大事なことに気付けたこと
意気消沈したマクライン家を見送り、その日私たちはティリス男爵家の屋敷に泊まることになった。
侯爵令嬢や伯爵令嬢からしたらうちの屋敷なんて納屋みたいなもんだろうけど、ああ、そういえば彼女らはここ一年間、掘っ立て小屋よろしい店で寝泊まりしたんだ。二人は宛われた最高級客室を見回して、「お泊まりですわ!」と声を上げていた。
ティリス男爵家四人とベアトリクス、カチュアを入れた六人で夕食を食べた後、私は中庭に突き出る形で設置しているベランダに出た。
さっき、お兄様に勧められてアルコール度数の低いお酒を飲んだから、火照った体に夜風が気持ちいい。あ、この世界のお酒飲んでいい年齢は十六歳だから、違法じゃないよ?
子どもの頃から、晩ご飯の後に夕涼みにと、このベランダによく出ていた。ついついうとうとしてしまって風邪を引きかけて、お母様に怒られたのはもう何年前の話だろうか。
「アリシア、お邪魔してもよろしいですか」
控えめな声と、ドアがゆっくり開く音。振り返ると、夜風に豊かな青銀髪を靡かせて、カチュアが後ろ手にドアを閉めるところだった。
「カチュア、ベアトリクスと話をしていたんじゃないの?」
「ベアトリクスは途中であなたのお兄様と一緒にチェスを始めました。ベアトリクスが勝つまで、今日は床に入らないそうです」
カチュアは答えるけど。ん? 私のお兄様って、ロイド兄様のことだよね。ベアトリクス、お兄様と仲よかったっけ?
しかし、お兄様はチェスが異様に強いんだよ。ベアトリクスの強さはよく分からないけど、そこらのアマチュアなら片手で捻り潰してしまう。暢気者のお兄様だけど、チェスやカードゲームには才能があるみたいだ。私も今まで一度も、勝てたことがない。
カチュアはしずしずと進み出て、私の隣に並んだ。うーん、改めてみても見事な髪と美貌。今日は満月だから、月光がカチュアの横顔を厳かに照らしている。
まさに、月の女神。ここにデジカメがあれば乱写しまくるのに。
「……今日のことですけれど」
徐にカチュアが切り出した。その声はいつになく真剣だったから、私は捻れた妄想を取っ払って彼女の顔を見る。
「ベアトリクスは、あの後もカッカしていました。今、あなたのお兄様とチェス勝負をしているのは、吐き出し所のない鬱憤を晴らすためだと、本人は言っておりました」
「鬱憤……」
「ベアトリクスは最初、今日の契約内容に不満があったそうです」
カチュアは静かに言う。ドクリ――と、心臓が大きく脈打った。
「ベアトリクスは言っていました。マクライン家への対処は、あれだけでは不備があると。彼は貴族であるアリシアを貶しています。やるならば徹底的に叩きのめし、二度とわたくしたち公家に手を出さぬよう、思い知らさなければならないと」
カチュアはそこで息を継ぎ、ようやっと私の方を見た。杏色の目が、私を射抜く。
「……ベアトリクスの意見に、わたくしもおおむね賛成でした。あなたは、優しい。優しすぎてそれが甘さに繋がり、いつか足下を掬われてしまう。それが、心配でならないのです」
「……カチュアも、私はもっとマクライン家に対して冷酷になるべきだと思うのね」
掠れた声で問うてみる。カチュアは私の質問にしばし考えるそぶりを見せて、それからゆるりと首を横に振った。
「冷酷とは違います。アリシア、彼らが負うべきだったのはあなたの無理をした冷血な仕打ちではありません。彼らが背負うべきなのは、『当然の報い』なのです」
カチュアの声は、どこまでも落ち着いていた。ベアトリクスが熾烈な炎なら、カチュアは氷だ。決してぶれることのない、冴え渡る氷結。
「あなたが彼らに対して課したものは、『当然の報い』ではない……それが、わたくしたちの出した結論です。あなたは男爵家とはいえど、立派な貴族。加えて今は、全国展開しつつある名店舗の店長です。あなたは、年若いけれども今日のあの場では、誰よりも高い位置に座していました。だとすればあなたは人の上に立つ者として、適切な罰をマクライン家に下す必要があったのです」
カチュアの冷静な言葉に、私は頬を打たれたような衝撃を受けた。
私が下す必要のあった判断は、甘いとか冷酷とか、そういう基準ではないんだ。マクライン家に慈悲を与えるとか、それ以上に。私は、彼らが受けるべき咎を正確に与えなければならなかった。
――私の、勝手な判断だ。これでいいと、独りよがりをしてしまった。
カチュアはしばらく、私を静かに見つめていた。そして――何秒経っただろうか。
「アリシア」
優しい、カチュアの声。
今はそれに、顔を上げられなかった。
「聞いてください、アリシア。……どうして今、ベアトリクスがあなたに今日のことの話をせず、鬱憤晴らしでチェスをしているのだと思います?」
思っていたのとは全く違う質問をされ、私は顔を上げる。カチュアは、神妙な顔で私の顔を覗き込んでいた。
「え? ……えっと……なぜでしょうか……?」
「ベアトリクスも分かっているのですよ……確かに、アリシアが下した判断は、貴族としては適切ではなかったかもしれない。でも、人としては……マクライン家に更正の機会を与えるためとしては、そうするしかなかったのだと」
私は、目を丸くしてカチュアの話に聞き入っていた。カチュアは続ける。
「わたくしとベアトリクスは、マクライン家を完全に潰すつもりでいました。ロット・マクラインという人間を血族に持つ以上、その家族にも容赦はしません。しかし、あなたはマクライン家にチャンスを与えました。……その判断は、『アリシア』という人間の出した答えとしたら、わたくしたちは正解だったと思うのです」
「私の、答え……」
「あなたは、とても脆い人間です。……男爵家の方々を見て分かりました。あなたは家族からとても愛されてきました。だからこそ、適切すぎる判断は下せない。……ならば、それでもよろしいのではないかと、思えてきたのです」
「いいの……?」
「あなたにできないことは、わたくしたちがします。……何のために『ティリスのすずらん』を三人で経営していますの? アリシアにできないこと、難しいことをわたくしたちが代わりに背負うのは当然のこと。わたくしもベアトリクスも、人の上に立つ経験は積んでいます。あなたにできることは、あなたがすればいい。それに不備があるのならば、わたくしたちがあなたを支えます」
そして、カチュアは口元を緩めた。ふわりと、長い髪が闇の中に舞う。
「……無理に変わろうとしないでください、アリシア。あなたの導き出した答えは、すべてがすべて、正解ではないでしょう。しかし、もしそれが不正解ならば、わたくしたちがそれを正解に変えます。わたくしたちがいること、それをどうか忘れず……頼りにしてください。わたくしたちからのお願いは、以上です」
私はしばらく、ものも言えなかった。じわじわとカチュアの言いたいことが浸透してきて、一気に目頭が熱くなって――
「アリシア?」
「……あり、がとう……」
気づけば、ぼろりと大粒のなみ――じゃない! 私は決して、泣いているわけじゃない! ただ、カチュアの言葉とベアトリクスの想いが伝わってきて、胸を打たれて――
カチュアの手の平が、そっと私の肩に添えられる。慰めるように、あやすように、滑らかな手の平が私の肩をさする。
私は空に瞬く星に見守られて、しばらくカチュアの手の平の暖かさに縋っていた。
「ベアトリクスにも感謝しないといけないね」
「そうですね」
「今、行っても大丈夫かな」
「! ……いえ、明日でもよろしいかと……」
「? でも、今はお兄様とチェ「あああ! そうです、アリシア。わたくし、お店のモップを破壊してしまい……」
「え? いいよいいよ! 新しいのを買えばいいし!」
「わたくしの実家から最高級のモップを持って参ります!」
「……ど、どうも」
時には、失敗することがある。思うように物事が進まなくて、挫けそうになることも、叱咤されることもある。
でも、私の側にはたくさんの、心強い人がいてくれる。
私はそのことに、改めて気付けた。




