第三王子もやってきたこと
私は二人の申し出を有難く受け――そしてまずは、彼女らに教育を施すことにした。
その名も、「庶民教育」だ。
「まず、ベアトリクスとカチュアという名前は、農村では珍しい名前です。できたらもっと短い、渾名のようなもので呼びたいのですが」
私は二人にお茶を出して、そう提案する。二人は顔を見合わせた後、ぱあっと顔を明るくした。
「素敵! ねえ、カチュア。わたくし、いよいよわくわくしてきましたわ!」
「わたくしもですわ、ベアトリクス。……そうですね、ベアトリクスはベティ、でどうでしょうか?」
「いいですわ。じゃあカチュアは……ケイト、にしましょう。ね、いいですわね、アリシア?」
「……え、あ、はい。大丈夫ッス」
……なんでこの二人、こんなにノリノリなんだろう?
そんな感じで、お嬢様っぷりが健在の二人に、少しでもこの土地で目立たないよう、最低限の教えは施しておいた。
まず、お金の管理。カチュアは「勉強した」と言っていたけれど、そもそも貴族の令嬢はお金なんて触らない。カチュアの言う「勉強した」ってのはつまり、硬貨や紙幣のそれぞれの価値を知っている、というレベルだった。
試しに二人を連れて近くのマルシェに向かったんだけど、まあすごかった。
「ベア……ベティ! な、なんでその紙幣を!?」
「ええと、これなら十分足りるかと思いまして」
今日の晩ご飯を買いに来たというのに、ベアトリクスが店番の女の子に見せたのは、べろんとでっかい紙幣。これ、一ベル紙幣って言って、日本で言うと十万円くらいになる。
つまり日本円に換算すると、千円程度の食料を買うのに十万円で支払うようなもんだ。店番の子も初めてベル紙幣を見るんだろう、彼女が首を傾げている間に、私は彼女の財布に手を突っ込んでなるべく細かいので支払った。
細かいと言っても、ベアトリクスもカチュアも、財布の中にある中で一番細かいのはなんと、メル硬貨――千円札と同程度だ――だった。もっと細かいリル硬貨やイル硬貨なんて持ってない。聞いてみると、「教科書には載ってましたわね」と言われてガックリしてしまった。
というわけで、最初の数日は彼女らを連れて社会勉強。ついでに、少しでもそのお嬢様口調を和らげようと、店番とのお喋りもさせておいた。
さて、それから今後の生活について。
ここに来たからには、お屋敷生活のようなものは望めない。炊事洗濯は私がするにしても、使用人はいないから最低限のことは自分でする必要がある。
ただ、これに関しては二人ともある程度心得ていたらしく、実家から持ってきた調度品を部屋に入れると、後はさっさと使用人を帰らせてしまった。彼女らには屋敷の自室とは比べものにならないくらい狭い部屋を渡したけど、それがまたいたく楽しそうだった。
……順応性が高いのって、羨ましいな。
さて、そういうことで最初はお嬢様っぷりが抜けなかった二人だけど、春が過ぎて夏になると、一人で買い物に行けるようになったし、近所の人とも会話ができるようになった。領民たちはベアトリクスたちのことを、「王都から来たいいところのお嬢さん」と思うことにしたらしく、だんだんと彼女らを受け入れてくれるようになった。まあ、まさか二人が私よりずっと身分が上の侯爵令嬢と伯爵令嬢だとは知らないだろうけど。
秋が近付くと、いよいよ本格的に店を始められるようになった。最初はベアトリクスやカチュアに店番、調理場担当をさせるのは怖かったけど、令嬢二人は元々のスペックが高かったようだ。
私が手書きで作ったパン制作マニュアルを早々にマスターして、非常に手際よくパンをこね、焼き上げ、にこやかに接客している。深窓の令嬢は不器用だって聞くけど、んなことなかった。それだけ、二人の能力が高かったんだ。
私は店の名前に、「ティリスのすずらん」と名付けた。すずらんは、実は我がティリス家の紋章。今後この店が全国展開しても、我が男爵家の名が消えることがないようにとの思いで、男爵家の名と紋章の名を入れることにしたんだ。もちろん、看板には紋章と同じ、すずらんの花を彫り込んでいる。看板を作ってくれた大工のおじちゃん、本当にありがとう。
店は、最初はお客も疎らだった。メニュー数も少なくて、パンのアレンジも控えておいた。
でも、夏が終わって秋になり、そろそろ冬になるか……という頃になると、「ティリスのすずらん」の名は、近隣領土にまで響き渡るようになっていたのだった。
「アリシア! お父様から荷物が届きましたわ!」
ある晩秋の日。朝と昼のラッシュ時間帯を終えた昼下がり、ちょうどお客の入りが途絶えた頃、「ティリスのすずらん」外掃除をしていたベアトリクスが嬉々として戻ってきた。
彼女の後には、立派なオルドレンジ侯爵家の馬車が停まっているのが見える。
彼らが何を持ってきたのかすぐに分かり、伝票の整理をしていた私は勢いよく立ち上がった。
「ベティ、ついにオルドレンジ侯爵様からの許可が下りたのね!」
「ええ! そんなに自信があるのならば、一つ作ってみろとのことですわ」
そう言ってベアトリクスは、大きな木箱を抱えた従者を店に通す。彼が三往復して木箱を運び、その箱からはふんわりと瑞々しい匂いが立ち上がっていた。
そっと、箱を開く。私とベアトリクス、二人で箱の中を覗き込み、そして顔を見合わせてニッと笑う。
「……さすがオルドレンジ家。鮮度も抜群ですね」
「お父様が一つ一つ選定なさったそうですわ」
「さすが! それじゃあケイトも呼んで、試作品を作ってみましょうか!」
「ですわね!」
オルドレンジ侯爵からの贈り物。それは、侯爵領で採れた、大粒の果物たち。特に目を引くのは、やっぱりリンゴ。
「リンゴは、生地に練り込むのと挟むのとでは、どちらがいいでしょうか」
鮮やかにナイフを使ってリンゴの皮を剥きつつ、カチュアが問う。彼女はやっぱり、刃物の扱いが上手い。最初は上手く切れなかったけれど、今では皮剥きなら私よりずっと上手になっている。
「わたくしは、ジャムにして挟んでみたいですわ。アリシアは?」
「そうですね……メジャーなのは、砂糖で煮たものを生地に練り込むものでしょうね」
日本の菓子パンに、煮リンゴを蒸しパンに練り込んだものがあった。ひょこひょこと黄色いリンゴの破片が顔を覗かせていて、形は歪になるけれどとっても甘くて美味しかった。
「では、両方作ってみましょう。……ええと、アリシア。リンゴに合うのはシナモンでしたよね?」
「そうですね……あ、昨日使い切ってしまった……」
「わたくしが買ってきますわ」
そう言ってベアトリクスが立ち上がる。
乙女ゲームの悪役令嬢がシナモンを買いに行くなんて、誰が思ったことだろうか。
ベアトリクスが作業用のエプロンを外して外出支度をしていると、店の方のベルが鳴った。
「あ、お客様……」
「行ってきます。ベティは買い出しに、ケイトは皮剥きをお願いします」
ちょうど手が空いていた私が店の方に向かう。この店と調理場、そして住居スペースは一体型になっていて、一階が店と調理場、二階が三人それぞれの私室になっている。部屋数が多めの建物を借りて、よかった。
「はい、いらっしゃいま――」
ビーズ製のすだれをくぐって店に出た私は、変なところで言葉を止めてしまった。
ちりんちりん、とベルが名残惜しげに鳴る中、ドアを閉めてこちらに向き直ったお客様。
目深に被っていた帽子を外し、帽子と同色のチャコールグレーの上着に押し当てて顔を上げる、若い男性。
彼はきょろきょろと店内を珍しそうに見渡した後、私を見る。
さらさらの茶色の髪に、優しく細められた緑色の目。顔立ちはフィリップ王子と似ているけど、彼よりずっと優しく、ほんわかとした印象が強い。
彼は私に向き直って軽く会釈し、微笑んだ。
「久しぶりだね……アリシア、元気にしていましたか?」
「レグルス殿下……!」
まさか、レグルス王子直々に店に来るとは!
私は急いでカウンターを回って、レグルス王子に歩み寄る。馬を駆ってきたのだろうか、外で払ったようだけどコートにはまだ少しだけ、埃が付いていた。
「殿下、わざわざお越しになられて……」
「ええ。一度、あなたちの経営する店をこの目で見たくて。あと、手紙だけでなくて是非、肉声で報告もしたいと思ったのですよ」
そう殿下は気楽そうに言うけど。
私は、殿下の緑の目がわずかに揺れたことに気づいた。
殿下は、何か特別な用があって来た……?