思ふ心は 花曇り 三の二
「手加減は無用だ。負けた後で言い訳にされては困るからな」
何故こうなったのか。
時定と向かい合いながら、高遠は困り果てていた。確かにあの場を収める為には、これが一番のような気もする。するが、満四郎のあの楽しそうな顔を見ていると、ただ面白そうだったからとしか思えない。
八重も止める気は無いらしく、騒ぎを聞いて部屋から出て来た女房達と一緒に縁に座っている。相手が時定で兼光がいないだけの、昨日を再現したような状態だった。
「高遠、準備は良いか。そろそろ始めるぞ」
満四郎の言葉に、短く息を吐いて覚悟を決めた。
「それでは、始め!」
「やあっ!!」
合図と同時に時定が打ちこんでくる。上段からの攻撃を、後ろに下がって軽々と高遠は避けた。もう一度、上段から打ち込んでくる。次の攻撃も軽々と避ける。
確かに太刀筋は悪くないようだ。
何合目かの打ち込みを避けていると、時定の息が上がり始める。そろそろか。
高遠が動いた。
時定の打ち込みを左に避ける。片手に持った木刀を振り落とす。軽い音をさせて、時定の木刀を叩き落とした。
「なっ!」
信じられないというように、時定は地面に落ちた己の木刀を見つめている。だくだくと汗が滴っていた。
「私の勝ちにござりますね」
高遠の言葉に時定はすぐ木刀を拾いなおした。
「まだだ!もう一度勝負せい!」
息を弾ませながら、高遠にもう一度勝負を挑む。時定の瞳には強い光があった。高遠は木刀を構えなおす。その光に、自分も覚えがあったのだ。
「では、何度でもお相手いたしまする」
それから半刻ほど二人は打ち合った。
木刀を打つ音が庭に響いて、時定は座り込む。何度打ち合ったか忘れたが、一度も時定の攻撃が高遠に当たる事は無かった。それだけではない。これだけ時定が疲労しているというのに、高遠は汗一つかかず息も乱していないのだ。
時定は流れ落ちてくる汗を拭うと、土を払って立ちあがった。
「高遠、そなたの力は認めよう」
絞り出すように時定が言う。
「ありがたく存じます」
「……頼みがあるのだ」
「何でござりますか」
「私に、剣の稽古をつけてくれぬか」
思ってもいない言葉だった。だがいずれは人の上に立つのだ、このくらいの器が無くてはならないのかもしれない。
「師がおられるのではないですか」
「……あやつは、だめだ」
駄目だとはいったいどういう事なのか。高遠が首をひねっていると、時定は言葉を続けた。
「あやつは、私の体が弱いからと、今日のように立てなくなるほど打ち合ってくれぬ。それでは、もっと強くなる事ができぬであろう」
高遠は決めかねていた。藤森家の嫡男に剣を指導するなど考えた事もない。兼光の許可もとっていないのだ。自分の一存で決めてよいのか。困ったように八重へ視線を送る。小さく八重が頷くのが見えて、高遠は心を決めた。
「私の稽古は厳しうござります」
「かまわぬ」
「体調を崩されるかもしれませぬ」
「それも、覚悟のうえだ」
「……分かりました。では、明日から稽古をつけさせていただきまする」
「まことか!」
半刻前までの敵対心はどこへやら、時定は嬉しそうに高遠を見上げる。高遠は苦笑するしかなかった。
時定が部屋に戻ると、八重の部屋は静かになった。
高遠は満四郎と、縁に座している。微かな衣擦れの音に振り返れば、近くに八重が座る所だった。
「面倒な事をさせるような事になってしまったようじゃ。すまぬ」
「いえ、私はかまいませぬ。それよりも時定様が体調を崩されぬか、そちらの方が心配でござります」
「そうか。だが、高遠と打ち合うのは時定が決めた事じゃ。もし時定が寝込む事があっても、高遠が気にする事は無い」
冷たい風が吹き抜けて行く。高遠を見つめる瞳には、どんな感情もうつってはいない。
「高遠は」
「はい」
「外から来たが、余所者ではない」
心を読まれたのかと思うほどに驚いた。
高遠がこの里に来てから、ちょうど七年。
里のほとんどの人々は、初めから高遠の事を受け入れてくれた。だが全ての人々が、という訳ではない。高遠を余所者だと呼ぶ者は今でもいるのだ。彼らにそう呼ばれる事を気にした事はないが、高遠の胸には余所者である、という事が常にあった。だからと言って、引け目に感じた事もないと思っていた。だが、八重の言葉に高遠は自分の感情を理解した気がした。内心で自嘲する。
また高遠は、八重に救われたのだ。
高遠の住んでいた里はここから遠く離れた、山と山の谷間にあった。決して豊かとは言えなかったが、それでも人々は仲が良く、助けあって暮らしていた。
だが、何カ月も続いた雨で全てが変わってしまったのだ。
作物は育たず、洪水に家が流される。晴れ間のない日々は不浄を呼び、病が流行って何人もの人が死んだ。
祈祷を何度行っても、一向に雨がやむ気配はない。それまで優しかった人々は一変したように、僅かな食べ物を奪い合った。このままでは里は滅びるだろう。追いつめられた人々は、最後の手段を使う事にした。
人柱だ。
里で一番美しいと言われていた母。高遠の母はその美しさから、人柱に選ばれて命を落とした。父は死に物狂いでやめさせようとしたが、多勢に無勢。なにより追い詰められた人々に、正常な判断など出来るはずもない。
母が死ぬと、父は高遠を連れて里を捨てた。だが、荒れた天候は二人に容赦がなかった。食べ物が無いのは動物も同じ。野犬に父は殺され、運よく生き残る事が出来た高遠も、山を彷徨うしかなかった。
何度、山の中で陽が昇り沈むのを見ただろうか。自分がいる場所がどこで、今がいつなのかも高遠にはすでに分からなくなっていた。
いつ自分は死ぬのだろうか。飢えて死ぬのか、それとも野犬に喰われて死ぬのか。そんな事ばかり考えるようになった時だ。高遠は、ある場所に辿り着いた。
視界を埋め尽くす、今にも零れ落ちそうな程に咲き誇った満開の桜。
抜けるように青く、雲ひとつない澄んだ空。
むせ返るほどの、甘い桜の香り。
天国かと見紛う程に美しい場所だった。
否。
もしかしたら自分はすでに死んでいて、天国に来たのかもしれないと思った。
ふらつきながらも引き寄せられる様に桜吹雪の中を進んで、高遠は大きな一本の木の下に倒れ込んだ。
仰向けになって空を仰ぐ。
花の隙間から、眩しい程の光が零れ落ちてくる。
何かを言おうとするが、口が渇ききって息が漏れただけだった。死が、高遠に迫っていた。だが、恐怖はまったく感じなかった。
母は殺された。父も死んだ。自分も死ねば、両親に会えるかもしれない。
はらはらと、音も無く花びらが高遠に優しく降り積もる。身を包む桜の香りに安堵を覚えながら、高遠の意識は闇に沈んでいった。
「生きておるのか」
沈みかけていた意識が、澄んだ少女の声に浮上する。
「生きておるようだな」
再び澄んだ声が降ってきて、高遠は重い瞼を開けた。逆光で顔を見る事は出来ないが、自分を覗き込んでいる事は分かる。
「怪我はしておるのか」
少女の声が心地よい。こんなに美しい声を高遠は聞いた事がなかった。人とは思えない美しい声。ならばここは本当に天国で、自分はやはり死んだのだと思った。
「連れて、いってくれ。生きていても、仕方、ない、から。俺は、死んだって、いいんだ」
それだけ言って、高遠の意識は闇に落ちていく。だが突然、頭に衝撃が襲ってきて痛みに高遠は目を開いた。
その瞬間、先ほどまで逆光で見えなかった少女の面ざしが顕わになる。
まるで人形のように美しい少女だと思った。
透けるような白い肌。
はらりと零れ落ちる艶やかな黒い髪。
そして、夜を思わせる真黒い瞳。
少女には表情というものが一切なかった。
だが、真黒い瞳にだけ怒りを宿して高遠を見つめている。
「そなたの言葉は、生きたいと思っても生きられぬ者に対する、最大の侮辱じゃ」
少女の言葉が胸を突く。
「簡単に死んでもよいなどと言う事は、ゆるさぬ」
燃えるような眼差しに耐え切れず、高遠は目を逸らした。
母は、自分に何を願っていただろうか。父は自分に何を託しただろうか。二人とも自分を守る為に死んでしまった。ならば少女の言う通りに、ここで死を望んだ自分は、両親の思いを無駄にしているのではないだろうか。
「そなたはここで死んではならぬ。生きるのじゃ」
少女の優しい言葉が胸に満ちる。本当は高遠も死にたくはなかった。だが、世界が自分の死を望んでいるような気がしていたのだ。ひどく目頭が熱くなって、高遠は目を閉じた。
そして、高遠の意識はそこで途切れた。
次に目覚めると、高遠は暖かい布団の中にいた。見知らぬ大人達が自分を覗き込んでいて、高遠が目覚めた事を知ると、薬やご飯を用意してくれた。
歩けるまでに回復すると、高遠の里は水で全て流されてしまったのだと聞かされた。涙が出る事は無かったが、母の死の意味を思うと胸が痛んだ。
しばらくは歩くのがやっとで、その間は屋敷の人達が介抱してくれた。体力が戻って動けるようになると、今の爺様と婆様にひきとられたのだ。そこで、自分を見つけて助けてくれたのは、この里を治める方の娘だと知った。同時に、高い霊力を持ち常に妖に狙われているのだとも聞いた。
高遠は彼女に救われた。
だから今度は自分が、彼女を護りたいと思った。
あれから七年だ。
短いようで、早かったような歳月だった。
あの日から高遠にとって八重は、唯一、心に定める主となった。そして、八重を護りたいという、たった一つの思いを胸に秘めて生きて来た。
初めはただの恩義からだったのだと思う。あの頃の高遠には目的も、生きる意味も何もなかったのだ。だが今自分にある物は、本当に恩義だけなのだろうか。
膨らみ始めた月が、柔らかな光で闇を照らす。
風が吹く度に、甘い香りが高遠の鼻をくすぐった。
随分と昔の事を思い出したものだ。この里に来る前の事など、近頃はほとんど思い出す事が無くなっていたのだ。両親の死を忘れたわけではない。思い出せば痛みが胸を奔る。ただ、高遠にとって遠い物になったのだ。それを悪い事だとは思わなかった。きっと人はこうやって生きていくものなのだろう。
八重が部屋から出てくる音がして、高遠は柱に預けていた背を離す。用意しておいた円座を出すと、隣に置いた。
「姫、このように毎夜起きていては疲れませぬか」
「疲れぬ」
短く答えると、八重は円座の上へ座った。
「それに、それを言うたら高遠も同じではないか」
ふ、と高遠は笑う。
「それが私の務めにござりますれば」
短く言葉を交わすと、いつものようにしばらく互いに何も話さない。風が草木を揺らす音だけが聞こえている。時折、漂うようにやってくる甘い香りに、月の光が溶け込んでいくような夜だった。
「明日の花見じゃが」
「はい」
「ゆきたい場所があるのじゃ。よいだろうか」
「もちろんでござります。どこにゆかれますか」
「まだ教えぬ。明日の楽しみにしておれ」
ふ、と今度は八重が笑う。
表情は動いていない。いつもの通りに無表情なままだ。だが確かに、高遠には八重が笑ったのだと思えた。
「分かりました。楽しみにしております」
「もう一つ。高遠に言うておく事がある」
「?」
「昼間、眠っておった私に衣をかけてくれたであろう。礼を言う」
高遠は自然と頬が緩むのを抑えられなかった。
「過ぎた言葉にござります」
八重はそれだけ言うと立ち上がる。そうして部屋に入る刹那。
「今宵も、よい夜であった」
いつものように言葉を残して、部屋へ入って行く。
高遠は緩んだ頬をそのままに、再び柔らかく輝く月を見上げた。




