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黒の住人   作者: にしおかナオ
6/11

5.家族愛

最初からね。


ワタシは最初から、お父さんの女として育てられていたのだと思うの。


ワタシが生まれつき感性が豊かだったのか、女としての生理的な勘めいたものが働いたのかはわからないのだけど、とにかくお父さんはワタシを自分の女として育てたの。


まだ幼稚園にも入る前だから、4歳くらいのときの記憶かな。お父さんと一緒にお風呂に入っていたときね、お父さんは丁寧に優しくワタシの身体を洗ってくれた。


優しかったの。でも、それは我が子を丁寧に綺麗に洗うというより、慈しみとか、愛とか、なんだかもっと濃くて強い意志の優しさのように感じたの。


4歳児がそんなこと感じるかって?おかしい?

でもね、後付けの感情じゃないと思う。


お母さんがやめなさいと言うまで、12歳まで一緒にお風呂に入ってお互いの身体を洗い合ってた。


お父さんはワタシの肌をキレイだって褒めてくれたし、ワタシの胸が膨らんでくると優しく撫でながら愛してくれた。


お母さんがどうして止めなさいなんていうのか、わからなくて、疎ましくて、憎かった。


もうその時にはお父さんを愛していたからね。


うちは両親ともが学校の先生で、お父さんは高校で数学。お母さんも高校で音楽を教えてた。


特にお父さんは研究授業なんかにも熱心で、県下でも注目されてる気鋭の教師なんだって、ワタシが小学生のころから色んな先生が教えてくれた。


小学校の先生が高校の先生のことを言うんだから、本当に有名だったのかもね。


へぇ、お父さんってスゴいんだ。カッコいいんだって、ワタシは父親としてじゃなくて、クラスのカッコ良い男子を眺めるのと同じ目でお父さんを見てた。何の疑いの目もなく。


男の子たちに良くラブレターとか、告白とかされたけど、本当に興味がなくて、今思うとひどい返し方をしてしまったと思う。まぁ、告白なんて流行りモノじゃない?どこの学校だって。流行りの中で私にも何か回って来たのかなぁくらいにしか思ってなくて。


夢中だったのね。お父さんに。


仕事から帰って来たら真っ先にスーツのジャケットを預かって、ハンガーにかける前に一回襟元の香りスーッと大きく吸うのが堪らなく好きだった。お父さんがいっぱいワタシの中に流れ込んでくるようで好きだった。身体中がぽかぽかしたの。


お父さんだってワタシの気持ちにはもちろん気づいてたよ?長い時間をかけて自分がそう仕向けたのだから、当然よね。

意地悪に感じてもいたけど、お母さんって邪魔者もいた。表向きにワタシを愛するなんて、到底無理だと分かってもいたはず。


そんなワタシたちにチャンスが巡って来たのは、お母さんが新しい高校に異動になって、強豪吹奏楽部の顧問になってから。


毎日部活に熱心に時間を取る学校だったものだから、お母さんの帰りも当然前より遅くなって、ワタシたち家族が3人揃う時間って少なくなった。


「お父さん、デートいこ、デート」


きっかけはワタシ。本当に気軽にデートって言葉を使って、ウキウキしてた。


放課後ワタシは早く家に帰って、お父さんと一緒に食事に出かけることが多くなった。


食事に行くだけじゃなくて、意味もなくドライブしながらおしゃべりしたりして。いつもはお母さんが座っていた助手席を独占できることが嬉しかったの。


そんな時が何ヶ月か過ぎて、食事の帰りだった。


お父さんがいつもは止まらない休憩所に車を停めて、言ったの。



「ユウ、キスしないか」


ワタシがうなずく前にお父さんの唇はワタシに重なっていて、一瞬で離れた。


「もう?」


しまったと思った。


もう?それだけ?


自然と漏れてしまったの。


ワタシの目は悲しいのか嬉しいのか潤んでしまって、お父さんがよく見えない。


そうしている間にもう一度、くちびるを重ねてくれる。


でも一瞬ではなれて。


「いや」


もういやなんじゃない。これじゃいやなんだ。


今度は優しく舌と舌がするりと絡んで。


「もう、いちど」


今度はとても長かった。


舌が優しくワタシに絡んで呑まれて、あとは濁流のように激しく流れ込んできてくれた。


ワタシの身体は、心は、運転席から覆い被さるお父さんの中にゆっくり溶けて行ってしまうように、どんどん意識を奪われて、ワタシは粘膜が混ざる感覚に夢中になった。


生まれたその日から、ワタシ以上にワタシの身体はこの時間を待ちわびていたんだって、嫌でも感じたの。


心臓が今まで知らない拍を刻んで、知らない体温の高まりがあって、これ以上に幸せなことなんてないって、本気でそう信じてた。


ワタシとお父さんは、それから何度もキスをした。


何度も何度も。



ワタシたちのことはお母さんにバレることはなかった。


もっとも、ワタシがお父さんにお父さん以上の感情を持っていたことはお母さんだって知ってたと思う。けれど、ある一線を越えるなんて思いもしていなかったはず。


その意味ではお母さんはお父さんを教師として信じていた、いえ、教師を信じていたの。


それは教師としてのお母さん自身の発想を信じていたってこともあるんだよ、きっと。


元から過度な涼しさがあった夫婦の距離は、いよいよ冷えに変わっていってた。


ワタシとお父さんが何度も逢瀬を重ねるうち、家族としての距離は静かに、確実に離れてしまった。


ワタシは別に壊れても良いと思っていたの。うん、ひどい話だと思ってくれて良いよ。


お母さんがもし居なくなるか、空気のように虚無の存在になってしまったって、元々関心が薄かったのだから別にワタシは何も変わらない。お父さんさえいれば。


でもお父さんは違ったみたい。家族で食事に行く機会を作ろうとしていたし、お母さんとの会話にも明るく努めてた。セックスだって、二月に一度はしてたみたい。


ワタシは半ば付き合ってあげてたの、そんな家族ごっこみたいなものに。


そんな中で、ワタシたち家族を一つに繋ぎ止めてくれる時間があった。


それが、ワタシの絵。


アナタの前でこんな事を言うのは少し恥ずかしいのだけど、ワタシは小さい頃から自分には人とは違う才能に溢れてるんだって自覚があったの。


別に両親や周りの大人が褒めてくれて、たくさんの賞状をもらい始めてから気づいたわけじゃない。


舞い飛ぶ蝶の羽よりも、モザイクな目玉や螺旋状の口の方が美しかった。


足し算を覚えるより前から、音色、匂い、感情、肉眼ではどうしても見えないものを表現したかった。


原色を塗りたくることにすぐ飽きて、色が混ざり合う中の微細な揺らぎを捕まえてキャンバスに閉じ込めながら色を知っていった。


ワタシは特別。それは何故だか小さい時から分かっていたの。


あの色のクレヨンが欲しい。


家族で買い物の理由だった。


これが描きたいから、連れてって。


家族の遠足の理由だった。


賞を取ったから、東京まで授賞式に行かなくちゃ。


家族旅行の理由だった。


ワタシを中心に、ワタシを心臓にして家族が動いていたのね。


でも、結局我慢だった。


ワタシは自分の感情が向くままに描いていたかったのに、いつしかワタシの絵は家族を繋ぎ止めるために使われているような気がしてきて。


裏腹にお父さんへの想いは膨らんで膨らんで。


ずっとキスだけで我慢できるわけないじゃない。


今にも爆発して、お父さんに飛びついてしまいたいことが何度もあって。


高校一年生になって、ワタシの胸はふっくらと膨らんだ。腰のくびれも、細く伸びた足も、仕上がったの。なのに、お父さんのためだけに育ててきたものなのに。


なのになのになのに。


お父さんは大して抱きたくもないお母さんを抱いて。家族を繋ぎ止めて。


私の方がずっと、あなたを愛していて、あなたを癒せるのに。


触って欲しくて、犯して欲しくて。


毎日、身体が熱くて。


そんな家族への愛情なんて、壊してしまいたい。


ワタシが壊れれば、ワタシがいなくなればそんなもの無くなっちゃうんだよ?お父さん。


その前に、早く抱きなさいよ、ワタシを。


滅茶苦茶に処女を奪って、滅茶苦茶に自分の育てた美味しい娘を食べなさいよ。


取り留めのない身体の熱さを指先に乗せると、あとは意識しなくても描けてしまった。




それがワタシの【家族愛】だよ。













夏に台風の目があるとしたらきっと今日のことだ。ここのところ目まぐるしくボクの体質を巡る事柄が渦を巻いてきたが、今日はその凪であり、中心であるような感じがする。


目の前の優しいお妃さまに、夏そのものが暑さを弱めて脇に控えているかのように、今日の景観地区は涼やかな風が通って日差しも静かだった。


ボクは6、7割方出来上がった塚本優妃の絵を前に一度筆を置く。


「休憩しよう」


「あら、好きにどうぞ?ワタシ大丈夫だから」


「ほんとに?普通より時間かかかりそうだから、崩していいのに」


「いいえ、モデルはね、慣れてるから」


ふふんと鼻を鳴らし、琥珀色の目で見つめる彼女と、ボクは目を合わせない。


彼女は丸椅子にちょこんと腰掛けたまま小一時間、微動だにすることなく流暢に口だけを動かし続けていた。


異様な雰囲気だ。絵から飛び出して来たように造形美漂う女性が汗一滴たらさず、じっと腰掛けているのを観光客やカップルたちが遠巻きに見つめ、見惚れながら通り過ぎていく。


「聞きたいことは話せてるかな」


「半分は。ただお父さんとの話の描写は――」


ちと過激だ。


「それも重要なの。ちゃんと筆に乗せてもらわなくちゃ困るところなの」


ボクは彼女の自叙伝の取材をしてるわけじゃない。


「キミはとどのつまり、殺したかったの?死にたかったの?」


口にした後、過去形での質問は違う気がした。


「両方。一緒に死にたいの」


この答え、分かっていたからだ。


【家族愛】


父とともに絞首刑台へと登る娘。


父によって積み上げられ、育てられた歴史を踏み台に、今そこから飛び降りんとする。


絞首縄の輪っかはエンゲージリングで象られ、父とともに締め上げられることそれ即ち父との永遠の愛の誓い。


普通に愛し合うことが許されぬのならば。


この思い封じ込めるくらいならば。


命を断ち完成する本当の愛。


塚本優妃の望む世界、その具現的作品。


ボクは彼女の話を拾い集め、彼女の作品に見えた像と繋ぎ合わせ考える。


あの時見た、酸欠に陥る濃く赤い像を想起する。


溢れんばかりに鬱血した彼女の想いが、脳裏に鮮やかに蘇って、ボクはそれを筆に乗せて7合目まで来た。


ただ、


「きみは今、【幸福】なのかい?その話は、3年前の話だ。あの作品を描いた今は、どうなのだろう」


いかにして彼女の像は黒く染まったのか。


ボクの問いに、彼女は穏やかに笑う。今からおとぎ話を子どもに読み聞かせるかのように、静かに語り出す。


ボクは今一度筆を取った。












ワタシが高校三年生になるとき、また異動があったの。今度はお母さんだけじゃなくて、お父さんもだった。


この異動がワタシの不満を溜めた。今度はお母さんが家から近い学校になって、部活の顧問で忙しいこともなくなった。そしてお父さんは何故だが県内でも遠い高校の赴任になって、単身赴任しないといけなくなった。


なんでも数学の指導の仕方なんかに熱心な田舎の進学校で、お父さんももうすぐ教頭先生になる歳だから、一回遠くの学校を挟むなんてことがあるらしいの。


「バカ、お父さんのバカ。どうして――」


お父さんは教育委員会が決めることだからどうしようもないの一点張りで、その分ドライブの後何度も抱きしめてキスしてくれたけど、バカバカ言いながら泣いてた記憶がほとんど。


悲しかった。


お父さんと一緒にいられることを夢見ていたのに、どうしてお母さんと暮らすことになるのかって。それも高校最後の年だよ?お父さんと毎日過ごせる時間なんて、もう来ないかもしれないのに。


お父さんの赴任先の近くに大学がないかも調べたけど、無駄だった。


「ねぇ、帰りたくない」


少なくなったお父さんとの食事の帰り、ポツリと言ったの。お父さんは聞こえていないふりをするから、もう一回言った。


「このまま、どこかへ行きたい。帰りたくない」


お父さんは応えてくれなかった。帰り道の途中にラブホテルが二件あるんだけど、その時は明かりがとっても明るく見えて、あったかく見えた。


この坂を真っすぐ登れば、家が見えてくるって交差点の赤信号で車が停まったとき、お父さんは言った。


「ユウ、僕はユウが好きだ」


「ワタシも好きだよ」


半分、叫び声だった。運転席じゃなければ今すぐ飛びつきたかった。好きは、初めてだった。


「ワタシも好き」


胸がこれ以上縮まらないくらいキュッと強く小さく締まって苦しい。


「僕も、好きだよ」


そして”僕”だった。


お父さんじゃなくて。


初めて、お父さんがワタシの隣にいてくれたような気がしたの。


信号が青に変わって、お父さんは真っすぐ進むはずの交差点を左へハンドルを切ったあとは、しばらくお互い何も口にできなかった。


ワタシの身体は、強く締め付けられた小さな胸に引っ張られてくくっと全部小さく縮こまってしまいそうで、熱くて、なにも口にできなかった。


長い、長い時間。


ふたりとも、なにも話せなかった。


先に口にすれば良かったの。


お父さんが口を開く前に。


ただ一言。


やっぱり、帰りたくない。


多分、それで未来は変わったはずなの。


その一言で、お父さんがもう一度ハンドルを切る前に、ワタシがアクセルを踏めたかもしれないのに。


未来を変える力って、未来を変えられなかった後にしか気付けないものなのね。


「ユウ、わかってほしいんだ」


先に口を開いたのはお父さんで、それだけで――


ワタシの未来を変える力は閉ざされて――


お父さんはズルイ。


あんなにワタシの身体を、心を、褒めてくれたクセに。


あんなに強く抱きしめるクセに。


あんなに熱くキスするクセに。


あんなに好きにさせたクセに。


あんなに、あんなに、あんなに――


「うん、ごめんね。お父さん」

何を分かれっていうの?


「土日はちゃんと帰って来てよね」

いやだ。二人でいたいのに。


「いい子にしてるから」

待って、置いて行かないで。


ワタシを置いてきぼりにして、お父さんだけがお父さんに戻るなんていや。


右に切られるハンドル、逃避じゃなくて周り道に終わる。終わってしまう。


家を背に真っ直ぐ進んでいくワタシの意識と、もう一度ハンドルを切るお父さんの車が、すぽっと離れてしまう気がした。


待って、待って、待って、待って。


ワタシが戻ればいいのか、お父さんを引きとめたいのか、もう分からない。


次に会えるのは、多分一ヶ月後。


でもその時は、そんなこと考える余裕もなかった。



「ユウちゃん、お父さんいないの寂しい?」


ある朝の食卓で、お母さんがもっともらしい表情でそんなことを言って、ワタシはワタシでも分からない殺意みたいなものを目の前の女に感じたの。


お父さんがいなくて寂しいね、お父さんがいなくて寂しいんでしょう、お父さんがいないとダメなんでしょう、お父さんがいれば良かったのにね、お父さんがいればこんな思いしなくて済むのにね、お父さんがいなきゃダメなんでしょう、お父さんがいないと残念でしょう、お母さんだけじゃ嫌でしょう、お母さんだけじゃ意味ないでしょう、お母さんだけなんていなくていいでしょう、お父さんがいて欲しいんでしょう――


お父さんが欲しいんでしょう。


嫌な女だ。


色んな感情が流れ込むように、色んな声色を混ぜたトーンで一言をワタシへ打ち込む。


嫌な女だ。


甘ったるい卵焼きを割く箸を今すぐへし折って、目の前でぐちゃぐちゃの声色でワタシを威嚇する女の喉に突き刺してやりたかった。


お母さんと二人の時間が大半になって、ワタシがあからさまに会話をしなくなって、表情が減って、ワタシたちは家族としての体も成せなくなっていって。


残ったのは二人の女の食卓だった。


目の前の女は、ワタシを憐れんでいた。下に見ていた。自分がさして望んでいないのに与えられる夫からの愛情を、自分の娘は渇望していることを心の底から憐れんでいた。


こんな対して何の魅力もない、才能もない女に勝てないことが悔しくて、殺意が膨らむ。


そしてそんな女に憐れまれている自分が、最も卑しく、殺意すらも呪いたくなる。


そうか、この家族をつなぎ止めていたのはワタシなんかじゃなかった。


結局ワタシは傲慢で、子どもだって気付かされる。


「次の土日は帰れそうだって、昨日連絡あったわよ。待ち遠しいね、ユウちゃん」


「そうだね」



ワタシがお父さんを求めないままに、求める間もないままに、ワタシの高校生活は終わってしまった。


ワタシたちの間には何事もなかったかのような、ただの親子の時間が流れて、お父さんのたまの休みには当たり前のように家族三人の風景があって。


お父さんがいるときだけ、二人の女は帳尻を合わせるように楽しげに話して、笑顔になって。


ワタシの高校生活、あの家での日々は終わったの。


今年、大学生になって、当たり前のように芸大生になって、当たり前のように彼氏ってものを作ってみた。


普段行くレストランで、今日はいつもは頼まないメニューを注文してみようかなって突然思うことってない?あれといっしょ。


差し詰め、友だちがあいつなら良いっていう男の子だったから、シェフのお勧めに乗っかるみたいなもの?


生まれて初めてお父さん以外の人と二人きりで食事をして、デートをして、抱きしめられて、押し倒されて。


キスをして。


自分でもびっくりしたの。え、こんなものだったかなって、こんなに味のしないものだったの?って


男の子にどうしたの、びっくりした顔してって言われて思わずワタシね――


大丈夫、続けて?


って、笑っちゃうでしょ、診療だか検査だかオーディションだか、何かを確かめてた。目の前の男よりも自分自身からなにも湧きあがってこないことが不思議でね。


絡めあった舌からは何の電気信号も伝ってこなくて、胸をまさぐる指先から伝わる熱はワタシの上皮が絶縁体になっちゃったみたいに何も通さなくて。


このままセックスなんて、処女をあげるなんて、冗談でしょって。


ワタシ、帰っちゃった。ごめんねって。


お父さんを憎んだ。


ハンドルを切って遠くに行っちゃったあの日からそうだったけど、さらに憎んだ。


あの人のせいで、ワタシは一生セックスが出来ない身体になっちゃったんじゃないかって。


一生他の人を愛せないじゃないって。


笑う?おかしい?でも、びっくりと同時に悲しいことだよ、異性に触れられて何も感じない身体って、心って。


封をされて、あの人に一枚膜をかぶせられて、真空パックの中にいるみたい。


こんなワタシを見たって、もうあの家族はきっと素知らぬ顔で素敵な家族を演じることに終始するの。


前のことなんてなかったことにして、ワタシの家族愛を真っ黒に塗り固めようとしてかかるんだよ。


独りになって、家族のいない塀に囲まれて、誰の気配も声もしない部屋で眠って、目覚めて。


外からお母さんを、お父さんを眺めて――


その中に自分がいる姿を思い出して、今の自分を当てはめぎゅっと押しこんだら――


ワタシはもうそこで笑えない。装うことさえもできない。


あぁ、死にたい。だらーっと、カジュアルに頭の中に浮かんでくるのね。本当に、ふとした瞬間に死ねてしまいそうな感覚がよぎっていくの。


本物の絶望って、なにも大きな足音を立てて絶望するぞ、望みなんかないんだ、悲しいぞってやってくるんじゃなくてさ、チェスで知らぬ間に追い詰められて指す手がなくなってるみたいな、急転で落差があるもので、すーっと忍び込んでくるものだなーって、最近まどろみながら考えるの。


このまどろみで目を閉じる瞬間を最期にできたらって、前身の副交感神経がフル回転してこと切れるのを願ってしまう。


そんなまどろみの狭間で、なんとなく筆を握って描いていったら、一枚の絵ができてしまった。


意識が途切れないように、きらきら輝いた刺激を脳に送りこんで、鮮やかな色に活き活きとしてもらって。


意識が途切れないように、せめて絵の中では一瞬を駆け抜けるように疾走する構図を息づかせて。


意識が途切れないように、バイクの機械音が轟々って鳴り響くのを願って――


意識が途切れないように、騒がしくきらびやかなネオンにもっと輝いて欲しくて――


途切れそうなワタシの意識を、絵の中のワタシに託して――


連れ去って欲しくて――


誰に、どこかへ。


絶縁体になった身体をから意識を切って、絵の中で息づいて、飛びだしたくて。


ワタシを連れ去るあなたは、どんな顔でワタシを連れ出してくれるっていうの。


顔が浮かばなくて、ライダーにフルフェイス。


でも連れ去られるワタシはとっても幸せで。


死んで、生きたい。


生きたい、意識が途切れた、その後に。









【幸福】


それは幸福が故の名前ではなくて。


幸福とは何か、まどろみの中で手さぐりに、思い至る華やかな様を幸福と名付けて。


自らが浮かべる幸福の中に自分を投射して。


身も心も家族と離れて、誰に分かってもらえば良いのかわからない中で。


それでも誰かにわかってほしい。


やっとのことで自我を、自尊を、自身を、自分を保つための筆だった。


朧な意識の中で、彼女があんなにも力強くはっきりとした線を刻めるのは何故か。


そのほっそりと柔らかな腕に雪化粧のような白を指先まで重ね終え、ボクは筆を置いた。


「もうすぐお盆だろう、実家には帰らないの?」


筆を置き、久方ぶりに口を開くボクを見て描き終えたことを察した彼女は細く小さく息を吐いてからゆっくり立ち上がる。


目をきゅっとつむりながら細い身体でくくっと伸びをする姿はギリシャ彫刻のようだ。


「多分、帰らないでしょうね。帰ってどうすればいいのか、わからないもの」


忘れちゃった。


もう一度大きく伸びをしながらつぶやいた一言は、真っ青な空でぬっと顔を出す入道雲を向いていた。



「上手く描けた?」


「さぁ」


「あれ、意外と自信ないのね。ワタシだからとか、気を遣わなくていいのに」


「そんなつもりじゃない。キミにとっての上手いって何なのだろうと思うと、上手くかけたとは言えなくて」


「それが気を遣ってるっていうんだよ」


「そういうものかな」


「さて、じゃあ見せて?楽しみ」


「あぁ、うん」





「――へぇ」


「なに」


「――ふぅん」


「なんなのさ」


「そう見えるんだなって」


「――そうだね」


「なるほど、ふんふん、なるほど」


「がっかり、したかな」


「いいえ、逆。ワタシ、とっても好きだよ、この絵。家宝にするよ」


「言い過ぎだ。信憑性がまるでない」


「いいえ、言いすぎなんかじゃない。やっぱり上手だよアナタ。素敵だよ」


「なら、ありがとう」


「照れてる、かわいい」


「まさか」


「泣いてるんだね、ワタシ――」







「――初めてだよ、初めて。ワタシ、こんな顔で泣けるんだね」


像など見えない。


ボクの目の前にいるのは、奇妙なまでに精巧なつくりをした西洋人形のように完成された女性の姿、ただ一姿だ。


彼女の前では重力でさえその重さを避け、この猛暑でさえ存在を主張せず、彼女を中心に世界が回るような圧倒感があった。


でもボクの目の前にいる女の子は泣いていた。


キャンバスの中で泣いていた。


人知れず、静かに泣いていた。


正面を見据えうっすらと微笑む涼しげな顔に、一筋の光がつたう。


愛情と憎しみと、殺意と、全部の感情が寄りかかっていた家族に近づけなくなって


ぶつけていた気持ちが自分の中で混ざり合って膨らんで。


寄りかかる場所がわからなくなって、気持ちを外へ抜く管は一本の筆の径しかなくて。


筆の毛先が、コーヒーフィルタのように不純物だけを取り除いて、生の気持ちがキャンバスの上に流れ落ちて描かれる。


誰か、分かって。


彼女は涙さえ、フィルタの内側に置いてきぼりにして、知らず知らず美しく筆を取ってきたように思う。


だからボクが描いてやろう。絵の中に救いを求めるのであれば、せめて絵の中だけでも泣いていい。


キミは悲しんでいい、泣いていいんだ。


ボクには見える。そう感じる。


「もっと早く、会っていれば良かった」


「どうして?」


「もっと早ければ、ワタシは泣けたかもしれないって、そう思うの」


「今からだって、遅くはないと思うけど」


「アナタが泣かせてくれる?」


「どうしてボクになるのさ」


「今アナタに抱きしめられたら、きっと涙が出てきそう。こんな風にワタシを描いてくれる人に抱きしめられるなんて、想像しただけでどきどきするもの」


「単純だよ、そんなの」


「アナタは思う?恋人ごっこしてたお父さんに相手にされなくなって、お母さんが憎くてたまらないワガママな子どもが癇癪かんしゃくを起してるところに、真新しいおもちゃを見つけて喜んでるだけってそう思う?」


「えらく卑下するんだね」


「ワタシが何を考えていたって、客観視されたらその程度のことなんだよ。だけど、今日ホッとしたの、自分には見えていなくても分かってくれる人はやっぱりいるんだって。その嬉しさ、あなたなら分かるでしょう」


「初めてキミに会ったときのボクがそうだったさ」


そう答えたときの塚本優妃の表情は、実に満足げだった。


長い時間描いていた。もう街灯に明かりが灯る。彼女が現れボクに一万円札を手渡したのは正午くらいだったから、6時間。似顔絵師としては落第のスピードだ。普段なら10組は描けるから、稼ぎも半分。落第な日だ。


「最後に一つだけきいて良い?」


涙を流すもう一人の自分をいつくしむように抱えた彼女はボクに尋ねる。


「この絵を見た瞬間の既視感はなんなのかな」


「そんなの、ボクが分かるわけないじゃないか」


「一目見たときは思わなかったのだけど、ワタシ、この絵と似た絵を観たことがある。この前の絵じゃなくて、もっと前」


それはもう一つしかない。


「3年前じゃないかな、母さんを描いたんだ」


彼女が観たというなら、それは全国高校文化祭でボクが出品した【母】以外にあり得ない。


瞬間、彼女は大きな目をさらにぴっと開いて大きくうなずく。人は、すっきりと合点がいった時にこんな顔をするのかと感心する。


「それ。画材も、タッチも全然違うのだけど、あの時に感じたものと同じ。なんだかとても懐かしくて心地よい感じ。あぁ、そうだよ。気持ちが良い感じ」


その既視感はボクが全く予想もしないものであったけれど、どこか納得してしまう。母さんも彼女も”同じ”なのだ。意図せずそんなものを感じさせるというならば、何かの因果を感じずにはいられない。


「でも、大賞作品と同じ感じだなんて、なんだかごめんなさいね」


「大賞?なんのことだ」


「なにって、とぼけてるの?あの時の作品のことだよ。アナタが大賞で、ワタシが準大賞。忘れるわけないでしょう」


「ばかな」


「冗談でしょ?アナタ、高校ナンバーワンだったのに」


忘れていたというより、そんな記憶自体がない。全国総合文化祭のあの日、ボクの印象にあるのは塚本優妃の【家族愛】だけだ。なぜこれが大賞でないのか。ボクにはその記憶しかない。


「なんでワタシが大賞じゃないのかって、正直信じられなかった。審査員の目もいよいよ節穴だって、そう思った。アナタの絵を見るまでは」


彼女に指摘されても、ボクは自分の作品が彼女より上位の受賞であったことが信じられない。消えているのだ、ぽっかりと。


【母】への印象。どんな絵であったかも、おぼろげにしか思い出せない。


「そう、あの時も納得したの。これには勝てない。っていうか、ワタシよりもたくさんのモノを抱えて、筆に託すことができる人がいるんだって、初めて同年代の絵に感動したの。そして今、ワタシはまた納得してる」


彼女の納得をよそに、ボクはわからない。何故だ。何故ボクは【母】を思い出せないんだ。


「でも今回はリベンジできちゃったね。まぁ今回のワタシの絵はなんだか副産物のようなものだけれど」


賞レースの評価なんて、一つの結果でしかないし、それで作品の優劣が決定的になるわけではない。特に大賞と次点の差など本来無いに等しいことだってままある。


しかし、人へ伝わる何かの観点において当時のボクは彼女よりも強い何かを持っていて、今は彼女の方が強い。


そうだ、今のボクに彼女の”黒”に勝るものなどありはしないだろう。


でも当時は――


ボクにもそれに迫るもの、強い思いを孕んでいたのか。


確かに描いたのだ。使命感を持って描いたのだ。それは覚えている。母を描く筆の質感はよみがえる。


でもそれ以上のことを、【母】についてその後のことを、ボクは思い出すことが出来ない。


「また会おうね、遥人くん」


そういって軽く手を振り微笑み、後ろ歩きでゆっくり去っていく塚本優妃の姿に、ボクは知らず知らず当時の母の記憶を追う。像なき輪郭を凝視しながら、彼女へ軽く手を振った。


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