はものがたり
最高級和包丁が体験した話。
※微かながら流血表現有につき、苦手な方は閲覧を控えることをお勧めします。
読了後に、気分を害された等のコメントは受け付けません。
閲覧は自己責任で、よろしくお願いします。
それではどうぞ↓
野菜を切る。肉を切る。魚を捌く。とんとんとんとん。小気味いい音が今日も響く。
新鮮な空気と素材、ことことと沸騰を伝える鍋、整列した調味料達の匂い。
かたん。冷たいまな板の上に置く音。
んん、いい出来。
ざあざあと流れる水にさらされ、柔らかい指ですうと撫で上げられる。
布巾で水気を取ると、別の乾いた付近に包まれる。
おひさまの匂いがする。どこかの子どもが言うような感想だと自嘲する。
柔らかい掌の上で、どこかに移動させられる。朝の仕事は終了だ。
この家の誰もが大切に扱う。それは、最高級和包丁。
それが俺だ。
長い間、俺はこの家で使われてきた。大切にされている自覚はあるし、それを誇らしくも思っている。不満は一切ないし、俺はこの家族をとても気に入っているし、気に入られていると思う。
そう、中でも特にこの娘に気に入られている。
山村アリナ。
料理をするのが好きだと豪語するだけあって、腕前は確かだ。俺をいちばん心地よく使ってくれるのもこいつだ。今日だって、ありがとうと小さく呟いてから俺を仕舞った。
少し照れくさい。
暗闇の中で次使ってくれるのはいつだろうかと考える。数時間の休みがどうにも居心地が悪い。ワーカホリックだろうか。
いや、一包丁にそんなものはないのは分かっている。言ってみただけだ。
だが、今日が最後だったら、と。そうやって、延々息を殺して思考の渦に段々呑まれる。
不安を撥ね飛ばすかのように、朝日が見える頃、どたどたと音を立てて降りてきた山村アリナに俺は使われ、安堵を得る。
そう思っていた。
ある日の朝、山村アリナが俺を叩き起こした。――というのは勿論比喩なのだが。
乱暴に俺を引っ掴んで、またどこかに放り入れた。甘ったるいにおいが鼻につく。少しの頭痛と吐き気を催した。
俺は何をされるんだろうか。
山村アリナが普段こんなことをする奴じゃないのは、長年の付き合いからして知っている。
それとも何かあったんだろうか。
暫くすると、俺は揺られていた。がたがたがたがた。嫌な音だ。
時折、がたん、と強く揺られる。何だ。何が起こっているんだ。
そういえば山村アリナは今日は朝食を作っていない。
十五分、二十分ほど揺られていただろうか、やっと俺は酷い揺れから解放された。頭がガンガンしている。
軽やかな靴の音と共に俺はどこかに向かう。
次に取り出されたのは、どこかの、冷たい床の上だった。
ここはどこだ。俺は何をされるんだ。
まさか捨てられるのか? 長年尽くしてきたこの俺を。それは、在り得ない。
いや――在り得ないということ自体が在り得ないのだ。それに無機物の俺には有機物の彼らが考えていることなんかわかりはしない。
じゃあやっぱり、俺はお役目ご免か。
ざっと血の気が引いたような気がしたが、生憎俺には血なんて流れちゃいない。
捨てないでくれ。捨てられるとしても、山村アリナの手で捨てられるのはご免だ。
口がきけないのが酷く息苦しかった。上を見ると、死んだような目つきで砥石を片手に俺を見下ろす山村アリナと目があった。生憎俺に目はないが。
何だよ。
砥ぐなら家ですればいいじゃないか。
抗議したい気持ちでいっぱいだった。捨てられるかと思ったんだぞ。俺を不安にさせやがって。憤慨しかけた俺を醒ましたのはやはり山村アリナの表情だった。
濡れた中砥石の上に置かれ、砥がれ、最後に仕上砥石で擦られる。山村アリナが、というよりも山村家が仕上砥石を使うのは珍しいことだ。傷や汚れが落ち、さらに綺麗になるのが快感だから、嫌いではないが。仕上がった俺を置いて山村アリナは砥石と水の片付けに行ってしまった。だが数分もすれば戻ってきて、俺に重たい息が降ってきた。
ぐ、と柄に力が入る。これから朝食だろうか。やっと俺を使ってくれるのか!
今日の朝食は何だろう。オーソドックスに味噌汁に焼き魚だろうか。パン食にスープも悪くはない。
いやいや、中華かもしれない?
うーん……。
ああ、そういえば食堂はどこだ、と考えていると、突然逆さになった視界に目を回してしまった。頭がふらふらする。ちなみに、俺の頭は柄の部分に当たる。
山村アリナの全身に力が篭った。上体を下げる。ぶらりと腕が揺れる。
ふう。
長い息を吐く。
左手に俺を持ち、右腕にはスクールバッグを下げた山村アリナは、靴音を立てながらどこかへ向かう。
リズム感たっぷりにぶんぶんと腕を振るから、俺は空気を切ってひゅんと音が鳴った。まるで日本刀のような扱いだ。
そんな風に扱われたことがなかったからだろうか、俺の中の“刃物”が反応して、いや、そこは笑うとこじゃないからな。別に厨二病なんかじゃない。
まあ、つまり、その、そういう、いつものように丁寧に、じゃなくて、乱暴に扱われるのが珍しくて、なんだか気持ちが良かった。それだけだ。
*
砂利道。綺麗に形作られた枯山水を靴の形に乱しながら、山村アリナは歩を進める。
着いた先は、我が家の倉庫だった。俺が連れてこられたことはほとんどなく、話でしか聞いたことがない。主に土鍋の話だ。
『あそこは、とても怖い所よ――』
そんな風に言われたから、少し身構えてしまう。
ぎい、がちゃん。
閂を開け、重たい鉄の扉を押し開いて山村アリナは倉庫に入っていく。
微かな鉄の臭いと埃のにおいがした。
『……あそこで見たり聞いたりしたことは、忘れるのが一番ね』
圧力釜の言葉が頭を掠める。
ここは倉庫じゃないのか。そうではないのだとすると、ここは一体何をするところなんだ。
眩しい光が差しているところには、がんじがらめに縛られた人間の影のようなものがあった。
「あは、元気でやってる?」
その目つきからは想像も出来そうにない程明るい声で、言った。返事はない。
「その眼はやめて。あと……、お喋りしないなら君に用はないんだけど」
「何故、俺だ」
「知らない」
「…………嘘だ」
たっぷりの沈黙の後、低い声が聞こえた。それに、山村アリナはにたあ、と口を大きく歪ませた。
「知らないって言ったでしょう」
「…………」
憎悪を込めた眼付きで、男が、多分学生だが、彼が山村アリナを睨みつける。
「ねえ、その眼をやめて笑って。“笑顔があれば何でもできる”」
「ふざけるな――」
ぐじゅ。柔らかい肉に突き刺さった音。死んで冷蔵庫に入った肉とは違って温かくて気持ちが良い。
ぐちゃ、ぐじゅっ。ぐりぐりと体内で掻き回される音。内臓を破り、大量の血が噴出する。刃を生温かい血が伝っては垂れていく。
男は低く短く、吐息だけで喘いだ後、がくりと力を失った。
ずぷ、と音を立てて俺を引き抜く。俺と、半死の人間を見下ろす眼は相変わらず死んだように濁っていた。足元には血溜まりができていた。足を一歩踏み出すと、ばしゃりと液体が跳ねる。赤い斑点が白い靴下を彩った。
もう一度、俺は体内に捻じ込まれる。皮を裂いて、肉を切る。そいつはびくりと痙攣したものの、それきり動かなくなった。
呼吸音、なし。胸も動かない。瞳孔が開いている。死亡条件はクリアだ。
「笑顔があれば何でもできる。笑顔があれば……」
まるで呪文のように囁き繰り返すその科白。数を重ねるごとにそれは小さく、震えていく。俺は知らず溜息をついた。ついに堪え切れなくなったのか、山村アリナは制服が汚れるのも気にせず、血の海の中に蹲り、死体に縋り付いて、泣き崩れた。
「ごめんなさい」
ぼたぼた、流れる血が床と肌を濡らす。
「ごめんね」
血の気が引いた頬と、額と、鼻、力なく垂れた指、開きっぱなしの唇に、口を落としていく。
それはとても、とても、幻想的だった。俺にはそう見えた。
「ごめん」
体内に埋まっていた俺を引き抜き、水桶の中に突っ込んだ。生ぬるいその温度にもう少しだけ浸かっていたかったと思ったのは内緒だ。俺はキリングマシンじゃない。ただの料理包丁だ。そんな考えを起こすなんて間違っている。
「……君のこと、結構すきだった」
何分そうしていただろうか、微かな衣擦れの音と共に汚れた制服やら靴やらが俺の近くに飛んできた。
血が澄んだ水に溶け、濁らせる。
山村アリナはいつものように俺を手に取った。指の腹で俺を撫で上げ、汚れを落とす。傷がついていないことを確認すると、鞄の中に仕舞った。
その時に見えた山村アリナの表情は、目尻に涙の跡を残してはいるが、さっきまでの表情とは一変し、高校生らしい笑顔だった。
ここまで読んでいただいてありがとうございました。
尻切れトンボ風になってしまったことがちょっとした悔いです。
※続編を考えているにはいますが、なかなか文字に起せていません。
こちらも気が向けば更新、ということで。