詩(アナログ)と曲(デジタル)の距離
距離を感じる。この距離をどうしようもないのか。
ヘッドフォンからは鮮明に音楽が聞こえるが、リアルタイムの音楽シーンは不明であって、新たなビートは鮮烈にわたしを刺激するが、現実の詩作はアナログであって、容易に読み手へ届かない。
高音低音中音とその間に潜んでいる作曲者の思惑。そして、言葉と息と気配の曖昧に含むこちらの思惑。いや、これは思わずに似ていた。似ていないのは、距離が開いているのは、わたしと、デジタル世界の先端だ。
ひらがなのやわらかな丸みと、カタカナの鋭さと、漢字の固さなんて、音に溶かしてしまえば、どれ程の意味があるのだろう。
それでも、思いたいのである。
なにがしかの会話のなかの、それぞれの字体の意味づけのように、きっと、伝わるときにだけ震えることがあるのだろうと。
会話がある限り、人がいる限り、詩は死なない。
嘘や、誤魔化しや、愚かに甘い世界感や、人を少しずつ貶める、そんな歌もあるのなら、そんな詩もあるのだろう。
己の本当と向き合って、世界を誤魔化さずに、己を高めていく、そのように詩はあるべきだし、歌もそうなのだろうけれど、わたしに歌のことはよく分からない。ただ、初めて耳にする曲に溢れたこの時代に、遠さを感じているだけだ。あるいは、放り出してしまった新しさへの憧れを、惜しんでいるだけなのかもしれない。
いやいや、そうではなくてそれはイメージの世界なのだから、そもそも嘘も本当もなくて、受け取り手が本当であると思えばそれでいい、甘いお菓子なのかもしれないのだけれど、それだけでない歌もある。文章の世界が、文学とエンターテイメントに分かれるようなものだろう。
結局、境界線上の戦いなのであろう。本当でありながらイメージとしての嘘も併せ持つ。またその逆もあり。
そんなこともあるのだろうけれど、わたしが感じている距離とは、感性の距離であって、わたしの中にながれている調と、彼らの中にある調とでは、明らかに異なっているようだ。進化した調で作られた曲は、思いもよらない調子で進む。それが心地よくもあり、支配的に感じることもある。
最近、わたしが見つけた詩のテーマがあるが、これと新しいビートは相容れないようだ。しかし、それはそれでとても素晴らしいことだと思っている。
結局、距離はあるからそれで好いようで、距離そのものを感じることが刺激であるようだ。だから、これからも聴いていくのだし、詩作していくだろう。それらすべてをふくめて、わたしという総体なのだと思う。