0.プロローグ
ボクは結局殺してしまった。
結局、田村さんを殺してしまった。
ホコリ一つなくきれいに掃除されたダイニングキッチンのフローリングに、鮮やかな赤い湖が広がって、ボクの足元まで迫ってくる。
背中を何回刺しただろうか。最初に突き刺したときには拍子抜けなほど手ごたえがなく、確実に殺すためというよりは手ごたえを確認するために2回ほどやり直したところまでは覚えている。
3回以上刺すと、こんなに出るものなのだな、血って。
さっき田村さんが僕に椅子を投げつけたときにできた傷だろうか、まだ築3年の真新しいマンションのフローリングには不自然なくぼみができていたけど、そのくぼみにもどろりと血が広がって埋める。
あぁ、死んだ。やっと死んだ。
一言を冷静に反芻してクールダウンを図るボクの脳が半分。もう半分は今にも脳の血管が焼き切れてしまうのではないかと思うくらいに煮えたぎって熱い。脳にモーターも歯車も、バッテリーだって埋まっちゃいないけれど、とにかく脳細胞がそれに似た形をしているならば、目で追えない速さできゅるきゅると軋みながら回っている感覚に近い。
顔からは汗なのか涙なのか鼻水なのかヨダレなのかもよくわからない液体がぽたぽたとバカになった蛇口の水漏れのように滴りおちて、足元まできた赤い湖と混じるとすぐに赤に飲まれていく。
食器洗いの洗剤が油汚れを寄せ付けないCMみたく、正義を行ったボクの数滴の体液が、邪悪な血を清めて寄せ付けないなんて描写を、ボクは半分の冷静な頭の中で想像して願ってみたけど、それはなんだか田村さんに申し訳なくてやめた。
息が荒い。
最期の十数秒、田村さんが残った力を振り絞りながら這いつくばって30センチほど動いた跡が、生々しく残っている。猛獣の爪に引き裂かれたかのような鮮やかな模様が、フローリングに残る。
あぁ、これは絵の題材にできそうだから写真に残しておこうかなんて、また田村さんに失礼なことをボクは思ってしまった。
田村さんが這ってでも向かおうとしたのは、助けを求めるための出口でも携帯電話を置いてあるリビングテーブルでもなくて、キッチンカウンターの隅で笑う母さんの絵だった。
ほんの数メートルの移動の余地すら自分の人生に残されていないと悟った田村さんは、動けなくなったその場で大きく右手を伸ばしていた。
この人は、いざ自分の命が尽きようという時にあの女性に何を求めようとしたのだろうか、子供ができないと分かった途端にボロ雑巾よりもひどい扱いで壊してしまった女に今更なにを求めようとしたのだろうか。
許して?助けて?もうすぐ行くよ?
何にせよ最後の瞬間まで母を求めようとしたこの男に対して湧き上がるのは怒りというより、どうしようもない哀れみともう母さんに近づく資格はないということを絶命をもってわからせる使命感にも似た義務感だけだった。
いつもはデッサン用の鉛筆を削るボクのナイフが、今は田村さんの大きく伸ばした右手の甲に深く突き刺さっている。
11月の雨の日だった。マンションに打ち付ける雨は鋭い風を味方につけて、今にもこの部屋めがけて窓を突き破ってきそうな勢いで打ちつけてくる。
血の海になったフローリングが異常に冷たい。田村さんの赤は失った体温を奪い返すかのごとく、ボクの足の裏から熱を奪ってかかる。
冷えは皮膚を通り越し骨を伝って、さっきまで焼き切れそうだった脳まで凍らせるのではないかとボクは怖かった。
ボクはべっとりと張り付いた田村さんの赤が乾ききっていないのにも気づかず、その手のままガスヒーターのスイッチを押す。
点火までは、まだ時間がかかりそうだ。




