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黒の住人   作者: にしおかナオ
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3.インビジブル

『学生特別賞 ××遥人 作品名【虚像】』


学生特別賞という響きが、とにかく嫌だった。


学生だから特別、学生だけ特別。


授賞式で授与された賞状からまるで、電車の学割切符をもらうような感覚に陥ったことが我ながら情けない。


これなら一つ下の入選か、もう一つ下の佳作で良かった気がしてならない。


だってボクが学生でなかったのならばそういうことでしょう。


半年ほど前にゼミの教授に促されて応募した一般企業主催の美術展。若手の登竜門としてそこそこ知られている美術展で、全国紙の三面くらいには受賞者が発表される規模のものに入賞した。


【虚像】


合わせ鏡の前に立つ青年、幾重にも続く鏡の世界にはそれぞれ違う色彩、立体感、表情の像が延々と立ちすくんで果てなく並ぶ。


ボクが今まで見てきた像の記憶をつなぎ合わせ、時には一人の人間の像のうつろいを乗せ、人をかたどった誰も見たことがない”はず”の世界を紡ぎ描いた。


それが”学生”の一言で評されたような気持ちになるのは、ボクの感性が素直でないのか。


大学に入ってからというもの、賞という賞は出展を避けて通ってきたものを、お前はそれだけ描けるのになぜ出さないのかと教授に半ば捕まる形で初出展、そして初受賞だった。


しかしその結果が学生特別賞というのはいかにも皮肉だ。高校の全国総合文化祭でも確か入選したことがあったが、結局受賞には未だ”学生”がつきまとうことに肩を落とす。


いっそ審査員特別賞にしてくれればいいのだと恨めしく思ったが、審査員特別賞は別にあって、いかにも学生という響きが何か絶対不可侵のものとして扱われているきらいがある。



【寸評】

周囲の刺激を多感に受容する学生時期でしか描けないであろう繊細な世界観。思春期を超え、個としての価値観が醸成されつつある時期の環境を鋭い感性で咀嚼した作品。


小難しい言葉での評価が為されていたわけだけど、要は”学生だから描ける世界なんだ”、”若さ独特の感性なんだ”ということが言いたいらしい。


まったくナンセンスだ。


自分の感覚、思想、経験、可視、不可視、実像、偶像、神羅万象を咀嚼し表現するという観点にあっては何人たりとも平等であるはずだ。それを学生だから、若いからと決めつけるのは審査員のエゴなのではないかと感じてしまう。


そもそも虚像は僕にとってははっきりと見える世界であって、しっかりと輪郭をもって描ける対象であるのに、ボクが描いた世界をファンタジーか何かと勘違いしている批評が腹立たしいが、そんな説明をしたところで虚しく、通じないものだろう。


隣の県、ボクが住む街の倍ほどの大きな街の美術館で行われた授賞式。


ボクはそんな答えの出ない憂鬱を頭の中で繰り返しながら、他の作家の受賞作を見つめゆっくりと歩を進めていく。


良い作品というやつには、”像”が見える。


「神は細部に宿る」という言葉を使ったのは、どこの国の建築家だったか。少なくとも日本人ではなく、絵を描く芸術家でもなかった。確か建築家だ。


この言葉が八百万の神信仰がある日本人ではなく唯神論の民族から出たというところから、とても印象に残っていた。


この言葉がわかる人には、ボクの感覚を分かってもらえるのではないかと淡い期待をしたこともある。


もっともボクに見えるのは神ではなくて像であるわけだけど。


歩を進め、一つ一つの絵の前に立つと、はっきりと込められた思いが虚像となってボクに主張を投げかけてくる作品がある。


それはモチーフが人間でなくて、動物であっても、オブジェであっても、時に記号や文様であったとしてもしっかり輪郭を伴って視神経を刺激する。


正直、入賞しているかどうかの関わりはない。大賞であっても何の像も浮かばないことなんてザラだ。


評価の対象としてその虚像は何ら意味を持たないものであるかも知れない。実際ボク以外には見えないのだから。しかし強い色を、形を、気を発する作品や作者というのはやはり後々注目されていることが多いように思う。


見えないけれど、いつかどこかでは確実に伝わっているのだ。


そして今日、ボクは一つの作品の前で長く、足を止めることになった。


というか、全国紙の受賞発表があった時からこの絵を観に来たのだ。別に学割切符をもらうために隣県から出てきたわけではない。


「審査員特別賞 塚本 優妃 作品名【幸福】」


初めて衝撃を受けたのは、高校三年生の全国総合文化祭だった。


ボクも何か賞を獲ったことは覚えているが、確かその時も彼女より下だったのだ。


塚本 優妃


確か高校一年生となっていたから、ボクの二つ歳下の女の子だ。ほとんどの作品に像を感じることのなかった作品展の中で当時から彼女の作品だけが異彩を放っていた。


「準大賞 塚本 優妃 作品名【家族愛】」


総合文化祭の会場で大賞作品を抑えてひと際注目を集めた作品に、ボクも息を飲んだのを覚えている。


戦禍の跡のような焦土を背景にしていた。


ギリシャ彫刻のように美しく輝く真白い体躯の少女が一糸まとわず、絞首刑台を目の前にして父親であろう男性に後ろから抱きしめられている。


その表情は男女とも恍惚として、心から幸福を感じていることがうかがえる。笑顔を超えた朗らかさを持ったものだ。


絞首刑台は下から絵本、おもちゃ、教科書、お洒落な洋服と階段を上るにつれて少女の成長を象ったように積み重ねられている。


そして首にかけられるであろう絞首縄は、パーティで身に着けるネックレスのそれで、輪っかはダイアモンドが光る指輪だった。


この絵をして、彼女はこの光景を家族の愛だと名付ける。


15、6歳の少女がこんな絵を描くことを誰が想像できようか。


なぜこれが大賞ではないのか。この作品を前にしては他の作品など子供のお遊びにしか見えず、ボクは自らの作品すら恥じた。


【家族愛】は、濃く赤黒い像を額縁から溢れんばかり全体にまとっていた。


決してお遊びや興味本位で愛を名乗ったのではないという覚悟がその像からバチバチと伝わってきて、当時ボクはその絵の前で立ちくらみを起こしそうになった。


この少女は、本当に父親を愛しているのだ。


父としてでなく、おそらく男性として。それはもう狂おしいほどに。


この思いを誰に伝えよう、どこにぶつけよう、そう考え注ぎ込んだ愛が、静脈を流れる酸素濃度の低い血液のように黒く脈動している。


『酸欠のようだ』


そう思った。行き場のない愛が、酸素と結合できずどんどん黒ずんでいくような燃えたぎる欠乏の像を見た。


会ってみたいと思った。どんな人間が描くのかと。


高校生当時、それは叶わなかった。彼女は表彰式を欠席したのだ。


だから今回、受賞者の中に彼女の名前を見つけたときは脳に電流が走る感覚を得た。見つけたと。


しかしながら、今回も塚本 優妃は授賞式を欠席した。残念なことではあったが、またボクはこうして彼女の絵を前にして息を飲んでいる。


【幸福】


ルーベンスという有名な画家がいる。フランダースの犬で主人公が絶命する直前に絵を観、感嘆するあの画家。


彼女の絵は、ルーベンスの【レウキッポスの娘たちの略奪】という作品に着想を得たもののようだった。本家はギリシャ神話に登場する神の息子二人が、既に婚約が決まっている実の叔父レウキッポスの娘二人を略奪し、そのまま妻としてしまうという一場面で、馬に乗った男二人が裸の女性を抱き寄せて連れ去る瞬間の構図。


彼女は背景をネオンきらめく艶やかな歓楽街に変え、疾走する馬を大型バイクに変えた。


男性は、フルフェイスのヘルメット。女性は裸ではなく、藍色の下地に散りばめた白金が星空のようにきらめく神秘的な着物姿だ。


本家と大きく違うのは男女の表情。本家の娘は略奪の魔の手に戸惑いを見せているが、塚本優妃の作品の女性はこの時を待ちわびたように歓喜の笑みを静かに浮かべながら男性を見つめている。


三年前に観た、恍惚の表情ではなく、喜びの表情。


もちろんただのオマージュ作品ではない。画材は油絵でなく日本古来の伝統色を用いた日本画で仕上げているため、濃淡が鮮やか。線の輪郭一つ一つも実に力強い。


三年前に観た彼女の作品に比べて、明らかに技術も表現も成長が見られた。人としての奥行や、厚みも相まって、疾走するバイクは今にも額を突き破ってきそうな立体感だ。


しかし幸福な絵面に反してまとった像は、当時の赤黒さに輪をかけて濃い。





いや、この像はもう、黒だ。



「どっちが良かったかな、高校生のときの作品と」


「――どっちが良かったかっていうのは、答えられない。ただ――」


「ただ?」


「この作品の方が強い――――そう思う」


「強い、か。戦わせてみたいものだね」


彼女は興味深そうに薄紅色のくちびるをくすりと上げた。


何の脈絡もなく、気づけば隣でボクに話しかけてきた女性を、ボクは何故だかすぐにその人だとわかった。


するりと人の心身の距離をつめて近づいてくるこの女性に、違和感を抱かないということが気味悪くボクの胸の辺りで渦を巻く。


何かの幻想を目の当たりにしているのかと、目の前の女性にもう一度焦点を合わすと、彼女はその所作が可笑しかったらしく――


ワタシ、ここにいるよ。


そう、囁くように言った。


塚本優妃は三年前に観た【家族愛】、あの絵の少女そのものだった。まるで絵の中から現実の世界に飛び出してきたかのように。


黒のワンピースを着た西洋人形のようだ。顔だちは不気味なまでに整い、光を反射しない漆黒の長い髪と紫外線を浴びたことのないような白い肌が美しくも不健康そうなコントラストを描く。


そしてこの琥珀色にも似た色素の薄い瞳は、長い間見つめてはいけないと直感的に思った。


「ボクのことを知ってるんだね、驚いたよ」


「それは、あなたもね?」


「三年前、初めてキミの絵を観た時から、興味があったんだ。不思議と、本人とすぐわかるもんだね」


「それはお互いさま。ワタシもね、興味があったの。ワタシも会ってみたかったの」


「ボクに?」


「ええ、正直高校の三年間で他人の絵で興味があったのはアナタの絵だけだった。アナタの絵、とても特別だったよ?似てるなと思った、ワタシと」


「キミと、ボクが?」


畏怖にも似た念を覚える。人としての感性から、才能から、足元にも及ばないと思っていた対象から予想だにしない言葉だ。


「きっと、人とは違う世界にいるのよ。ワタシも、アナタも」







『見えているものが、違うのよ』


先日、80過ぎの老紳士の虚像を描いた。あの時仕上がった絵を観た瞬間の彼の気持ちが分かった気がする。


ボクは目の前の女性に向かって、声にならず、言葉にもならないよくわからないものが喉の奥から勢いよく飛び出していきそうな衝動に駆られて思わず口を抑えた。


その次は頭を深々と下げたいような、彼女を抱きしめたいような、とにかく身体の奥底が熱く震える感覚が駆け巡る。


長年自分にしかわからない感覚であったものが、長いトンネルを抜けてどこかに抜けたような明るさを伴って弾けた。


「そうだ。僕にも見えている。人とは違う何かが」


彼女は良かったと言い、そして今度はしっかりと歯を見せて笑った。ちゃんと笑った顔は、思ったより健康的に見える。


「きっとそのうち、誰かは分かってと思って描いてきたの。でも案外時間ってかかるものよね。お偉い先生の批評なんて、何のアテにもならないじゃない?審査員特別賞なんて体の良い言い訳よ、”よく分かりませんけど上手いです”ってね。それでいて最もらしく上手な批評なんて書いてくれるから、いつも言ってやりたいの、ソレチガイマスってね」


塚本優妃はぷくっと片方の頬を膨らませながら不機嫌そうな表情を作って見せた。意外と表情豊かな西洋人形だと思う。


「国語の模試で現代文のテストとかあるじゃない?あれって筆者本人にしっかり確認してるのかな、もしそうでないとしたら正解なんて記述できないと思うの。偉い評論家が勝手に正解付けてるならほんとに迷惑なお話。きっと筆者は私たちと同じ感覚に苛まれてるはずね」


もう”私たち”になっていることが可笑しくも、少し嬉しい。嬉しいなんて感情を抱くのはいつぶりのことか。


「どうして――」


「似てると思ったのかって?」


多分、こういうところからなのだろう。


「絵から感じるもの、それももちろんだけれどね、多分まともじゃないんだろうなって。家族とか、友達とか、そういう周りを構成するもの、捉えてる感覚が。でなきゃ、あんな絵は描けないもの」


「お父さんのこと、今も好きなのかい?」


ボクの質問に、塚本優妃はやっぱりわかるんだねとでも言いたげで満足げな表情を返す。


「好き。とっても。愛してる」


そして愛の言葉を優しく包み込むように述べるその表情は恍惚として、【家族愛】のそれだった。


しかしボクは腑に落ちない。そんな恍惚とした愛を今も孕んでいるというのなら、何故”幸福”の像はこうも黒く染まるのか。


ボクは塚本優妃という人そのものへの興味と同時に、あの老紳士を描いたとき出会って以来二度目の黒に、興味を駆り立てられる。


なぜ黒く染まるのか、どうやって生まれるのか。


美術館は静かだ。人が足音すらも殺す真に近い静寂の中で、時折空調の風音が場所によって生気なく交じる。


そんな中でボクらはボクらにしか聞こえない声量で静寂に敬意を払う。


「でもキミは、同時に嫌いなんだろう。お父さんのこと」


確信はなかった。けれど、自分の能力から手繰り寄せた仮説を述べる。


すると彼女は予想に反して喜々とした顔で返す。


「そう。嫌い。大嫌い。憎くて憎くて今にも殺してやりたい」


というか、一緒に死にたい。


最後の一言はそう聞こえたように思う。


「アナタは分かってくれるんだね。ワタシの期待した以上にちゃんと分かってくれるんだね」


何を期待していて、何を分かっているのかは正直不安だけれど、今まで彼女の中でゼロだった容器に1が注がれることを期待していて、今日2が注がれたとするならそれは期待以上なのだろう。


「どうして?なんて、デリカシーのないことは聞かないでね。またいつか教えてあげる」


「いつかって、いつになるんだろうね」


やっとのことで会えたのに、その答えを聞けるチャンスは永遠に来ないかもしれないと思えた。


「きっとそう遠くない未来よ。アナタ、○○市の景観地区で似顔絵描いてるんでしょ?会いに行くよ」


「なんでそんなことまで知ってるんだよ」


そもそも知っているなら今までもそこに来れば良かったではないか。


「アナタもしかして知らないの?”景観地区の人気似顔絵師”ってそこそこ有名なのに」


「人気を感じるほどは稼いでないからね」


塚本優妃はピンと人差し指を立てて、きっと今のうちだよと微笑んだ。


「その時は、ワタシを描いて欲しいの。もちろん、一万円持っていくからね。その代わりに、色々教えてあげる」


ふわりときびすを返して歩き出すその姿は、彼女の周りの重力が彼女に遠慮しているのかと思うほど軽やかだった。


やれやれ案外ボクが知らなかっただけで、彼女はボクのことを前から色々知っていたのかもしれない。


普段他人に余計な関心のないボクが覚えているくらいなのだ、同じような感覚を共有できる存在を渇望するのは当然か。


しかし、大いに困ったことになった。


ボクは彼女の裏を描かねばならぬらしい。


ボクはこの能力と付き合う中で極端に稀な経験に二つ遭遇している。


一つは、ここ最近出会った”黒”の像。この正体はまだよくわからない。


そしてもう一つは、極々稀に誰でもまとっているはずの像が見えない人間も存在するということだ。


彼女と出会った時、この事実が衝撃であると同時にどこか納得してしまう自分もいた。


塚本優妃の像は、ボクにとって無だ。







ボクには、彼女がまとった像が全く見えない。





二人目だ。





母さんと同じだった。

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