表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/21

望月昇りて 咲き覆いけれ 四の二 終

 高遠に眠っていた間の事を話すと、兼光達は部屋に戻っていく。八重も梅を伴って一度部屋に戻るが、何故か橘だけが残り何か言いたそうにしていた。


「いかがなされました」


 高遠が声をかけると、橘は心を決めたように高遠達へ近づく。膝をつき両手を丁寧に床へつくと、橘は頭を下げた。突然の事に二人は驚く。


「……高遠殿と満四郎殿には、お礼申し上げまする」

「橘殿」

「私達はずっと、姫様が鬼神に嫁ぐ事を知っておりました。ですが、どうする事も出来ず、ただ見ている事しか出来なかったのです。あなた方がいなければ、姫様はもうこの世にいなかった」


 深い、悔恨を含んだ声だった。高遠にも覚えのある感情だ。


「……人は万能ではありませぬ。どうにも出来ない事がある。ですが、橘殿は橘殿にしか出来ない事をやってこられたではありませぬか」

「……」

「八重様は優しい。民を助ける為に死ぬ事を、苦しいと思わない程に。ですがそれは、あなたが八重様の事を思い、大事にお育てしてきたからこそではありませぬか」


 いまだ頭を下げたまま、橘の肩が震えた。


「私は橘殿もずっと、八重様の為に戦ってきたのだと思いまする」


 はい、と橘が答える。その声も涙ぐみ震えていた。


「確かに。八重様の頑固な所は橘殿にそっくりであるしな」


 満四郎が、しんみりとした空気を壊すような事を言う。


「おい、満四郎」


 慌てて高遠が制止するが、橘は笑い声を上げた。高遠は首を抑えて苦笑する。ひとしきり笑った後、橘は再び頭を下げた。


「姫様の事。これからも宜しく頼みまする」

「はい」


 再び顔を上げた橘には、晴れやかな笑みが浮かんでいた。




 自室に戻り梅が退出して一人になると、八重はほうと息を吐いた。

 脳裏に、血に濡れた高遠の姿がよぎる。締め付けられるような痛みがじわりと広がって、八重は胸を抑えた。あの時、八重は本当に高遠が死んだと思ったのだ。その時の全身を駆け抜けたあの感情。そして、死んだように眠る青白い顔をした高遠が目覚めるまでの間、己の胸を満たしていた感情を八重は一生忘れないだろう

 八重は視線を落とすと、自分の両手を見つめた。そうして、高遠の懐から転がり落ちた(ぎょく)の事を思い出す。手に取った瞬間に砕けてしまったが、どこかで見た事がある気がしてならないのだ。薄緑の玉。そんな物を自分は持っていただろうか。そこまで考えて、八重ははっと庭に咲き誇る桜を見やった。


「……母、様?」


 呟く様に問う。だが、八重桜は音も無く花びらを舞い散らせるだけで、彼女の問いには答えない。はらはらと、静かに薄紅の花びらが大地に降り積もる。仄かに燐光に包まれた花は、どこかこの世の物とは思えないものがある。まるで、彼岸と此岸が溶け合ったかのようだった。

 ふと、微かな鈴の音が耳に届く。

 八重の目頭が、熱を持ったようにひどく熱くなっていた。




 ほろほろと、満ちた月から柔らかな光が降りてきている。

 庭を明るく照らし、冷えた夜気にたゆたう霞と混じり合って溶けあっていくようだ。

 高遠は柱に背を預けて、一人庭を見つめていた。

 目覚めた時は知らない場所だと思ったが、高遠が眠っていた部屋は、護衛の為に与えられた部屋だった。いつものように、満四郎は部屋の中で眠っている。本人は決して口にしないが、万全ではない高遠を気遣って残ったらしかった。

 高遠の傷は確かに治った。だがどうにも身体が重く、まだ普通に動く事が出来ないのだ。だから、いつもならばしっかり着込んでいるはずの(かり)(ぎぬ)も、今は前を開けてゆったりと着ている。

そんな高遠の横には、国杜剣(くにもりのつるぎ)が置いてあった。今の自分には振る事さえ出来ないが、この太刀が側に無ければ、どうにも落ち着かなくなってしまったのだ。今では随分と昔から使いこんだ、愛刀のように感じている。

 高遠は変わらず、庭を見つめていた。その視線の先では、月の光を吸って、自ら輝きを放っているかのように白い八重桜があった。花の重みで、枝がしなっているように見える。

 風も無いというのに、はらはらと音も無く花びらが舞っている。

 散った花びらが積もって、桜の下だけ雪が降っているようだった。

 かたり、と小さな音が静かな夜に紛れて聞こえる。その姿を見る事も無く、高遠は声をかけた。


「八重様、今宵は満月にござります」

「そのようじゃ」


 いつもの様に八重は、高遠の隣に座した。そうして、いつもの様に高遠と共に庭を見つめる。互いに言葉を交わす事はしない。それでも二人の間には、何か通い合う空気がある。


「ずっと」


 先に口を開いたのは高遠だ。


「八重様と共に、あの八重桜を見たいと思うておりました」


 八重が自分を見る気配がして、高遠は庭から視線を外した。

 月の光が八重を包んでいる。(つや)やかな黒髪が光を弾いて、燐光を放っているようだ。澄んだ黒い瞳は深い湖水を思わせる。見つめれば見つめるほど惹きこまれていくようだ。息を飲むほどに美しいと思った。そんな自分の感情を隠すように、高遠は言葉を重ねる。


「思った通り、美しい花にござります」

「……私には、分からぬ」

「はい」

「だが今は少し、高遠の言う美しいという言葉が、分かる気がする」


 高遠は優しく微笑んだ。それでいいのだと思う。一度に全ての感情を知らなくてもいい。これから一つずつ知っていけばいいのだ。その為の時間は、たくさんあるのだから。

 再び互いに言葉を交わす事無く、闇を淡く照らす桜が散る庭を見つめる。空から降りてくる月の光が、淡い光と溶け合っているようだった。


「なんだ、二人とも起きておったか」


 突然の声に驚きながら振り返れば、兼光が道院を伴ってやってきた所だった。兼光の手には、瓶子(へいし)と何枚かの盃がある。


「兼光様、こんな夜更けにいかがなされましたか」

「うむ。せっかく八重桜が咲いておるのでな、花見をするのも一興(いっきょう)かと思うたのだ」

「それに、これ程美しく咲いた事は初めてなのだよ。花見をせねばもったいないではないか」


 高遠は苦笑しながらも、納得する。実は高遠も酒が呑みたいと思っていたのだ。二人の気持ちは分かる。


「それはよい案にござりますね」


 眠っていたはずの満四郎の声がして、高遠は憮然とした。


「お前、また起きておったな。起きているならそう言えと言うたではないか」

「はて。俺はその様な事、言われた覚えが無いな」

「お前……」


 二人の変わらないやり取りを見て、兼光が笑い声を上げた。


「まあ、よいではないか。皆で花見とゆこうぞ」


 満四郎にまだ言いたい事があったが、兼光に言われては仕方ない。高遠は不承不承頷いた。

 それから橘と梅まで呼んで、賑やかな宴会が始まった。

 高遠は手に盃を持って柱に背を預けたまま、部屋の喧騒に耳を傾けていた。なみなみと()がれた酒が、満月を捕えてゆらゆらと揺れている。


「やはり私にはまだ、酒が旨いとは思えぬようじゃ」


 八重が微かに眉間へしわを寄せているのを見て、高遠は苦笑した。八重は盃を置くと、あらかじめ用意しておいた湯呑みを手にとって白湯を口に含んだ。


「無理に呑む必要は無かったのですよ」


 八重は湯呑みを置いて、高遠へ向き直る。その瞳に拗ねたような色が写っている気がして、高遠は首を傾げた。


「私はそなたと一度、酒を呑んでみたいと言うたじゃろう。忘れたのか」


 思ってもいない言葉だった。だがすぐに高遠は首を横に振る。忘れてなどいない。忘れる筈が無かった。高遠も八重と呑んでみたいと思っていたのだ。


「忘れた事などありませぬ。私も呑みたいと思うておりました」

「そうか」


 冷たいが、どこか心地よい風が吹きぬけて行く。盃に満たされた酒に浮かぶ満月が、ゆらゆらと揺れた。その風に乗って、空を舞って来た桜の花びらが、はらりと一枚。酒の中に浮かぶ満月の上に降りてきた。


「高遠」

「はい」

「ずっと、私の傍にいてくれるか」


 高遠は満月と桜の浮かぶ酒を一息にあおる。そして、八重を正面から見据えた。


「八重様が望む限り、私はあなたの傍にありましょう。そして、八重様を護り続けまする」

「ありがとう、高遠」


 ぎこちなく。それでも確かに。

八重は初めて、淡い笑みを浮かべていた。

 満ちた月が、ほろほろと優しい光を二人へ降らせている。

 風に乗って来たのか、何かが運んだのか。

 縁の上に置かれた国杜剣の横に、八重桜が一房、並んでいた。







 時は平安。

 空の藍色が深く、魑魅魍魎(ちみもうりょう)跋扈(ばっこ)していた、夜の闇が濃かった時代。

 京から遠く離れ海と山に囲まれたその地に、一人の美しい姫がいた。

 艶やかな黒髪に、花びらの様に愛らしい唇。鈴の様な声で歌を紡ぎ、華奢な指で琴をつま弾く。天女の如き彼女に誰もが魅了されていた。

 そして、人ならざる者を見る事が出来る姫の(かたわ)らには、姫を護る(もののふ)の姿が常にあったと言う。



これで剣花伝の本編は完結です。

ここまでお読みくださった方、ありがとうございました!

このあとは剣花伝の短編などを載せていけたらいいなぁと思ってます。


誤字脱字や感想など、お気軽にどうぞ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ