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黒の住人   作者: にしおかナオ
2/11

1.裏の顔、描きます

『あなたの表と裏、描きます。表2000円・裏1万円』


「お兄さん、流石に一万円はぼったくりなんじゃねぇのか?」


ホスト風の男が突っかかるようにボクに言葉を吐きかけると、肩を組んだ男の彼女らしいけばけばしい女がやめなよと申し訳程度に男を制す。


「そうですかね」


「裏ってなんだよ、エロく描いたりしてくれるわけ?」


「ちょっと説明が難しいんですけど、エロくはないっすね」


ボクは慣れている。どうやってもオカルトなニュアンスになってしまうから、訝しむ人は必ずいる。だからいちいち値交渉とか、売り込みなんてことはしない。


ボクが特に意に介さない様子を見せると、ホスト風の男は面白くなさそうに小さく舌打ちをして立ち去ろうとする。


女がねぇ普通の絵だけでも描いてもらおうよとせがむのを、無視して人ごみの中に消えていく。


内心ほっとしている。おそらくボクが彼の裏の顔を描いたりなんかしたら、出来上がった絵をみて掴みかかるか、下手をすれば殴られていたかもしれない。


うしろ姿が消えかかる男の背中を目で追う。彼の背中には、濁った灰の集合体のような、煙のようなものが弱々しく渦を巻いて、形を成したと思ったら崩れを繰り返している。


死期が近い人、特に自分から死期を近づけている人によく見る虚像だ。像が形を成そうとしながら輪郭を成せない。生命力の弱まりを示している。


多分、薬だろう。


いざお金をもらえば、そんなもの描きたくもないが描かねばならない。わざわざ殴られるものを描くのもつらいが、たまにそういうこともある。


男の虚像が、肩を組む女の像もその灰のような煙で包み込み浸食しているのが見える。すでに青白く生命力が薄まっている女の像にヒビが入る日も遠くないだろう。


「青か、寂しいんだね」




ボクの目には、そう見える。そう感じる。




人には見えないものが見える。それは幽霊・守護霊とかオカルトじみたものでもなくて、物心がついた時からボクの生活の中に当たり前にあるものだった。人がどんな柄の服を着ていて、どんなアクセサリーを身に着けているのかを見るくらい当たり前のこと。


”オーラ”って呼び方をするのが正しいのかと、一時期そんなものが流行ったときに自分と重ね合わせようとしてみたこともあった。けれどどうやら”その手”で有名な能力者に見えているものと、ボクが見えているものは色も形もあまりに違いすぎてやめた。


『あなたは愛に溢れた温かい色のオーラを持っているわ』


テレビに映る能力者が、依頼人らしき女性にそう語り掛けて涙を流すシーンを見たことがある。しかし実際依頼人がまとう像は鉄のように冷たく硬い印象で、鋭利な刃物のような鋭さがあったことにぎょっとしたのを覚えている。


非行に走る息子に母親の愛を伝えるといういかにもハートフルな企画で放送は感動の渦で反響も多かったと聞くが、実際その放送から3年後、依頼者の女性は当の息子を自宅で刺し殺して無理心中したという結末が話題になった。


彼女に本当は愛情にあふれる面がなかったのかどうかはよくわからないが、あの当時からもしもの時は手に負えない息子と刺し違えてでも制止させねばならぬという鉄のような思いがあったとするならば、それもまた母の愛をかたどった像というものだろうか。


ともあれボクはこの能力とも体質ともわからないものを使い、ストリートアーティストの真似事をしながら学費と生活費を稼いでいる。


ボクが住む地方都市は国に保護される文化財や、伝統的な街並みを保護する条例なんかもあって、そこそこ観光客が多い。特に若いカップルや老夫婦なんかも多いものだから、こうして歴史的な町家の一角に座り似顔絵を売ると、これが結構人気が出る。


ずらりと並べた似顔絵は、朗らかな笑顔ばかり。裏を描いたものは並べないようにしている。裏の像が見えていたとしても、特に濁りがなく表の顔と差が少ない人の絵は美しく生き生きと描けるので自信作が多い。


『すっごーい、生きてるみたい。想像以上!』


実際喜んでもらえることも多い。そうした作品を最初拝借して写真に残し、こうしてサンプルとして並べている。


『元気な赤ちゃん、生まれると良いですね』


時折カップルの女性側の像の中に、温かい色をした小包みほどの像が見えることがあると、少し声をかけてみる。


どうしてわかったんですかと心底驚かれることもあれば、まだ本人たちも気づいておらず怪訝な顔をされることも。だけど女性側が焦りを見せて像が牙をむきそうなほど急に濁るときもあって、あぁそういうことかと最近は気を付けるようにしている。



「描いていただけますかな」


今日はそろそろ店じまいかと思っていた夕刻、声をかけられた。


身なりの整った老紳士で、もう80はとおに過ぎているだろう風貌だったけれど、背筋はピンと伸びていてベージュのジャケットがよく似合っている。こちらを見据える目に老いは感じない。先ほどのホスト風の男なんか比べものにならない生気があった。


「もう今日は終わりですかな」


「いえ、まったく。構いませんよ。2000円は前払いですがよろしいですか?」


老紳士は一瞬だけ困ったような顔をしたが、少しだけ口元を緩めて言う。


「いえいえ、お兄さん。私はこちらに興味がありましてね」


そう言って使い古された牛皮の財布から差し出されたのは、1万円札だった。


『裏1万円』


実は表と裏描きますという触れ込みは、あまり前面に押し出してはいない。朗らかに並ぶ笑顔の中に交じった、ひっそりとしたお品書きだ。興味がある人か、心に何か思うところある人は、こんな感じで勝手に文字を見つけて依頼してくる。頻度は、大体週に一人か二人。


「よろしいんですか?」


「ええ、構いませんとも。どんなものなのか是非みたい」


あとから苦情は受け付けませんのでという前置きはもう決まり文句になっている。


「そこにおかけください。かゆいところとか、ツラくなったら動いて構いませんので」


ボクは老紳士のまとった像に隅から隅まで目を凝らして筆をとった。


表向きに感じる印象と同様、実にすらりとスマートな像だった。それでいて何か筋肉質な印象を抱く。別に像そのものがマッチョなわけじゃないが、精神的にとても強い。何か過去に強い負荷を受けてきたものだろうと察する。


もちろん絵画を描くわけだから、見えている像をそのままなぞって描くというわけではなく、ボク自身が感じた事を筆に乗せながら実像と重ね合わせ描いていく。


屈強でありながら特に角があるわけではなく優しい。その角も長年かけて削り取られ丸くなっていったような不思議な虚像。もちろん主観が入り混じるから、正確に表現できている保証はないけれど。


輪郭を描き、表情を描き、15分。あぁこれはなかなか力作になるなと思いながら、肩から首筋にかけて色を加えようと目を遣ったとき、ボクの心臓はドクンと大きく波を打った。


よく見ないと見落してしまいそうではあったが、左の鎖骨あたりにどす黒いビー玉ほどの大きさの穴が見える。


襟元だからブローチか何かだろうかと思い目を擦ったが、実像ではない。深く深くブラックホールのように密度が高く重い質量がこちらまで伝わってきて、軽くえづきを覚えてしまう。


長年この体質と付き合いながら見たことのない、どす黒い虚像がひっそりと彼の肩に潜んでいる。初めて人の目に触れることを虚像自体が怖がっているようなおぼろげさを持ちながら。


「どうかされましたかな」


一点を見つめたままじっと動かなかくなったボクのことを心配してか、老紳士に声をかけられ我に還る。


「いえ、すいません。ちょっと集中しすぎて」


一点だけを見つめると本当にブラックホールよろしく呑み込まれそうだ。


ボクはこの黒点を描くための絵の具を探すが、どうもこの黒さを表現するに値する黒が手持ちの絵の具には見当たらない。黒も二種類持ってはいるが、こんなものではない。目の前の老紳士の抱える黒さに比べればこの絵の具の黒さなど灰色に等しい。


仕方なく二種類のうち比較的濃い黒を選んで筆を持ち直す。表現したいものをこのような形で遮られるのは絵描きとして実にもどかしい。


幸か不幸か、ボクが描いた黒点にはボクをえづかせるほどの邪悪さを感じることはなく、ほとんど絵を描き終えることができた。


最後の仕上げにかかろうとしたとき、老紳士の黒点の中に確かに赤く燃えるものが少し見えたような気がした。ほんの一瞬ではあったが、たき火のまきがパチンと音を立てて崩れるときに起こるような火花が見えて、ボクは最後にその黒点の中にほんの少しだけ赤を加えた。


実に凛々しい姿の絵が仕上がった。見る人によれば実際の年齢よりも20歳ほど若く見えるのではないだろうか、それだけ彼の生気には活力があったし、まだまだ衰えるものではないと感じられたから。


その像の中で、居心地が悪そうにぽっかりと小さな口を開けた黒が異彩を放つ。


「――出来ました」


「あぁ、出来ましたか。ありがとう」


黒点をうまく表現できなかったのは悔やまれるが、全体はとても良い仕上がりに思えた。全体をみれば老紳士も黒点のことをそこまで気にも留めないかと思っていた。


出来上がった絵を手渡すと、彼は絵をじっと見つめたまま動かなかった。


どれくらい経ったろう。観光客がまばらになりはじめ、もう日が落ちようとした時、老紳士はゆっくりと口を開いた。


「お兄さん、あなた名前は何とおっしゃる」


遥人はるとと言います。苗字はちょっとすみません」


「遥人さん、あぁ、あなたは本物だ。わたしは一生今日という日を忘れないでしょう」


一瞬どういう意味のなのかボクにはわからなかったが、彼の生気のこもった目には光るものが溢れているように見えて、あぁボクはちゃんと描けたんだなと思った。


「あなたには確かにこれが見えるのですね」


そういって老紳士はシャツの第一ボタンをあけ、鎖骨のあたりを見せてくれた。そうだ、あの黒点があった場所だ。


そこには黒い虚像とは別に、何かふさがった丸い傷跡のようなものがあった。少し考えて、それが何であるか気づく。


「銃痕、ですね?」


老紳士は目をとじてこくりこくりとゆっくりうなずくと、目に溜めた光の粒がはらりと落ちた。


「サイパンで負ったものです。もう70年以上前のこと。私はまだ17歳でした」
















老紳士は、武勇伝を語るわけでもなく、戦争を知らない若者にも伝わりやすい言葉を選んだであろう形で回想してくれた。


1944年6月、太平洋戦争も末期に差し掛かったころにこの老紳士は当時の陸軍に志願し、サイパンへと送られた。当時のサイパンはいわゆる戦闘の最前線であり、サイパン陥落はすなわち日本本土への空爆攻撃の橋頭保となり得る。B29が離陸できる滑走路を備えていたため絶対死守の拠点であったという。


「防衛戦最後の一か月間は激烈でした。朝も夕も晩も関係なく米軍の戦車の轟音が迫り、隣でまどろんでいた友人が夜襲の銃弾でハチの巣になる。食べるものも底を尽き、まともに眠った記憶などない。私たちは抵抗を続けながらサイパン島の北へ北へと逃げました。たくさんの民間人を守りながらです。途中たくさんの友人、上官、優しくしてくださった現地の方を見捨てながら、時にはまだ生きている人々を踏みつけながら逃げました。今すぐ自分ののど元へ銃口を当てて引き金を引きたいという衝動に何度もかられ、気が狂ってしまいそうなのを抑え込むのに必死な日々でした」


『大日本帝国バンザイ!』


バンザイクリフという名の崖が、サイパン島の北端にあるという。追い詰められた日本人が軍人民間人関わりなくその身を投げ、手りゅう弾で四散した崖として、米軍から奇異の対象としてその名を受けた崖だ。


「私たちもその崖の近くまで追い詰められたとき、これまで面倒をみて下さった将校が私にこう言ったのです。『貴様は残った民間人を連れて米軍に投降せよ』と。今思えば変わった上官だったと思います。当時は一億玉砕の思想が下士官どころか民間人にまで刷り込まれた国民意識の渦中ですから。この人は追い詰められて、人とは違った方向に気が狂ったのかと感じましたがそうではなかった」


彼に預けれたのは、逃避行の中で親を失いながらも必死に逃げてきた子供たち10余人。これより北は玉砕以外にない道のり。彼自身を含め、年端もいかぬ若者は死なせないという上官の最後の思いだった。


老紳士の記憶によれば、指示を下した当の上官も二十歳そこそこの若者であったという。


14ページ

『少尉殿、できません。私も最後まで戦わせてください』


「それでも私は最初固辞しました。まだ10代とはいえ私とて志願してサイパンの地に足を踏み入れた者。志願したその日からいつ死んでも良い覚悟はしているつもりでしたから」


そして、固辞する青年兵に至近距離から打ち込まれたのが、あの一発の銃弾だった。


『馬鹿者!命令である!今すぐ行かんかっ!』


銃弾は、敵から打ち込まれたものではなく部下の無事を祈る上官からのものだった。上官は知ってか知らずが、銃弾は鎖骨下動脈を外れて貫通していたという。


「肩を抑え、子供たちを連れながら私は投降しました。なんと手荒な餞別かと思いますが、上官には感謝しているのです。あそこまでされなければきっと私は命令を受け入れなかったでしょうから」


手負いの青年兵が10余人の子供を引き連れて、バンザイクリフの陣地から降りてくる光景。それは捕虜を保護した米兵からすれば、玉砕覚悟の鬼人日本兵と比べてよほど真っ当な考えを持った子供であると映ったことだろう。


「未だ夏が来ると、この傷が当時のように痛みをもってうずくのです。70年経った今でもです。私はあの銃弾を受けたとき、上官をはじめサイパンで死んでいった人たちの魂がこの肩にわずかながら乗り移ったと思っているのです。この時期になると、自然と当時の人々の記憶や痛みが傷を通して蘇って来る。まだぽっかりとここに穴が空いているように思うのです」









昭和初期のガス灯を模したに街灯に明かりがともって、風情ある町家と老紳士を夕闇の中で弱々しくも優しく照らしている。


旅館が貸してくれるのだろう淡い色の浴衣を着たカップルがぽつりぽつりと通りを埋めるようになってきた。


「遥人さん、この傷跡はこんな風に見えるのですね」


「ええ、ちょっと表現するのは難しいのですけれど、そう見えます。本当はもっと濃く、本当に吸い込まれてしまいそうなのですが、しっかり表現できているかは――」


老紳士は十分ですとつぶやきながら、こくりと一度うなずいた。


この体質でボクが見える色には何かしらの脳の信号だったり、伝達物質だったり、目の網膜の性質だったり、色んなものが作用しているのだろうけれど、この”色”から受ける印象というのはボクの主観以外に測れる尺度がない。


青が叙情であったり、赤が怒りであったり欲情であったり、本人の実像と重ね合わせながら、自分なりのデータベースが頭の中にあったりする。しかしこの黒というのは、やはり初めてお目にかかる色であった。


    


彼はどうしてボクがこの傷を感じ取ることができたのか、どういう力なのかなんてことは一つも聞かなかった。只々、80余年生きてきた中で、ある種唯一の理解者に巡り会ったかのように自らの苦しみに救いを見つけたかのように穏やかな表情で何度も礼を言われた。


「途中――」


最後にボクは一つだけ彼に問うてみる。


「確かに真っ黒な印象ではありました。でも途中、その黒の中に赤く渦巻いて光るものがあったように感じたんです。だから――」


絵の黒には少しだけ赤を書き加えたことを指さす。すると老紳士は少し驚いた表情を作りながら笑っていう。


「あなたにはこの傷が伝わるだけでなく鋭い感性もあるのですね、時折傷のうずきと別に熱くじんわりとここに血が巡るのを感じることがあるのです。これこそ彼らがここに息づいていると感じる所以なのかもしれません」


彼はボクの絵と、感性と、そして能力に十分すぎる賛辞を贈ったあと、こう付け加えた。


「素晴らしい力ですが、同時にあなたも苦しいでしょう」


それは人の様々な面が願わずとも見えてしまうボクへの彼なりの労りであったのだろう。確かに苦しいことはある。だが申し訳ないけれどボクにとっては決して特別な苦しみの種ではない。むしろ――


「そうでしょうか。生きていれば苦しいことなんて、誰にでもあるでしょうから」


何も見えない中で生きていく”普通の人”のほうが、よほど苦しいのではないか。ボクは思う。


帰り支度をしながら、老紳士の背中を見送る。絵を大事そうに抱えて帰路に就く彼の姿は、ボクが描いたそれよりも一層の明るい生気を放っていた。黒く深い過去の魂を包み込みながら。


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