【グラウンド・ゼロ】 地に落ちた流者
力の抜けた股間のあたりがサラサラと冷たかった。
滴り落ちてくる水がびちゃびちゃと頬に当たっている。
まだ寝足りなかったが、眩しすぎて目を閉じていられなかった。
空気がおかしい。
煙を吸ってむせていたはずなのに、今は空気がおいしい。
違和感に気づいて飛び起きると、そこは広々として色彩豊かな花畑だった。黒い岩から水が溢れ出し、そこに溜まった小さな泉に下半身が水没していた。
スウェットは煤けて臭いけれど、火傷はしていない。体がいつになく軽く、動けないほど痛かった腰がピンピンしている。
あぁ、そういうことか。これは『あの世』ってやつだ。
俺は火事で煙を吸って、死んだのだ。
ひょいと小川を越えると、お花畑の向こうはざわわとそよぐ草原だった。生ぬるい風が吹いて、下半身から寒気を感じる。そりゃそうだ。
俺は手ごろな木の枝にズボンを干しながら、膝を抱えた。
あの世に来たのはいいけれど。パンツ一丁でお花畑スタートって、これどうしたらいいんだ?
草原の向こう、闇の濃くなりつつある森の奥から、何かが近づいて来る。
馬に乗った人影……それはこちらに気づいて筋骨隆々とした馬を停め、じっと見つめてくる。逆光の上にフードをかぶっているので、何者かは分からない。
俺はズボンを履いて、足踏みする馬とは反対方向へ歩き始めた。
けれども、やっぱりか!
蹄の音が背後から全速力で追いかけてくる。
「おいっ、待てよ!」
馬と男の声に煽られ、今日何度目かの受け身を草花の上で取った。
「悪いことは言わねぇから、ちょっと待て。落ち着けって!」
鞍から華麗に飛び降りた中年の男は、俺のフードを掴んで離さなかった。
「何にも持ってません、放してください!」
「いいから落ち着いて、これでも飲めよ」
……えっ?
「ったく、新しい人生の始まりだってのに、何もかもに嫌気がさしたような面しやがって」
意外なことに男は俺の隣に腰かけ、たぷんとした革袋を放ってくる。
中身はただの水だったが、それでも空腹よりはマシ、と俺は勢いよく腹に流し込んだ。
「おいおいおい、挨拶もまだだってのに随分な飲みっぷりだな」
「あっ……すみません……(ゴクッ)……俺……(ゴクッ)……タイガです」
「オレは柘榴旅団の前衛、タケ。ヨロシクな。っておい、どんだけ飲んでんだよ!」
「……ご馳走様でした。ありがとうございます」
革袋を投げ返すと、ペシャンと音がして気まずい感じになった。が、タケさんはニヤリと片目を瞑って笑った。
「水も空気もうまくてびっくりだよな。最初は誰でもそうだ」
厚かましさついで、というつもりはないのだが、水を得た腹がぐぅうと食べ物を要求してくる。
「タイガ、いつこっちに出てきたんだ?」
「さっき生まれ変わったばっかりです。もしかしたらタケさんもですか?」
「あぁ、俺はもう5年になるかな」
5年って……やっぱり明日の朝、目が覚めたら元の世界に戻れたりはしないのか。
それとも、この男の存在も含めて全てが、死の直前に見ている『夢』なのか?
「なぁタイガ。過去の人生をあれこれほじくる気はないがぁ、いつまでもシケた顔してんじゃないよ。せっかく拾った命なんだろ?」
「……はい。そうですけど……」
「だったらシャキッとしろ。ほれ、雨が来る前に出発するぞ」
タケさんは俺の手をがっしり掴んで引き起こした。
「出発ってどこにですか?」
「まぁ、着いてのお楽しみだ」
馬に二人で跨って砂利の小道を走ると、薄暗い空から雨粒がこぼれ始めた。
タケさんは手綱を握ったまま、ひょいっと片手で俺のフードを被せてくれる。
二人乗りで5分ほど走るうちに、雨足が本格的に強くなってきた。
『遅いぞ!ローシァチ!』とタケさんが栗毛の馬に鞭打ち、薄暗い森をぐんぐん突き抜けてゆく。
やがて木々のスライドが途切れ、開けた視界にこじんまりした民家が見えてくる。
門の脇で、フードを被った背の低い人影が、手に息を吹きかけていた。
「遅いよー、もう風邪ひきそう」
「掘り出し物を見つけたもんで悪かったな。別に先に入っててくれても良かったんだが」
「また新人さん?」
タケさんの娘だろうか? 金髪三つ編みの少女が、深いフードの奥から恥ずかしげに覗き込んでくる。
「俺、タイガっていいます」
「こないだの人、一週間で退団したばっかりなのに」
あれ?スルー?
くるりと背を向けた少女は、馬の荷を降ろしながら何やらブツクサ言っている。
「今回はワケありのお墨付きだ。こないだの軟弱者とは肝の座りがちょっと違うぜ」
「ふーん。団長に断りなく連れてきて、どこかの諜報員だったりしても知らないんだから」
「大丈夫、団長だって気に入るさ。ほれ、濡れるから続きは中でな」
タケさんが裏手に馬を回す間、俺は玄関の軒下で金髪少女と二人きりになってしまった。
道をゆく旅人も、ずぶぬれになって馬を逸らせている。
少女は鞄を開けたり閉めたり、もぞもぞしながら指を温めている。
「……ミュウ」
「ん? いま鳴いた?」
「ミュウ! ヨロシクって言ってるの!」
「お、おう。ミュウ!」
けれども握手をしようと差し出した右手が、少女に平手打ちされる。
「なんで初対面で呼び捨てなのよ!」
「えっ? ……あの、すみませんでした」
おいぃぃぃぃい。
ミュウ!ってこっち語で『ヨロシク』って挨拶じゃなかったのか!?
「おい、二人ともいつまでイチャコラしてんだ? 開いてるぞ」
「別にイチャコラなんてしてません!」
ミュウはプリプリしながらフードの雨だれを払って中へ進んだ。
俺はお詫びがてら鞍から降ろした荷物を担いで後に続く。
ずぶ濡れのスウェットから、中世の平民のような服に着替え終わる頃には、蝋燭を灯した小ぶりな台所では、ミュウが夕食の準備を始めていた。
「タイガ、料理の腕は?」
彼女はナイフ二本を器用にくるくると回しながら、視線をあらぬ方へ飛ばした。
料理は嫌いじゃないが、さすがに俺の出る幕ではなさそうだな。
それに加えて。
「苦手じゃないけれど、今ちょっと火を見るのが怖い」
「そぅ。じゃあ代わりに蔵からワイン探してきて。赤のいいやつ」
素直に蔵を探そうとした瞬間、俺は腰が抜けそうになった。
ミュウが薄黄緑色の本を開いて何かを呟くと、指先に虹色の光が灯り、かまどの炭に火をつけたからだ。
おそらくこの世界ではあの本を使ってスキルが使えるのだ!後で詳しく教えて貰わなければ。
「おーい、いつまでイチャコラやってんだ?」
タケさんが、俺が頼まれていたワインを5~6本抱えて台所に顔を出した。
「そんなに尻の軽い女じゃありません!」
「待て、降参!ナイフをこっちに向けるな!」
ミュウは頬を少し上気させながら本を片手に、突然手元に現れたナイフを突き出した。それほどまでに彼女のナイフさばきは凄腕なのか、タケさんはワインを抱えて、すごすごとリビングへ引き返して行く。
「まったくもう、すぐイヤラシイこと考えるんだから……」
宴は、年長者のタケさんの音頭で始まった。
旅団の他のメンバーは、急な仕事で今夜は帰ってこられないらしく、多量の料理を三人で囲んでグラスを傾ける。
「新たなる門出の祝いだ。今夜は盛大に楽しもう!柘榴旅団とタイガに乾杯!」
「乾杯!」
「グルナードと……タイガにもちょっとだけ乾杯」
金髪の三つ編みを解いたしぶしぶ顔のミュウと、俺はグラスを合わせた。
ワインに微かに漂っている果物の香りは、もしかして柘榴だろうか。そしらぬ顔をしながら俺が料理を口にする瞬間を捉えようとミュウがチラ見してくるので、ゆっくり味わうまもなくグラスを置き、銀のフォークを手に取った。
「うまい! 料理も本当に美味い!」
「私が腕を振るったんだから、当たり前なのよ」
ミュウが何かのスキルで補助していたのを見ていたのだが、黙っておこう。どのみち口の中が満杯で、これ以上突っ込んでいる余裕はない。
「ちょっとタイガ! 肉ばっかり食べないでよ」
「ほひ? はっへ、うはいんはほん」
その時、ドバンと部屋中の扉が一斉に開いた。
ぅおぉお、びっくりした!なんだよ!?
「動くな! 全員手を挙げろ!」
本を手にした武装集団がぞろぞろ雪崩れ込んでくる。
……ナンデスカコレハ???
ドッキリ??
ソレトモ、アラテノ、ツツモタセカ、ナニカダッタ??
「動くなと言ってるだろ!」
はいぃぃ、すんません!
横目で確かめると、タケさんとミュウまでもが、両手を挙げたままじりじりと壁際へ後退していく。
「……お前さん尾行られてたな?」
「私じゃない。むしろそっちでしょ?」
これ、どうみても新人歓迎の余興じゃないですよね?
シュパッ ポゥ
蝋燭の灯りが瞬時に全て消え、怒号と幻想的な光が火花を散らして飛び交った。
暗闇の中をナイフや球など、投擲武器が部屋の壁を破壊してゆく。
ギン ギン ギイン
このままじゃまずい。タケさんとミュウの声が聞こえないが無事なのか?
いや、依然として攻撃の手が緩まないということは、まだ終わってはいないはずた。
暗闇で火花を見ると、心臓が張り裂けそうなほど高鳴るが。
何もできないまま転生初日で終了なんて、まっぴら御免だ。
力が……力が欲しい!
* * *
『それでその後、制圧戦の間ずっとテーブルの下から動けずにいた……と』
「……はい」
『衛兵に協力しようとは思わなかったのか?』
「はい。入ってきたのが衛兵だとは思いませんでした」
『ふーむ』
深夜の取り調べは、三度供述を繰り返してもなお終わってくれなかった。
髭もじゃの男に代わって、今度は若めのブルネットの女衛兵が俺の前に座る。
豊満な、けれども筋肉もしっかりついたお姉さんだ。
彼女は俺の瞳を覗き込み、誘惑するような声で詰問してくる。
『勧誘されたのはどの時点だったの~?』
「勧誘というか……腹が減っていたので、ついて行っただけです」
『タケとミュウがグルナードの一味だと気づいたのはいつ?』
「会った時に、向こうからそう名乗ってきました」
『それなのに逃げようとは思わなかった?』
「最初は一瞬、逃げました。でも悪い人ではないように思えました」
『盗賊団だと名乗ったのに?』
「旅団……と名乗っていたので、グルナードが盗賊団だとは思いませんでした」
『じゃあ最後にボクから』
まだ続くのか。いったい夜中の何時だと思ってるんだ。
ブル姉に代わって、ひょろんとした優男がスチャラっと椅子を回して頬杖をつく。
『玄関で見張りに立っている間、誰か通らなかった?』
「馬に乗った旅人が通って、前に乗っていた人影が小さめだったので、親子かなぁと」
『なるほどスルーね。自分が“見張り役”だっていう自覚はあったんだ?』
「いや、そうじゃないです! 見張ってなくても玄関にいたら自然に見えるでしょ。こんな夜中に取り調べを受けてたら、早く終わらせるために一言や二言スルーしたくもなるってもんでしょ!?」
ぬかった。
最後の刺客は、チャラい優男と見せかけての、ひっかけ問題だったか。
『若いうちは自分が騙されたってのを認めるのは簡単じゃないのは判るがな。孤独を抱えている奴を手下に引きずり込むのは、連中にとっちゃ朝飯前なんだよ』
「手下?」
『奴らはお前のことを仲間だなんて、ハナからこれっぽっちも思っちゃいない』
「タケさんとミュウが捕まって、そう証言でもしたんですか?」
『本当にチョロイ坊主だな。柘榴盗賊団にはタケとミュウなんて名前のメンバーは存在しないんだよ』
指名手配の似顔絵は確かにタケさんとミュウのものだったが。
親殺しのテツジロウ(前科5犯)、肉斬り包丁のラムネシア(前科2犯)。
俺は狐につままれたように、開いた口が塞がらなかった。
取調室に入ってきた若い衛兵が、髭もじゃに耳打ちをする。
『おい、お花畑のボウズ、部屋を用意しとくから、今晩は泊まっていけ』
旅は道連れ、世は情け……とはよく言ったものだ。
見知らぬ異世界。屋根の下で眠れるだけありがたい。
取調べの理不尽を忘れ、感謝の言葉さえ述べたというのに。
……俺に用意された部屋は、留置場だった。
本編へ続く。