「長かったね」
墓標に手を合わせていたボクが目を開き立ち上がると、後ろから何の因果か聞きなれてしまった声がかかる。
「お互いに良い趣味をしてないことは分かってるけど、こんな場所までつけてくるっていうのはあんまりだとか、そういうことは考えないのかな」
「つけて来たことは謝るよ?でもね、”こんな場所”なのはワタシのせいじゃないのだから大目に見てほしいかな」
塚本優妃の言い回しは、それを大目にみてやることが、つけて来たことそのものがもう大したことではないとでも言いたげな食えないものだった。
「わかったときに引き返せばいいじゃないか」
「まぁひどい、県まで跨がせておいて何もせずあなたと話もせずに帰れだなんて、よく言えたものね」
無邪気な顔で、おどけながら言う。この琥珀色の瞳と柔らかい風に踊る黒髪にひとたび魅せられてしまえば、この好意の表れはとびきりに嬉しいものなのかもしれない。
「さて、話せたら満足かな――」
「誰のお参りなの?」
ボクが話を切り上げにかかったのを察して、彼女は間髪入れずに尋ねる。
一瞬考えた。考えて――
「――母さんだよ」
ボクは観念した。きっと長くなることも観念した。
誰もいない昼下がりの境内で、自分に似た彼女に投げかける。
「お母さん?あの絵の女の人でしょ?亡くなってたんだね」
「あぁ、死んだのはあの絵を描いてからすぐだった」
「そう、どうして亡くなったの?病気?」
「事故、事故だった」
「そう、あなたのせいだったの?」
「どうして、事故としか言ってないけれど」
「ごめんね、言い聞かせるように聞こえたものだから」
「――わからない」
「そうなの、でも好きだったんだね。お母さんのこと」
「変なことを言うね。どうしてそう思うのかがわからない」
「好きじゃなきゃ、あんなに長い時間拝んだりしないよ」
「そういうものかな」
「いちいち計ってなんかないけど、30分か、もっと長い時間。途中後ろで見てて心配になったよ、気絶したんじゃないかって」
「そこで諦めて帰らないんだね、キミは」
「意地悪だなぁ。帰るくらいなら心配して声をかけるよ、ワタシは」
「本当に物好きだな」
「でも羨ましい。心からね」
「羨ましい?からかうのが上手だ」
「からかってなんかない。ワタシは絶対出来ないもの、そんなこと。お母さんなんて、早く消えて欲しいとしか思ったことがないし、好きなんて感情は知ることもない。ましてや墓前で手を合わせろなんて、考えただけで吐き気がするもの。墓だって作ってやらない。他人と同じだもの。お母さんが好きって、素敵なことだよ」
「お父さんでも、もう同じことかい?」
「――どうだろう、死ぬとか、そういうことが考えられない。あの人がいるのが当たり前すぎて、わかんないよ」
「それはきっと、好きってことなんじゃないのかな」
「どんなお母さんだったの?」
「おいおい、はぐらかすの?」
「いいの、私は。いいの。どんなお母さんだったの?」
「優しくて、強い人だった。本当に」
「素敵ね、それだけでもう素敵」
「でも優し過ぎたんだ。漢字の難しいの対義語で易しいってあるだろう?あの感じ」
「あぁ、なるほどね。何となく分かるよ」
「みんなに好かれて、みんなに元気とか癒しとか明るさとか、前向きなものを配って回れるような人だったんだ。だから、悪い人を引き寄せることにも無頓着な人だった。ボクが守らなくちゃいけなかったんだ」
「守れなかったのね」
「ボクに、色んなものをくれた人だったんだ。色んなものを見せてくれたんだ。ボクに筆を買ってくれた、クレヨンを買ってくれた、絵の具を、スケッチブックを、描くことを教えてくれたんだ。描く理由をくれたんだ。母さんに見てもらうのが嬉しかった。褒められるのが嬉しかった。でもいつからか離れてしまった。少しずつ。ボクも、母さんも」
「だから、お母さんを描いたの?」
「描かなくちゃいけないと思ったんだ。ボクには母さんを守ることができなかった。母さんが喜んでくれること、そしてボクが今の母さんを守るにはそれしか思いつかなかった。でもその形が正解だったとは思えない」
「でも、喜んでくれたんでしょ」
「喜んでくれた。そう、そうだと思う。けれどそれを境にして全部が変わってしまった。母さんも、ボクも。あの時ボクは、きっと守ろうとして、何かに区切りをつけてしまったんだ」
「区切り?」
「そう、諦めてしまったんだ。母さんを。納得してしまったんだよ。その証拠に、ボクは絵のことをほとんど覚えていない。キミに言われるまであの絵が全国で一番になったなんて、完全に忘れ去っていたんだ。母さんいなくなった後のあの絵のことなんて、どうでも良かったんだ。そしてボクは結局見て見ぬふりをしたんだ。絵を使って、母さんを使って!ボクにこんなにもたくさんのものを与えてくれたそれを利用して!ボクは母さんを見殺しにしたんだ!ボクが――」
母さんを殺したんだ。
叫ぼうとしたときには、白くて細くて、そして黒い少女に抱きしめられていた。
目の前でさらさらと揺れる紅葉の枝のように細くはかない腕からは、想像もつかないほど強い力でボクをぎゅっと包み込む。
「だいじょうぶ。アナタは頑張ったの」
ボクのお腹のあたりで、小さな脈動が密着して、とく、とくと拍を刻むのが伝わってきて、それに合わせて身体の奥から目に熱い熱い涙がせり上がってくるのを感じた。
「アナタはワタシを泣かせてくれた。だから、ワタシもアナタを泣かせてあげる」
はじめ、よく分からなかった。これがそうなんだと。
泣くなんて、きっと母さんの胸の中以来のことだった。
そうか、ぼくはまだ泣けるんだ。
そんな当たり前のことを、年下の少女の胸の中でぼくは意識する。
「ねぇ、キスしてあげよっか」
いつもは茶目っ気のある声が、ボクのささくれた胸のざわめきを解すように優しくも妖艶にこだます。
「ーーどうして、そんな」
「きっとこういう時、恋人同士ならそうかなって」
「ーー恋人同士じゃない」
「けれどね」
彼女はボクのびしょ濡れの頬を両手で優しく包み込みながら琥珀の瞳で射抜いてくる。
これだ、これに射抜かれてはいけない。
「あなたはして欲しそうな可愛い顔をしているの。お母さんのおっぱいが欲しそうな弱った顔をしてるの」
否定したい。そんな情けなさを否定したいんだ。でも、言葉が出てこない。悔しい。
「それとねーー」
彼女のその後の言葉は唇を通して直に伝わって。
熱く、熱く。
柔らかく。
舌が絡まるたびに甘かった。熱が、質感が、唾液が、息が。
『ワタシガホシイノ』
ボクの寂しさ、半分。
彼女の寂しさ、半分。
それぞれの欲と叙情を確認するように交換して。
ほんの数秒間のうち。僕たちは互いの心を洗いあった。
*
いつも一人で来て、一人で帰る道を、二人で帰る。今日だけは。
沈むのが早くなった夕日の光が電車の窓から鋭角に差し込んできて、目が開けづらい。
主要な駅を過ぎて乗客がどっと外へ吐き出されると、車内には静かな光と、電車の単調なリズム、そして塚本優妃でいっぱいになった。
隣に座る彼女の肌はこの強烈なオレンジの光線をいっぱいに浴びてなお白く光って、むしろ透明な空気感を増しているようにさえ見える。
神々しいまでに存在を放っているかと思えば、繊細で今にも消えいりそうな朧げもある。相変わらず彼女の像は見えないが、彼女の存在そのものが虚像なのではないのかと錯覚してしまいそうになった。
「ねぇ、どうだった?」
彼女が話しかける時はいつも疑問の投げかけから始まる。
「なにが」
「キス。気持ちよかった?」
そして、普通はばかられるような問いをするりと心の傍に入り込んで近くで囁いてくるんだ。
「そんなこと」
「いえないよね普通。ファーストキスだったもんね遥人くん」
「なんでーー」
「わかるのかって?」
「違う」
「違わないでしょう?分かるもの、下手っぴだったもん」
耳が熱い。奥まで熱い。
恥ずかしいなんて感じるのはいつぶりか、感情が忙しい。
それでも不思議と不快ではなかったのは、きっと知らず知らずボクも彼女に心を許しているらしかった。
「でもね、あたしもだったよ」
ぼくはその冗談を否定する気も起きなかったけれど、彼女の口調は冗談でもなんでもなく真剣だった。
「ーーもし」
彼女がそう切り出したのは、到着まであと3駅を過ぎてからのことだった。
「もしアナタがお母さんの事で頭がいっぱいになって、どうしても忘れられないのなら、いっそ向き合ってみればいいと思うの」
「向き合い方を知らないんだ」
「あの絵、お母さんの絵はまだどこかにあるの?」
「多分」
多分だが、自分の部屋のクローゼットの中だ。高校時代に使ったものは今のマンションに引っ越しをして以来、封をするようにクローゼットの奥底に放り投げてしまったまま、一度も確認をしていない。絵も例外でなければーー
「多分、ある」
「なら、もう一度ちゃんと見て。もう一度ちゃんと向き合うの」
「なにを馬鹿な」
「馬鹿じゃないよ、このバカ」
そう言って優妃はまた強い力でぎゅうっとボクの手を握り締める。
「中途半端だから、悪夢なの。ちゃんともう一度見て。自分の目で、ちゃんと」
『実像を見ろ』
彼女の言葉はそう変換されてボクの胸の中に滑り込む。
涼しい彼女の空気の中に熱い火が灯るように熱を帯びた言葉だった。
きっと、きっとこれはボクの想像の域を出ることのない話だ。けれど彼女のこの熱のこもり方は、自分に言い聞かせているのだろうと思った。
ワタシだってそうしたい。でもワタシはいいの、ワタシには出来ない。
だからせめてアナタは、
ワタシと同じアナタは、
「もう一度、ちゃんと会ってあげて、お母さんに」
その言葉の枕には、色んな思いがいっぱいいっぱい詰まっているように聞こえたんだ。
「怖いな、とても」
「後ろめたいことがある人に会う時って、そんなものだよ。宿題忘れたのを先生にいう時と同じだと思えばいいの」
「宿題、忘れたことないんだ」
「あら、優秀ね」
二人合わせて、くすりと笑った。ほっとした、とても。
車窓から差し込む夕日は角度を失い、一日のバトンを渡そうと夜に声をかけているのが見える。
電車の走る一定のリズムはさながら、第4コーナーを回った一日の足音が迫ってくるように耳に心地よく響く。
前に進むのが怖いからなのもある。彼女が隣で手を握っているこの時間が思ったより気に入ってしまったのもある。
出来るのなら、止まらないで欲しいと思った。着かないで欲しいと思った。
少し、ほんの少しだけ答えが見えた今がとても心地よく、終わらないで欲しいと願っていた。
そんな願いを知ってか知らずか、駅に近づき電車がスピードを緩め始めると、駅前の街路樹が風にざわざわと揺れ始めるのが見えた。
程なく窓にはポツリポツリと雨粒が散らばって、先程までの温かな遠影の記憶から視線を目の前へと奪う。
帰らなければ。
「ありがとう」
ボクは彼女に言い、席を立つ。彼女は何も言わず握った手にもう一度力を込め、離した。
今度会う時は、きっとボクから声をかけよう。
*
このマンションを選んだ決め手は収納が多いことだった。
「中に入って着替えまでできるタイプのウォークインクローゼットです。衣替えも簡単にできますし、趣味の道具を一式しまってもまだ余りあるスペースです。家族形態が変わったり、ライフスタイルが変わっても大きな収納があれば対応の幅が増えますよ」
部屋探しの時、案内してくれた営業マンのお兄さんの流暢な説明を覚えている。
実際大きなクローゼットだった。2畳分くらいの広さで奥行きがあり、中に照明もある。クローゼットというより昔風に言うと納戸だ。営業マンが書斎ですと売り込んでも違和感を感じないくらいの広さ。
それが2LDKの間取りに二つ。十分すぎる広さだった。
「逆に広すぎませんか」
ぼくが尋ねると、お兄さんは笑いながら多分、余りますねと言った。
別に服や靴が多いわけでもないし、これといって絵以外に打ち込むもののないボクにとって、そんなに大きな荷物は必要ない。田村さんの荷物なんて最低限の着替えだけで小ぶりの段ボール1個で十分だ。一般家庭に比べても、必ずこの広さを持て余すだろう。
しかしお兄さんはこう付け加える。
「収納は少し余るくらいに作った方がいいんですよ。入れたものが奥に仕舞い込まれないように、全体がすぐに取り出せるような配置にするには、人が自由に動けるくらいのゆとりが要ります。ただの物置にならないように考えております」
この説明になるほどと思い、部屋を決めた。
実際、お兄さんの言うことは正しかったのだ。引越しの当初こそ余りに余っていた収納だったが、大学での教材、描いた作品なんかをどんどん詰め込んでいくと3年のうちにスペースはみるみる埋まっていき、すぐに田村さんの部屋の収納まで使うことになった。
すぐに使う画材や教材は手前に棚になるように造作して、取り出し勝手の良さのためにフックをホームセンターで買ってきたりして。
一見使い勝手のよい収納になったが、同時に使わないもの、用の無いものは奥へ奥へと押し込まれていった。奥行きのある収納は手前半分が機能するもの、奥半分は忘れ去られた物置になった。
どこかのタイミングで手をつければよかったのかもしれない。捨てるべきは捨てた方が良かったのだろう。でも奥に追いやったものに手をつけることは願わくばもう永遠にしたくないと考えるようになっていた。
押し込んでおくことに妙な安心感があった。誰が見るわけでもない、ここはボクだけのスペースなのだ。
母さん絵も、そんな奥深くに眠っていた。
母さんの絵は案の定、収納の奥の奥、一番最深部に眠っていた。押し込んだものをかき分けてそれを見つけるのは案外苦ではなかった。きっとこの絵を掘り起こすことに比べれば他の記憶など大したことでもなかったのだろう。
絵は何重にも模造紙に包まれていて、その一番外側にこの絵を描いた日付けが走り書きされていた。8月の半ばだった。
絵をクローゼットから抜き取り、イーゼル(絵の台)に乗せて模造紙を解いていく。
一枚解くごとに妙な胸の高鳴りがある。もちろん恐れもあったが、それとはまた違うときめきのようなものが胸から脳へと駆け上ってきて、模造紙を解く手は次第にそれを乱雑に破る。
破る。
ーー 一枚。
ーー 一枚。
まとめて剥がす。
なかなか姿を見せない絵に少し苛立って、剥ぐ指先に力を込めてーー
剥ぐ。
何枚剥いだか分からなくなりそうになった時だ。
手が、見えた。
膝元で重ねられたなめらかな手が。
夢中で全ての模造紙を拭い取る。
「ーー母さん」
母さんがいた。
見まごうことのないその姿は、ボクに色んなものを見せてくれたその人だった。
背筋をぴんと伸ばし、優しく微笑んだその表情が眩しい。
ボクが知る母さんだ。
筆を入れた細部を見、また全体の輪郭を見る。
『母さん、ボクに描かせてくれないか』
そう言った日の記憶。
指先にまで魂を込めて筆を走らせた記憶。
もう、最後かもしれないと思った記憶。
母さんと一緒に過ごした記憶。
母さんとは何だったのか、母さんと共にいるボクとは何だったのか、何か大きな水槽の栓を抜いたように、今まで置き去りにしていたものが、ボクの気持ちの処理に追いつかないスピードで流れ、通り過ぎていく。
「ーー母さん」
『どんなものでも、よく見ておくのよ遥人』
日は沈んだ。
ボクは部屋の中で一人、豆電球の小さな灯りの中で母さんと向かい合う。
明るくするのは、眩しすぎると思った。
外の風が、雨が、強くなり、ごうごうと部屋の外が騒がしくなるのを感じる中、ボクが立つこの空間はとても静かだった。
ボクはもう目をそらすことができない。
何時間か経った。
栓を抜いて急激に流れ込んだ母さんを少しずつ咀嚼して、またしまい込むように高鳴る心を落ち着かせる。
そこに恐怖はなく、母の優しい表情にただ安堵した。
そんなことをしながら何時間か。
ボクがやったこと、いや何もできなかったことは最早ボク自身許すことが出来ない。ただ、出来ないのであればその全てを理解し受け止めることで、少しでも変わるならば、お堂に手を合わせる理由が変わるのならばーー
彼女の助言は正しかった。
また、迷えば向き合うことが出来る。また、分からなければ立ち止まることが出来る。
そう思えることは、ボクにとって大きな支えになりそうだった。
そう。またーー
またね、母さん。
ボクは絵に手をかけ、またクローゼットの中、今度は奥でなく前にしまおうとした時だった。
絵の後ろから、何かが落ちる。
一枚の、紙だ。
手紙だ。
裏に、日付けがある。
ボクが絵を書き上げた日。
筆跡は、母さんのものだ。