男爵家令嬢専属侍女VS元騎士
廊下を埋め尽くすほどの黒服集団と、それに対峙する小柄な侍女。
ルパード・ベルクはナイフを持つ侍女を一瞥し、はっと笑う。
「侍女が騎士気取りか? ……俺のことを知らないようだな。追放されたとはいえ、剣の腕は落ちておらん」
チェリーは分かっていた。離宮での惨い殺戮の跡。頸動脈をすっぱりと斬られた被害者は、ラルフの半月刀ではなく騎士剣で襲われたこと。
つまり、あの殺戮を行ったのは、この男。かつては王城の栄えある騎士として脚光を浴びた、ルパード・ベルクであると。
だが、チェリーは何も言わない。顔を少しうつむけて、右手にロイドから譲ってもらったナイフを、左手には最初から自分が持っていた果物ナイフを、それぞれ持ったままルパードの前に立っている。
ルパードは剣を下ろす。侍女一人、自分が手を下す必要もないと思ったのかもしれない。
「おい、おまえたち。さっさとこの女を始末しろ」
ラルフが顎で示すと、黒服の一人が不満げに声を上げる。
「ルパード殿、襲撃は全てあなたが引き受けるとおっしゃったではないですか」
「気が変わった。俺はこの侍女より、さっき仕留め損ねた男爵家の小娘の首を刎ねたい」
「そんな、勝手なことを――」
男の言葉は、そこまでだった。
しゃん、とルパードの剣が振り上げられ、次の瞬間には喉から血を吹き出して倒れる、男の姿があった。
仲間を一瞬のうちに殺害された黒服集団はどよめくが、ルパードに静かに睨まれ、鎮静する。
「文句がある奴は、こいつのように俺の剣の錆になるがいい。……忘れるなよ、アレンドラ侯爵家の家来共。おまえたちの総指揮は俺に任されている。俺に逆らえば即死刑、そうでなくても、メルティに逆らったとして処罰を受ける」
メルティ・アレンドラがどういう人間なのか、皆よく分かっているのだろう。彼らは悔しそうに唸りつつ、チェリーの方に意識を向ける。
目の前で人が死んだというのに、チェリーは微動だにしない。よく見ると、チェリーの胸が不規則に上下している。ふ、ふ、ふー、ふ、ふ……と、リズミカルな呼吸をしている。
ルパードは剣を下ろし、棒立ち状態のチェリーを見て、小さく笑う。
「さあ、とっととこの侍女を殺せ。殺した奴は、メルティに進言してやってもいい――」
言葉途中で、ルパードはゾクッと背筋を凍らせる。
一瞬前までは、黙りで怪しいだけの侍女だったチェリーを纏う空気が、違っている。騎士として長年鍛練を積んだ彼の鼻は、確実にチェリーの異様な空気を嗅ぎ取っていた。
「……これは?」
わずかな動揺を見せるルパードの横を、我先にアレンドラ侯爵家の家来が駆け抜けていく。
剣が、槍が、ナイフが、小さなチェリーの体に襲いかかる――
『あなた、死んじゃうの?』
幼い少女の声。純真無垢で、汚れのない目と、きれいな手を持ったお嬢様。
ボロ布のような自分に差し出される、ふわふわした小さな手。
その手を掴むことは、あの時の自分にはできなかった。
『じゃあ、あなたの名前はチェリーね!』
暖かな日光が降り注ぐ午後の日。お嬢様は、満面の笑顔でそう言って、今自分が食べようとしていた大粒のサクランボを見せる。
『ほら、この実みたいにきれいな目をしているから!』
お嬢様。
死ぬことしか考えていなかった自分に、生きるという道を選ばせてくれた、お嬢様。
チェリーに人生を歩み直す機会を与えてくれた人。
『チェリー……あなたは今後、侍女としてお嬢様にお仕えします。その際、決して今までのように、×××××をしてはいけませんよ』
夕暮れ時の廊下でチェリーに諭す、侍女長。チェリーに侍女としてのスキルを与えてくれた、尊敬する女性。
『いいですか。あなたが今後、お嬢様と共に明るい場所を歩きたいと思うのなら……決して、×××××しないこと』
『……ナイフを使うのも、ダメですか』
チェリーは問うてみた。侍女長は少し考えた後、答える。
『……あなたがナイフを使うとき、そして×××××するとき、それはすなわち――』
お嬢様の身に、危険が迫ったときだけですよ。
チェリーは、風になっていた。
両手に大きさの違うナイフを持ち、風のように黒服集団の間を駆け抜ける。
「ぐっ……!」
「うぐあっ!」
あちこちで上がる、悲鳴。濃厚な血の臭い。
チェリーが立ち止まったとき、彼女の通り道にいた者は誰一人、息をしていなかった。チェリーのナイフは確実に、襲撃者の喉の血管を断ち切っていたのだ。
他の者たちからは、チェリーがただ単に黒服集団の間を走り抜けたようにしか見えなかっただろう。数名が悲鳴を上げ、逃げようと及び腰になる。
が、チェリーはそれを逃さなかった。
きゅっ、とブーツの爪先を鳴らせて回転し、逃げようと背中を見せた者の背後に跳びかかり、一息のうちにその喉を切り裂く。返す刃で、自分の真横にいた者の首の血管も切断する。
バタバタとなぎ倒されるアレンドラ家の家来たち。まさかの展開に、さしものルパードも凍り付いていた。
「……な、なんだ、この女……?」
誰かが裏返った声で呟く。
『私は、チェリー』
『アリシアお嬢様の、一番の侍女』
サクランボみたい、とアリシアに褒められた赤茶色の目には、今、感情の欠片も残っていない。あるのはただただ、殺戮本能のみ。
大切なお嬢様を傷つけた者たちを、一人たりとも生かさないという、純粋で真っ直ぐな願いのみ。
――六年前まで、生きるために必死で殺人や強盗を繰り返していたチェリー。貧困生活の中で身に付いた暗殺術は、アリシアの側で生きるために、封印してきた。日だまりの場所で微笑むアリシアに、闇を見せてはならない。侍女長の教えを、チェリーは守ってきた。
だが、この者たちはアリシアを傷つけた。ロイドが昔、アリシアと喧嘩して殴ってしまったときとは全く違う。敵は、アリシアを殺す気でいた。
だから、チェリーは容赦しない。
アリシアを傷つける者は、全て始末する。
我に返った数名の男がチェリーに襲いかかるが、そのどれもチェリーを傷つけるどころか、彼女の侍女服の裾にすら触れることは叶わなかった。鍛錬しているとはいえ、守られた場所で実地訓練していた騎士と、それこそ生きるか死ぬかの瀬戸際を何年間も彷徨ってきたチェリーとでは、場数が違う上、決意も実力も違う。
侍女としての仮面を外したチェリーは、立派な暗殺者だった。
殺す。
お嬢様を傷つける者は、殺す。
チェリーがゆっくり、血だまりの中を歩いてくる。ぺしゃ、ぴしゃ、と血糊が跳ね、チェリーのお仕着せを赤黒く染め上げていく。
じり、と首筋に殺気を感じ、ルパードはとっさに剣を構える。直後、鈍い鋼の音を立て、チェリーのナイフがルパードの剣と絡み合う。ルパードの反応が一瞬でも遅ければ、頭部と胴体が切り離されていた。それくらい、チェリーは素早いだけでなく、一撃に重みがあった。侍女の細腕から繰り広げられる剣戟とは、信じがたい。
チェリーが斬り込み、すんでの所でルパードが攻撃を防ぐ。その繰り返しだった。離宮では一撃必殺で衛兵の喉をかっ切ったルパードだが、チェリーには一撃与えるどころか、攻撃に回ることさえできない。
ルパードは、気づいた。この少女は、守備に関して全く頓着していない。彼女の頭の中にあるのは、ルパードを抹殺すること、それのみ。
ひたり、とルパードの額から汗が滴った、直後。
銀の刃が閃く。サクランボ色の目に宿る狂気に、ルパードの呼吸が止まる。
首が飛ぶことは、免れた。だが、チェリーの右手のナイフは確実に、ルパードの頸動脈を切り裂いていた。
瞬時にルパードの目が光を失う。だがチェリーはそれに留まらず、左手のナイフでルパードの胸を一突きする。そして、引き抜いたナイフを腹部にも突き立てる。
幼い頃の生活で学んだ、敵を完全に葬るための容赦ない攻撃。
真っ赤な血が飛び、自分の顔を濡らしてもチェリーは攻撃の手を緩めなかった。何度刺しただろうか、ようやっとチェリーが手を止めたときには既に、辺りに生きた者の気配は存在しなかった。
血だまりの中、立ちすくむチェリー。彼女はだらんと両腕を弛緩させ、辺りを見回す。そして、ククッと低い笑い声を上げた。
――自分は、地獄に堕ちるだろう。
「……お嬢様」
でも、それでいい。
大好きなお嬢様が、手を真っ赤に染めなくて済むのなら。
チェリーは笑っていた。遠くに、爆発の音を聞きながら――




