今宵は綺麗な満月で
本編が始まる前の話です。
深く深い藍色の空に、丸い月が輝いてい た。
月からは冴え冴えとした光が 零れて、早咲きの梅に積もった名残り雪が、 星のように輝いている。大きな屋敷の一角にあるこの中庭は、まるで人の世から切り離された、幽玄な世界のようだっ た。
そんな世界に突然、雪を踏む小さな音が響く。現れたのは寝間着に袿姿の美 しい少女だ。
自分の背よりも長い艶やかな黒髪。夜の闇のように深く黒い瞳。けれど、その白い面には感情の一切が覗えず、どこか人形のように見える。少女は空虚な瞳を月に向けた。
昼間、壁の向こうから聞こえた声が蘇る。
『今夜は満月らしいぞ』
『へえ』
『へえって、お前……。そんな美しい夜は、月見酒に限るだろう』
『俺はお月様より、旨い肴に限るね。高遠 (たかとお)は風流な飲み方をするんだな』
『満月だけでも、酒は充分旨いと思うんだけどなあ……』
少女には酒の味はよく分からない。けれど、『美しい夜』という言葉が耳に残った。
相変わらず、月からは冴え冴えとした光が 零れて、幽玄な世界を照らしている。
これが、人が『美しい』と感じる光景なのか、と少女は思う。自分には決して理解できない感情だった。
否。少女にとっては、人の感情全てが理解する事が出来ない物なのだ。
冷たい風が吹いて、少女の髪を攫う。
自分には美しさが分からない。
なのに何故だろうか。
少女は月から、瞳をそらす事ができなかった。
*
深く深い藍色の空に、満ちた美しい月が 昇っていた。
銀色の月は冴え冴えとした光を降らせて、 名残り雪が輝いているように見える。小さく赤い早咲きの梅が、白い雪にぼんやりと照らしだされていた。
そんな幻想的な世界を、狩衣 姿の青年は静かに見つめていた。 頭頂部で結んだ少し硬めの黒髪。強い意志 を持った黒い瞳。精悍な顔立ちをした彼は、満足気な表情を浮かべている。
青年は隣に置かれた瓶子を掴むと、盃に酒を注ぐ。 並々と注がれたそれを、彼は一 気に呷った。
「やはり、月見酒は旨いな」
ぽつりと零した彼の言葉は、夢うつつの世界に溶けて消えた。
再び静寂が落ちる。
瓶子から盃に酒を注ぐと、青年は見事な満月へ視線を向けた。
ふと、己が主と定めた少女の面ざしがよぎる。昼間、偶然聞こえてきた会話が蘇った。
『八重姫様。梅が咲いたと侍従の一人が言っておりました』
『そうか』
『本日は陽も暖かとうござります。後ほど見に行かれませぬか?』
『私はよい。行っても何も感じぬ。そなたらだけで行くが良いじゃろう』
あの時、少女が何を思っていたのか青年には分からない。
けれどきっと、表情一つ変えてはいなかったのだろう。
冷たい風が吹いて、梅の花びらが舞った。
ひらり、ひらりと風に攫われて、天高く昇っていく。盃を再び空にして、彼は一人少女を思う。
あの方にもこの月夜を見てほしい。そうすればきっと、美しいと思えるはずだ。
それが例え、面に決して出ることは無いのだとしても。
少女自身、その感情に気づくことが無いのだとしても。
夜が更けて月が傾くまで、青年は天上に輝く月を見つめ続けていた。
今宵は綺麗な満月で、零れ降り注ぐ光は二 人を照らしだす。
けれど、いまだ運命は交わらず。
泡沫の刻は、静かに 流れゆく――。




