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思ふ心は 花曇り 二

   二


 真っ黒な闇が身を包んでいた。

 いけどもいけども、闇が途切れる事は無い。

 分かりきった事だ。

 だから自分は動かずここにいる。

 何をしても、この闇から逃げる事など出来ないのだから。

 否。

 例え逃げられた所で、自分の存在する意味が消えるだけ。ならばその意味をまっとうして、闇の中で果てる方がよい。

 闇の奥。その最奥で、何かが動いた気がした。



 東の空が白み、ほのぼのと明けて来たのを目の端に留めながら、高遠は木刀を振り下ろした。そしてまたすぐ振り上げて、短い息と共に振り下ろす。それを何度か繰り返して、ようやく息を()く。


「よくやるな。こんな朝早くから素振りか」

「なんだ、起きたのか満四郎……っ」


 振り返った高遠は、ずざっと大げさなほど大きな音を立てて後ずさった。あまりの驚きに言葉も出せない。


「高遠、驚きすぎだと思うぞ」


 笑いを噛み殺した満四郎の声に、動転していた頭が冷える。


「うるさいぞ満四郎。それよりも……姫、いつからそのような所に?」


 高遠の疑問はもっともだった。満四郎の座す縁に、小袖姿のままの八重がちょこんと座っているのだ。驚かない方に無理がある。


「まだ、陽の昇らぬうちであったか。高遠が何をやっておるのか、気になったのじゃ」


 高遠は剣術を習い始めてから毎朝、こうして素振りをする事が日課だった。そのせいか、素振りをしなくてはどうにも落ち着かない。だから夜も明けないうちに詰所へ行って、木刀を借りてきた。警護の事を考えてここで素振りを始めたのだが。まさか、八重に見られているとは。

 八重を見やりながら、高遠は困ったように笑った。


「面白い物など何もありませぬよ」

「そうでもない」


 無表情なまま呟く八重に、微かに目を瞠る。だがすぐ優しげに目を細めた。


「さようでござりますか。ですがもし次がございましたら、何かもう一枚羽織って下さりませ」

「なにゆえじゃ?」

「いえ、その。……まだ朝は冷えます。そう、体を冷やして風邪でも引いてしまわれたら大事でしょう」


 少し八重から視線を外す。八重の後ろで満四郎がいまだ笑いを噛み殺しているのが見えるが、今は放っておく事にした。


「分かった。次は何か羽織ってから参ろう」


 立ち上がると、八重は部屋へ戻っていく。八重の背中を見送って、そっと高遠は息を()いた。同時に満四郎の吹きだす声が聞こえて、半眼で(にら)む。


「満四郎。お前、気づいていたのなら声ぐらいかけてもよいだろうが」

「いやいや、鍛錬(たんれん)の邪魔をしてはならぬと思ってな」


 怒る気力も無くして、高遠は深々と息を吐きだした。


「高遠。久しぶりに仕合いをせぬか」

「ここでか」

「おう。護衛と言っても妖が出なければ別段やる事もない」

「そうかもしれないが」

「いいではないか。たまには俺も太刀を遣わねば、なまってしまうしな」


 満四郎は庭に降り立つと、予備として置いておいた木刀を手に取った。

 それでもまだ高遠は迷う。自身、本音を言えば仕合いたい。だが護衛をしなくてはいけない者がそんな事をしていていいのだろうか。もし怪我でもしたならば、今後の任に差し支えが出てしまうかもしれない。


「なんだ。二人とも仕合うのか」


 朗らかな声でやってきたのは兼光だ。二人が手にしている木刀を見て、すぐに分かったらしい。


「面白そうだな。見物させてもらおうではないか」


 そう言う内に、兼光は縁に腰を据えてしまった。兼光の声を聞いてか、八重まで女房を連れて再びやってきた。今度は(うちぎ)姿になっている。


「八重か。そなたも一緒に見物でもせぬか」

「見物、でござりまするか?」

「うむ。これから高遠と満四郎が仕合うようでな」

「兼光様。女子にそのような物を見ようなどと、仰らないでくださりませ」


 反対の声を上げたのは橘だ。相手が兼光であっても、臆した風な所は見えない。


「まあ橘。たまにはよいではないか。別段、命を取りあう訳でもないしの」

「そんな問題ではありませぬ」

「橘。私も見て見たいと思うた」

「姫様!?」

「では決まりだな」


 兼光の最後の一言で、高遠の意志など構わず仕合う事が決まってしまった。こうなってしまっては腹を決めるしかない。


「満四郎。手加減はせぬぞ」

「かまわぬ。全力でやってもらわねば鍛錬の意味がないからな。それに、俺が負けると決まったわけでもない」

「ほう。よく言うな」


 冗談はそこまでだった。

 互いに木刀を構えた。向き合う。空気が震えているのかと思うような気迫が、二人から生じていた。高遠の腕に(あわ)が生じるが、それさえも心地よく感じる。気分が高揚しているのが自分でも分かった。

 満四郎は弓の名手として名高いが、太刀もかなり遣える。この里で高遠の相手になるのは、爺様を抜けば満四郎ぐらいのものだった。

 少しずつにじりよって間合いを詰めながら、相手の呼吸を(うかが)う。

 最初に動いたのは満四郎だった。

 一瞬で高遠との間合いを詰めると、上段から木刀を振り下ろす。それを高遠は紙一重でかわした。ひと呼吸もおかず、二撃、三撃と続くが全てかわす。早く重い攻撃だった。

 四撃目で互いの位置が入れ替わり、間合いが出来る。満四郎が次の攻撃に出ようとした瞬間。高遠は腰を落として踏み出した。二人がすれ違う。

 直後、満四郎の木刀が地に落ちて、勝負は決した。高遠の木刀が満四郎の眉間(みけん)を捕えたまま、互いに汗を噴き出す。乱れた息を整えて、高遠は木刀を下ろした。


「やれやれ。また負けてしまったか」

「太刀でお前に負ける訳にはゆかんからな」

「ふむ。様子を見に来ただけであったが、これはよい物を見せてもろうた」

 いつの間にか立ちあがっていた兼光が、感心するように言葉を発した。

「わしまで興奮して、座っておれなんだ。そなたの師はやはり、諭平か?」

「はい。私の育ての親なれば」

「そうか。うむ。またそなたらの仕合い、見たい物だな」


 高遠と満四郎が頭を下げると、兼光は満足気に去っていった。本当に様子を見に来ただけのようだ。八重の事が本当に心配なのだろう。

 そこで高遠は、八重の事をはたと思いだした。

 つい本気で満四郎と仕合いをしてしまった。女性にあの空気は恐ろしかったのではないだろうかと心配になってくる。恐る恐る八重の方を見やれば、案の定、橘と梅が青い顔をしていた。だが八重はいつもと変わらない、静かな瞳のまま高遠を見つめている。

 そうだ。いつもと変わらない。変わらないはずだ。はず、だというのに。

八重の瞳に何かが揺らぐのを見た気がした。


「やはり、高遠は思った通りの腕を持っておるようじゃな」


 澄んだ八重の声にはっとした。自分は今、見惚れていたというのだろうか。高遠は苦笑した。


「姫。私の腕などまだまだでござります。爺様にはいまだ一度も、まともに攻撃を入れる事が出来ないのですから」

「そうか。諭平の腕も一度、見てみたいものじゃ」

「姫様。女子がその様な事に興味を持つなど、はしたのうござりまする」


 ようやく落ち着いたのか、橘が八重をたしなめる。だが八重は首を傾げただけで、あまり聞いている風には見えない。

 変わった方達だ、と思う。

 八重ほどの身分ならば、御簾の向こう側にいる事が当たり前で、こうして姿を見る事すら出来ないのだ。橘も八重の事をこうしてたしなめるが、御簾の向こう側にいない事を怒る事も、身分の低い高遠とこうして言葉を交わす事もやめさせようとはしない。

 高遠のいた里は小さく、里を治める者といえど、藤森家のように大きな屋敷は持っていなかった。だがそれでも、こんなに気易く話す事は出来なかったのだ。

 一瞬。微かな痛みが胸に奔る。

 痛みをごまかすように、高遠は空を見上げた。

 高く澄んだ空はただ、高遠の視線を静かに受け止めているだけだった。



 琴を弾いていた手を止めると、八重は庭へ視線を移した。

 陽光に照らされた草木が、さわさわと風にそよいでいる。


「姫様?いかがなされました」


 突然、琴を弾くことを止めた八重を不思議に思ったのだろう。背後から梅に声をかけられて、八重は庭から視線を外した。

 再び琴に手をかけようとして、今度は濡れ縁から微かに聞こえてくる声に手を止める。梅の横に座した橘は渋面を隠そうともせずに、そちらを見つめていた。


「橘は高遠が嫌いか?」


 橘は八重に向き直ると小さく息を吐いた。


「姫様がお選びになった方。嫌いではありませぬが、信用出来ませぬ」

「高遠の腕は確かじゃ。それは橘も見たであろう」


 一昨日。八重を襲ってきた妖に一太刀浴びせる事が出来たのは高遠だけだ。それは橘も見ていたはず。信用出来ないという橘の事が理解できず、八重は首を傾げた。


「ああ、いえ。わたくしが言いたいのはそのような事ではありませぬ」


 更によく分からなくなり、八重は橘の続きを待つ。


「姫様の仰るとおり、高遠殿の腕は確かでしょう。ですが……高遠殿は男。そして姫は女子です。夫婦でもない男女が、このように近い場所で寝所をともにすべきではありませぬ。何かあったらいかがなさるおつもりですか」

 八重はゆっくりと(まばた)いた。


「橘」

「はい」

「何かとは、なんじゃ?」


 一瞬。空気がしんと静まり返ったようだった。だがすぐに橘は軽く咳払いをすると、居住まいを正した。


「……とにかく。姫様、ご注意下さりませ」


 橘の言わんとしている事が理解できず、八重は首を傾げるだけだった。



 高遠と満四郎は、琴の()を聞きながら縁に座していた。

 どこともなく、庭を見つめる。


「暇だな」


 満四郎がぽつりと呟く声に同意しそうになって、高遠は眉をひそめた。


「満四郎。俺達が暇な事はよい事だ」

「そうなのだがな。こうしてただ縁に座しているだけなのも、体がなまってしまいそうな気がする。ここはやはり」

「だめだ」


 満四郎が言いきる前に、高遠は言い放った。


「俺はまだ何も言うてはいないぞ」

「だめな物はだめだ」

「高遠とて暇だと思うただろうが」

「……それとこれは違う話だ」

「姫様とて、仕合うのを(とが)めはせぬと思うがな」


 高遠は嘆息した。だが満四郎の気持ちもいくらか分かる。柔らかい日差しをただこうして受けているだけだと、どうにもぼうっとしてしまうのだ。

 その時だった。

 微かに鈴の()が聞こえた気がして、高遠は辺りを見渡した。だが周囲に八重と女房以外に誰か人がいる気配は無い。

 直後だ。

 高遠に激しい耳鳴りが襲った。


「っなっ……!」


 あまりの激しさに頭を押さえる。だが弱まる気配は無い。


「高遠、どうした」


 高遠の尋常ではない気配を察したのだろう。満四郎が小声で声を掛ける。だが高遠に返事をする余裕は無かった。

 耳鳴りは収まらない。それどころか激しさを増すばかりだ。それに、耳鳴りが強くなるほど高遠の胸に嫌な感覚が広がっていくような気がする。ふと視線を落とした先。腰に佩いた太刀で視線が止まった。

 とたん、今まで高遠を苦しめていた耳鳴りが弱まる。この原因は太刀か。思った瞬間に、高遠は太刀を鞘から抜き放った。


「高遠!?」


 さすがの満四郎も急に太刀を抜いた事に驚いて、声を上げる。制止も聞かず、高遠は庭に降り立った。

 同時に、それは現れた。

 高遠の見据える正面。その先に、黒い靄のような物が漂っているのだ。暖かい日差しに照らされていたはずの庭はもう、凍えるほどに寒い。花の甘い匂いも消え去り、今は鼻につくような腐臭が満ちていた。


「いったい何事ですか!?」


 橘が部屋から出てきて息を飲む。

 漂うだけだった靄から、まるで瞼を開いたように、ぎょろりと目玉が浮かび上がった所だった。


「妖か」


 八重の平坦な声を聞きながら、高遠は太刀を正眼に構えた。


「姫、お下がりください。ここは私と満四郎が」


 満四郎は八重達を(かば)うように、前へ進み出た。そうして矢を(つが)える。

 高遠は意識を妖へ集中させた。すり足で距離を図る。


「……姫……姫。喰ろうてやろう。頭からがよいか。いや、足からがよいか」


 ざびざびとした声で、妖が言う。

 その声に嫌悪を抱きながら、高遠はじりじりと距離を縮める。あと、一歩。


「喰ろうてやろう。喰ろうてやろう」


 言ったかと思うと、黄色い歯を見せて妖が動いた。大きな口をぐわりと開けて飛び上がる。だが、満四郎の矢がそれを許さなかった。

 風を切るように飛んできた矢が、妖の目玉に突き刺さる。絶叫を上げて妖が地面に落ちた。見図らったように、高遠の太刀が妖へ振り落とされる。目にも止まらない早さだった。(まばた)きの内に、妖は両断されていた。


「おのれぇ、おのれぇ。姫ぇ姫ぇ。喰ろうてやろうと思うたのにぃぃ」


 それでもなお怨嗟(えんさ)の言葉を吐く妖を、両断された片方から突いた。(とど)めを刺された方はまるで霧のように霧散する。

 もう片方、いまだ目玉をぎょろぎょろと忙しなく動かす方へ、太刀が今にも刺さろうという時だ。


「姫ぇ姫ぇ……喰らわねばならぬのに。姫は、死なねばならぬのにぃ」


 高遠が言葉の意味を理解するよりも早く、太刀は妖に突き刺さった。

 妖が霧散すると、庭は先程と再び日差しに照らされ、花の甘い香りが漂うだけになる。

 辺りを見渡し、妖がもういない事を確かめると太刀を鞘へ戻した。息を吐き肩の力を抜いて、高遠は八重へ振り返る。


「お怪我はありませぬか」

「大丈夫じゃ。高遠、満四郎、御苦労であった」


 それだけ言うと、八重は何事も無かったかのように部屋へ戻っていく。青白い顔をしながらも、橘は梅に人を呼びに行かせると、高遠と満四郎へ軽く頭を下げて八重の後を追った。


「よく妖が来ると分かったな」


 庭に降り立ち、高遠のすぐ傍までやって来て満四郎が問う。


「俺にも、よく分からぬ。だが……」


 高遠は国杜剣へ視線を落とした。この太刀が教えてくれたというのだろうか。

妖が現れる刹那に襲ってきた耳鳴り。耳鳴りの原因が太刀だと思った瞬間。自分でも分からないが、太刀を抜かなければならないと思った。そして、感情に突き動かされるまま庭に降り立ったのだ。あの時の奇妙な感覚を、上手く説明する事ができない。


「おそらく、国杜剣が教えてくれたのだと思うのだ」

「太刀が、か?」

「上手く説明出来ないのだ。だが、確かだと思う」


 満四郎は少し考え込んだ後、口を開いた。


「国杜剣は霊剣。普通の太刀とは違うのだろう。ならば、そのような事があってもおかしくは無いかもしれぬ」

「……ああ。俺も、そう思う」

「まあ、その事はあとで道院様に聞くとして、だ」

「そうだな」


 満四郎の言おうとしている事を察して頷く。


「こんな真昼から妖が出るなどおかしい」


 満四郎も頷く。

 妖はだいたい、夕刻に現れる事はあってもこんな真昼に現れる事はなかった。闇に(ひそ)む妖は真昼の光に弱いのだとも聞いた事はあるが、理由は分からない。だが、今まで一度もこんな事は無かったのだ。

 それに、妖が最後に放った言葉の意味も気になる。


「何か、俺たちの考えも及ばない事が起きているのかもしれん」

「もしそうだったとしたなら、俺たちに姫様を護る事が出来るだろうか」


 言い知れない、不安のような物が、胸にじわりじわりと広がっていくようだった。何かが起きている。それはもう疑いようのない物として、高遠と満四郎にはある。だがそれが何なのかがやはり分からないのだ。


「そういえば」


 重くなった空気を断ちきるように、高遠が言葉を発した。


「満四郎、先ほどの攻撃の時は呪符を使わなかっただろう」

「ああ、よく分かったな」

「それぐらい俺でも分かるさ」

「呪符は枚数が限られているだろう。どうもこれから先、何か大きな事がありそうな気がしてな。退治する事は出来ずとも、道院様に貰った弓ならば(ひる)ませる事は出来ると思ったのだ」

「……思った、という事は確証は無かったのだな」

「うむ」

「あの時、もし怯まなかったらどうするつもりだったのだ」

「それはもちろん、高遠がどうにかしてくれたであろう」

「満四郎、お前な」

「まあ、結果は怯んだのだからよいではないか」


 更に何か言おうとして、言葉を飲みこんだ。これ以上言ってもしょうがない事は高遠が一番分かっているのだ。かわりに何度目になるか分からないため息を吐いた。



 呼ばれてきた道院が穢れを祓い、その日は忙しなく動き回って終わった。

 道院の話によると、先日の妖のせいで屋敷に張られた結界が弱くなっているらしい。修復は進められているが、以前のように強固な結界を張るにはもう少し時間が必要だと言っていた。夜になれば、妖の入り込む危険性も高くなるのだろう。

 それでもやはり真昼に妖が現れた事は、道院も信じられなかったようだ。その場で札を数枚したためて、置いていった。

 高遠は中天にさしかかる半月を見上げながら、今日あった事を思い返していた。昨夜と同じように柱へ背を預けている。

 気になる事はたくさんある。だが一番気になるのは、妖が最後に残した言葉だった。

 死ななければならないと、確かにあの妖は言っていたのだ。

 何故だ、と思う。

 今まで八重を襲ってきた妖の目的は、自分の力を高めるためだったはずだ。だがあの言葉の通りならば、今日の妖は己の力を高める為では無かった事になる。

 道院ならば何か知っているかもしれない。

 明朝、道院の元へ行こうと決めて、高遠はとりあえず気持ちを落ち着けた。

 月からは、青い光が降りてきて庭をぼんやりと浮かび上がらせている。あと二、三日もすれば、満開になるであろう桜が白く輝いているようだった。

 その中で、中島にひっそりと佇む八重桜は、まだ硬く蕾を閉じたまま。いまだ咲く気配も見せない。早く咲いて欲しいと思う。八重が嫁いでしまえば自分の役目は終わる。そうしたらここには、容易に入る事が出来なくなるのだ。恐らく隋身の数も減らされるだろう。

 いや、違う。自分は八重と


「見たいのだろうか」

「何がじゃ?」


 一人言に返事があって、高遠は驚いた。視線を巡らせれば、袿を羽織った八重が部屋から出てくる所だった。


「っ姫。起きておられたのですか」

「いや、少し目が覚めただけじゃ。それよりも、高遠は何が見たいのじゃ?」

「や、それはその……」


 視線を彷徨(さまよ)わせる。妖と対峙している時でも平然としていた心臓が、何故か今は早鐘を打ったように激しかった。


「あの八重桜にございます」


 なんとかそれだけを言う事が出来る。


「そうか」


八重は高遠の傍まで来ると、微かな衣擦れの音をさせて座る。ふんわりと、八重から甘い(こう)の香りがした。まるで体の芯が(しび)れるような錯覚に襲われる。

 高遠の心臓は相変わらず早鐘のようだったが、どちらも言葉を発しなかった。ただ空に浮かぶ月を見上げている。

 どのくらいそうしていただろうか。いつの間にか、高遠の胸も落ち着いていた。


「桜が」


 八重の声に、高遠は月から視線を外した。


「もうじき満開になりそうじゃな」


 言葉を受けて、桜を見る。


「そうですね。明後日あたりが見ごろでしょう」

「そうか」

「姫は、花見にはゆかれませぬか」

「私が、か?」

「はい」


 今度は八重へ視線を向けた。ゆっくりと瞬く姿が見える。ふ、と八重は視線を高遠から外した。


「私はゆかぬ方がよい」

「なにゆえにござりますか」

「……私は、妖に狙われておる。高遠も知っておるじゃろう」

「はい。ですが、それでは何のために私や満四郎がいるのか分かりませぬ」

 外していた視線をもう一度、高遠へ戻した八重は首を傾げた。

「私と満四郎は姫を護る為にいるのです。姫を狙う妖が現れるのならば、私達が命を賭けて退治ましょう」

「命、か……。じゃが、そうだな」


 八重の瞳に、何かが確かに揺らぐ。そう高遠が思ったとたん、八重は立ち上がっていた。高遠も慌てて立ち上がる。


 何も言わず部屋へ戻る八重の背中を、高遠も何も言わず見送った。

「今宵も、よい夜であった」


 部屋へ入る間際。昨夜と同じように一言だけ残して、八重の姿は妻戸の向こうへ消えた。




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