望月昇りて 咲き覆いけれ 三の三
八重から太刀を受け取った高遠は、体を襲う激痛に耐えていた。
背中の傷はおそらく内臓にまで達しているのだろう。動けるのが不思議なくらいの傷だ。血が溢れ出ていて、自分の死が近くに来ている事を高遠は理解していた。
鬼は狂ったように哂っている。
八重が高遠を護る為に立ちあがった時の姿を思い浮かべて、高遠の胸が締め付けられた様に苦しくなる。やはり八重は優しい。そして感情の無い人形では無い。そんな八重を護って死ねるのならば、これ以上の事はないだろう。
高遠の身体はすでに限界だった。
あと、少し。
いや、あと一撃この体が持てばいい。
高遠は鬼へ意識を集中させた。
周りの音が聞こえなくなる。闘気が高遠にみなぎっていた。
呼応するかのように、国杜剣が白い光を放つ。
それに気付いた鬼が驚愕した。
「男、お前が持つその太刀。それはいったい何だっ!!」
鬼が残った腕を振り上げる。だがその鬼の目に、満四郎の矢が突き刺さった。苦悶の声を上げる鬼へもう一矢、もう片方の目に刺さる。獣の様な咆哮を上げて鬼が横へ向き、まるで首を落とせというように前にかがんだ。
高遠は研ぎ澄ませた闘気を、その一撃に全て込めた。
「うおぉぉぉっ!!」
光り輝く太刀を振り落とす。
硬い皮膚を斬り裂き、骨を断つ。
太刀は土に刺さって止まった。
一閃の残光が消える。
苦悶の表情を浮かべたままの鬼の頭が、重い音を立ててごろりと転がった。鬼の巨躯も小さく大地を揺らして、己の血の海へ沈む。
――終わった。今度こそ、本当に。
土に刺さったままの太刀から手が離れる。よろよろと後ろに下がって、高遠は崩れ落ちた。
仰向けになって空を仰ぐ。いつの間にか重く垂れこめていた筈の雲は無くなっていた。星が瞬いている。
「高遠っ!」
八重の声がして、高遠は顔だけを動かした。もう、指一本と動かせない。駆けよって来た八重が、高遠の頭を持ち上げる。衣越しに感じる温もりが、血を失って冷たい身体にはとても心地よかった。
「姫、着物が、汚れまする」
「その様な事どうでもよい。ああ、血が止まらぬ」
大丈夫だと言いたかったが、言葉にならなかった。八重の頬を伝う涙が、高遠に降ってくる。綺麗だ、と思った。だが泣かないで欲しいとも思う。感覚の無くなった右腕を動かして涙を拭おうとしたが、血と泥に汚れている事に気付いてやめる。その高遠の手を、八重が取った。驚いて八重を見る。
「高遠、死ぬなど許さぬ」
涙を降らせながら、八重が言う。高遠は困ったように笑った。
「申し訳、ありませぬ。その、命、も、聞けませぬ」
強烈な眠気が襲っていた。
眠くて、これ以上目を開けていられない。
視界が霞んでいく。
意識が霞に溶ける刹那。
空に舞う花びらを見た気がした。
「高遠っ。高遠っ」
八重が何度も呼びかけるが、高遠に反応は無い。
身体はどんどん冷たくなっていき、合わせるように息もか細くなっていく。八重の胸の内を凍った物が満たしていた。溢れる涙も止められない。胸の内が引き裂かれるように痛む。
涙に霞む視界の端に何かがよぎった気がして、引き寄せられるように八重は空を仰いだ。視界が白く染まる。真っ白な雲が落ちて来たのかと錯覚する程の白さだ。すぐにそれが何なのか理解する。
硬い蕾のままだったはずの、八重桜だった。
まったく咲く気配の無かった花が突然どうして咲いているのか。理由は分からない。だが確かに咲いているのだ。
はらはらと、燐光を帯びた薄紅色の花びらが雪の様に降っている。
咲いては散り。また咲いては散る。
止む事の無い桜吹雪は、高遠の身体を隠すように積もっていく。
唐突に、出逢った日の情景が八重の脳裏に浮かぶ。
あの日も今と同じように、死に瀕した高遠に桜が降り積もっていた。八重が見つけなければ、高遠はあのまま死んでいただろう。
これが高遠の運命だと言うのか。
その時が八重のせいで遅くなっただけで、こうして桜の中へ還って逝く事が運命なのだと。それでは自分はいったい何だと言うのだ。ただ彼を振りまわしただけではないか。
高遠を連れ去ろうとする死から護るように、八重は彼の身体を抱きしめた。その拍子に、高遠の懐から何かが転がり落ちる。自然と追った視線の先にあったのは、淡い輝きに包まれた、薄緑色の小さな玉だった。それがいったい何なのか八重には分からない。けれどその光があまりに優しく暖かかったから。気が付いた時には、そろそろと手に取っていた。
暖かい。
思った瞬間、玉は澄んだ軽やかな音をたてて砕け散った。