咲き初めに 二
二
夜の帳が落ちた庭は静まり返り、微かな物音すらしなかった。
時折、冷たい風が吹き抜けていくが、その度に言いようのない不安が凝っていくような気がする。いつもならば、どこかしらから人の笑い声が漏れ聞こえてくるはずだが、今日に限ってなんの声も聞こえない。まるで、これから起こるであろう事を知っているかのような静寂さだ。
高遠は辺りに注意深く視線を巡らせながら、庭を進んでいた。やはり、聞こえてくるのは自分の土を踏む音と、木々がさざめく音だけだ。知らずうちに、高遠は太刀に手をかけていた。
ちょうど角にさしかかった時だ。簀の上に座す、人の影を見つけて高遠は足を止めた。
仄白い月明かりが微かに面ざしを照らしだしている。濡れ縁に座っているのは八重だった。彼女は身動き一つせず、庭に視線だけを送っていた。
冷たい風が通り抜け、辺りには薄靄が漂っている。細々と届く月の光が靄と溶け合って、どこか別の世界に切り離されてしまったような空間に、高遠は息をする事を忘れていた。
まるで、このままどこかに消えてしまうような。
そう思った瞬間、高遠の背に冷たい感触が奔った。理由も分からず視線を走らせると、薄雲の流れる空に、濃い影がわだかまっているのが視界に入る。とっさに屋敷の壁にはりついて、高遠は太刀を握る手に力を入れた。
影はどんどんその密度を増してゆき、徐々に人のような形になっていく。気がついた時には、真暗い空に一人の男が浮かんでいた。
白い浄衣を纏い、烏帽子から覗く肩で切り揃えた黒い髪。肌は青白く、黒い瞳も濁り澱んでいる。昼間に見ただけならば、血色の悪いただの男にしか見えないだろう。だが、空に浮かび、ねっとりとした笑みを浮かべるそれは、明らかに人ではなく妖のそれだ。
「何用じゃ」
高遠が一歩踏み出そうとするより早く、八重の玲瓏とした声が響いた。
妖は更にねっとりとした笑みを深める。
「迎えに参ったのよ。さあ姫、共に参ろうぞ」
闇にも分かるほど白い手を差し出して、妖が誘う。嫌に耳につく声音だった。吹き抜ける風は先ほどよりも冷たさを増し、吐く息が白くなっている。いつの間にか辺りには血の臭いが充満していた。
「私は、そなたと共にはゆかぬ」
八重の凛とした声が拒絶の言葉を発した。
「戯言を言うでない」
八重の言葉を否定して、妖はゆるゆると降りて彼女に近づいていく。高遠は地を蹴って、影から躍り出た。音もなく一瞬で間合いを詰めると、抜き放った太刀を振り下ろす。がつっと硬い音がして、高遠の太刀は土に刺さっていた。だが、すぐに太刀を引き抜くと、八重を背に庇って叫ぶ。
「敵襲だ!」
高遠の声を聞いて、屋敷のいたる所で灯りが動き始め、人の走る音が近づいてくる。その間も、高遠は全神経を張り詰めて、妖に視線を向けていた。
妖には傷一つ無く、いつの間にか5歩程離れた場所から二人を見つめている。
「まったく。急に斬りつけるとは、礼儀の無い輩だのう」
どこかこの現状を楽しむような声だ。高遠の額に冷たい汗が伝う。
八重は高い霊力を秘め、見鬼の才を持っていた。今までも同じように、八重を狙った妖が現れた事は何度もある。だが、今目の前にいるこの妖は今までとは違うと、高遠の中で本能がささやいているのだ。
「妖か!」
背後からの声に、高遠は振り返った。ようやく男達が駆けつけたらしい。彼らはそのまま庭に降り立つと、各々に携えた武器を構える。庭の影からも人が出てきて、八重の前に垣根を作った。
八重の傍にも、いつも随従している女房が付き添う。それを確かめて、高遠は妖に視線を戻した。
「まこと、五月蠅い虫が多い」
ぽつり、と絡みつくような声で言葉を落として、何の前触れもなく妖は己の腕を薙ぐ。
直後、腐臭が鼻をつき、鋭い風が薙いだ腕から放たれた。男達にそれを防ぐ術もなく。一瞬の後には、直撃した男達から赤い飛沫が上がり、次々と地面へと倒れ込んでゆく。あっという間に、辺りには新しい血の臭いが充満した。
「人風情が、私の邪魔をできると思うたか」
妖が嘲笑を浮かべる。全ての人間が、たった一瞬の出来事だけで、恐怖に呑まれようとしていた。凍てつく空気に凍えていた。
高遠自身、空気に呑まれて思うように動けなくなっている。刻が止まってしまったかのようだった。
ただ、一人を除いては。
「そのような事をしても、私の気持ちは変わらぬ」
場にそぐわない程、平坦な声だった。
誰一人、微動だに出来ない空間で、八重だけが空気に呑まれる事もなく最初に座した姿のまま。何の感情も表れていない瞳を妖に向けている。あまりにも空虚な瞳だった。目の前にある惨状も、自分を連れ去ろうとする妖さえも映してはいない。真っ黒な瞳を向けて、彼女はただそこに在るだけだ。そんな八重を見つめて、妖は口の端を吊り上げる。
「くくっ。このような状況でも眉一つ動かさぬか。やはり、そなたは美しい。鬼姫と呼ばれるだけはある」
ふわり、と音もなく空中に浮かぶ。
「だが、そなたは私のものだ」
そうして何の前触れもなく、妖は滑るように八重へ向かった。風のような早さに、誰一人動く事が出来ない。
青白い手が彼女に触れる。まさにその時。
どおっ!
轟音と共に空気が振動して、その場にいた全員の視界を閃光が灼いた。
光が治まって瞼を開ければ、くぐもった声を漏らしながら妖が大地に膝をついていた。どろりとした瞳は屋敷を忌々(いまいま)しげに見つめている。屋敷には八重を守るように、淡い燐光が輝いていた。妖を吹き飛ばした力の残滓だろう。
「おのれ……っ。陰陽師の結界か!」
怒りの滲んだ声で吐き捨てる。ゆらゆらと陽炎のように、闇が妖から立ち昇っていた。だが結界の影響か、妖はすぐに立ち上がる事が出来ないようだ。その一瞬の隙を、高遠は見逃さない。
先ほどの轟音で、空気が変わったのか体は動くようになっている。高遠は、一直線に妖へ駆けた。
「うおぉぉっ!」
掛け声とともに、高遠は力の限り太刀を下から上へ薙いだ。剣風と肉を断つ音が、そこにいる全ての者達の耳に届く。
真っ赤な飛沫が闇に散った。
同時に高遠の体が宙に浮く。妖の蹴りあげた足が、腹に食い込んでいた。
息が詰まり、骨のきしむ音が聞こえた気がする。そのまま吹き飛ばされて、高遠の体は庭木をへし折って止まった。
「っぐ、……はっ」
口内を切ったのか口の端から血が垂れる。息も絶え絶えで、激痛に起き上がる事が出来ない。
「貴様ごときが。この私を殺せると思うたか」
静かな声だ。だが、隠しきれない程の怒りを込めて、妖がゆらりと高遠に向き直る。ぼたぼたと、どす黒い血が腕を伝い大地を染め上げていった。白かった浄衣も己の血で見る影もない。
意識の飛びそうになる自分を叱咤して、高遠はなんとか立ち上がる。己の武器を構えようとして、胸中で舌打ちした。
太刀が、刀身の半分辺りから見事に折れている。蹴られた時か、庭木に当たった時か。いつ折れたのか分からないが、これではまともに戦う事すら出来ないだろう。それが分かっているのか、妖が不快な嗤いを向けてこちらに向かっていた。
その時だ。
ふいに風を切る音がして、一本の矢が妖の肩に突き刺さった。
矢の飛んできた方向に視線を向けて、高遠は少しだけ口の端を上げる。矢を放ったのは満四郎だった。彼は弓の名手として、この里では有名な男だ。
「おのれ……っ!」
妖が、更に怒気を孕んだ声を吐きだす。滴る血で足元の血がぬらりと輝き、周囲に濃い闇が集まってゆく。血走った眼に射られて、高遠は気を引き締めた。
「そこまでにしておくがよかろう。この地には、私を守うてくれる者が多いのじゃ」
凍える全ての空気を断つように、八重の淡々とした声が響く。その場にいた全員の動きが止まり、視線が八重に向かう。憤怒に満ちていた妖も、静かな面ざしのままの彼女へ視線を滑らせた。そうして弓なりに嗤う。
「……確かに。こざかしい真似しか出来ぬが、手間がかかりそうな者達よ」
「ならば諦められよ。そして、疾くここから退かれるがよかろう、妖よ」
吐息を白く染めながら、恐怖の支配する空間でも、八重の声が揺らぐ事は無い。何の感情も浮かんでいない瞳で、全てを見つめるだけだ。
「……やはり、そなたは怯えもせぬか」
「……」
己から溢れるおびただしい血も、深い傷さえも意に介さずに、妖はどろりとした瞳を細める。
「姫、私は諦めぬよ」
「……私はゆかぬ。私には、役目があるゆえ」
刹那。八重の瞳に何かが揺らめく。だが、一瞬の事でその場にいた誰もが気付く事は無かった。ただ、妖だけが細めた瞳で八重を見つめている。
「まあよい。ならば今宵は退こうぞ。なれど姫、また迎えに参る。その時こそ良き返事を期待しておる」
言うが早いか、嗤う妖にねっとりとした闇が絡みついていく。
「ああ、それと……。そこにいるお前達も覚えておれよ」
ぎろり、と折れた太刀を構える高遠と、弓を構えたままの満四郎を睨みつけて、闇に呑まれるように姿を消した。
妖が姿を消すと同時に、先程まで肩を震わせるほどだった冷気が消え、涼やかな風が吹く。
ほう、と周囲の人達も肩をおろす。
そこはもう、いつもと変わらない静かな夜だった。




