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黒の住人   作者: にしおかナオ
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4.母さん

遥か彼方へ飛び出して。


遥かなる人になって欲しい。


だから、遥人。


由縁はとても単純だ。


母さんがボクにくれた名前。


「どんな分野だっていい。遠くに羽ばたけるような人になってくれたら――」


母さんはよく言っていた。母さんが運転する車の後部座席、どんな表情で言っていたかはわからないが、このセリフを聞くのは決まって母さんが運転する軽ワゴンの後部座席だった。


美術展、演劇、演奏会、博物館、科学館、書展、母さんはボクを色んな所へ連れ出してくれた。


それはきっと物心が備わるずっと前。きっと生まれてすぐの頃からずっと。


「どんなモノでもよく見ておくのよ遥人、あなたの心が、きっと豊かになっていくの」


何が琴線に触れるか、特に幼い子どもとなればそれはよく分からないし、一見無駄な行為に見えるかもしれない。


でもボクの脳に、心に、母さんが見せてくれた世界一つ一つはカラフルな継ぎはぎのパッチワークのように張り付いていった。


最初は目が粗かった。でも何度も何度も繰り返し上塗り、継ぎ足されていく色彩感と情緒。


ボクの心の画素は鮮やかにきらめいていった。


ボクは筆を握るようになった。人とは違う感覚で色を選び取り、空間を切り取り、世界を自分の力で描くようになった。


それはきっとこの体質との直接の因果関係はない。いくら像が見えたって、絵は上手くなれない。


ボクにとっての”父さん”という人を、ボクはちゃんと知らない。


母さんは話そうとしなかったし、周りの大人たちも何にも話さなかったから、ボクから聞くこともなかった。


母さんは周りの友達のお母さんたちよりもうんと若くて、僕が中学生になる歳にはまだ20代だったことから、ぼんやり理由がわかり始めたけれどやっぱり何も聞かなかった。


それを考え出したころには母さんはもう田村さんのモノで、深く考えるだけでおぞましかったこともある。


今思えば、母さんに近づく大人たち、いや男たちはみんな嫌な感じの像を持っていた。


お総菜屋さんで働けばたちまち看板娘になり、保険の外交員をやらせればすぐに売れっ子になったという。


よく言えば人気者。けれど女の人の場合、それが意図しないものでかつ異性への偏った好意を引き寄せてしまう場合、人はそれを”魔性”と呼ぶらしい。


確かに母さんはとても優しい人であったが、同時にとても”易しい”人でもあった。だからそれだけ良い人も悪い人も知らぬ間に惹きつけてしまう。そんな人。


『この人を母さんに近づけてはいけない』


ボクは幼心にずっと母さんに近づく嫌な感じを幾度となく掃って(祓って)きた。


でも本当に大事な場面で、田村さんの侵入を許してしまう結果となった。


今までとは違う、母さんの好意があの男に向けられていたばかりに、日和ってしまったのだ。


ボクも、”易し”かったのだ。


田村さんに犯され、侵されていった母さんは、それでもボクには優しかったし、ボクの前では母であろうとした。


『また入選したの?やったじゃない遥人!今日は絶対ハンバーグ!約束ね!』


中学になっても高校になっても、ご褒美はずっとハンバーグだったが、ボクはこのハンバーグが大好きだった。


母さんは賞の大小に関わらず、ボクが色んな場所で認められて帰ってくるのを喜んでくれた。


『前の作品も好きだったけど、母さんは今回の方が好きだな、だってこの色の使い方なんて今までで初めてでしょう?他にこんな色使いする子なんていないし、とっても魅力的なの』


母さんに絵の知識も芸術の造詣も特別なものはない。けれど彼女はボクにとって最高の評論家であって、一番のファンであった。


そんな母さんの一面が、ボクは大好きだったし、田村さんのモノになっても嫌いになれず、無関心にもなれなかった。



母さんが壊れ始めたのはボクが高校二年生のころだった。


「なんでできないんだ!僕はもう限界だ!なんでなんだこの役立たずが!」


そんなセリフで田村さんが母さんのことを罵ることが多くなっていったころ。


母さんと田村さんの間には子どもができなかった。


何度も何度も、母さんの子宮が壊れてしまうのではないかと思うくらい田村さんは母さんを、母さんとの子どもを求めたが、いよいよそれは遠ざかっていった。


どうやら不妊の検査を行ったらしく、その理由がしっかりと目に見える形で表れてから、田村さんの激昂は日に日に激しさを増した。


ゴミ箱に握りつぶされた検査結果が捨てられていたのを、何の因果か目にしたくもないのにボクは見てしまう。


原因は、田村さんにあったようだ。


正確な医師の見解は知らない。けれどその結果によると正常な精子量の値に対して彼の値は10分の1にも満たなかった。


それでも田村さんは母さんを抱き続けた。それはもう子どもをもうけるための行為というより、彼の当てつけで、ネグレクトの延長だった。


はらめ、孕め、ハラメ。


そんな呪いの呪文にも似た単語が、隣の部屋から漏れ伝わるようになり、母さんの喘ぎは日に日に苦く細くなっていった。


「母さん、ボクに描かせてくれない?」


「描かせてって、なにを?」


「母さんをだよ」


ある晴れた日曜日、母さんに言った。


その言葉に、母さんがどれだけ喜んだかわからない。彼女はボクが初めて何かの作品展に入賞したときに飛び切り喜んだ。母さんを描きたいと言ったときの笑顔はその時以上に感じたし、描き始めるまで、母さんのいっぱいの涙が乾くのをしばらく待っていたのを覚えている。


母を描く。描かなければならない。


これは、子としての直感だ。


ダイニングに立ち尽くす母さんを見たとき、母を描くチャンスはもう今しかないと思ったのだ。


とても穏やかな表情だった。


椅子に腰かけ静かにほほ笑む母さんは確か35歳になる年だったが、その表情は当時のボクと同じ17歳にも見えたし、それより幼く純朴にも見えた。


母さんの指の先まで描くと、ボクの指の先にもぴりっと心地よい力がこもった。


対人の写真家でも似顔絵画家でも、本当に素晴らしい描き手は技術よりも、相手の表情をどこまで引き出せるかによる。


ボクは決してプロの画家ではない。けれど誰よりもそのままの母さんを引き出すことができる唯一の人。


誰よりも上手く、母さんを描ける。今の母さんを描き留める。使命にも似た思いで筆を進めた。


丸一か月で、母を描いた。


【母】


ボクの高校生活最後の作品。


全国高校総合文化祭への出品作品だ。


「遥人くん、相談があるんだが、お母さんを殺さないか」


田村さんからそんなわけの訳の分からないことを言われたのは、高校三年の夏のことで、【母】が総合文化祭の県選考で大賞(県知事賞)となり、全国総合文化祭の県代表に選ばれた翌日のことだった。


夕食時、母さんがトイレに立った時のこと。田村さんは言った。


訳が分からなかった。


ご褒美のハンバーグが、かなり塩辛い。それは別にボクが訳の分からないことを聞いて味覚がおかしくなったからではない。このハンバーグは元から塩辛い。


母さんは味覚も壊れてしまった。


遥人おめでとう、はるとおめでとう、ハルトオメデトウ。


【母】を描きあげたその日から、なぜか母さんは加速して壊れた。


そしてボクは悟った。もうあのハンバーグは食べられないのだと。


そして田村さんも悟ったらしい。もう子どもは出来ないのだと。


「だいぶ前のことだが、保険をかけておいたんだ。死亡保険は2000万円。1000万円ずつで良いよ、悪い話じゃない」


前に友人が、大金が欲しければ銀行強盗がいい、上手くいけば誰も傷つかないし、誰も生活苦にしたりしない。困るのは銀行だけだと冗談めかして言ったことがある。


今目の前の男はあの時の友人みたく、悪びれることなくまるで冗談のように儲け話を持ち掛けていて、悪い話ではないと吐いた。


これが悪い話でないというのなら、世の中に悪い話など有りはしない。


母がトイレから戻ってくるなり平然とハンバーグを頬張り美味しいねと笑うこの男の像は濁り切り、どう表現して良いのかこのボクをして言葉が見つからない。


ただ、この時からだ。この男の像に霧がかかり始めたのは。


ボクは生まれて初めて、母さんのハンバーグを残してしまった。







お腹がいっぱいだった。




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