望月昇りて 咲き覆いけれ 三の二
八重は茫然と、駆けて行く高遠を見つめていた。
高遠の言葉が胸に突き刺さる。いや、違う。突き刺さるなどと自分が思うはずがない。なぜなら八重に感情など無いのだ。だと言うのに、高遠の言葉が頭から離れない。八重は胸を抑えた。
夜毎、必ず見る闇の夢。そこに時折、鬼神が現れた。
現れると決まって鬼神は八重に言うのだ。お前は鬼神の為に生まれ、鬼神の為に死ぬのだと。その為に生きる、人形なのだと。
八重の視界の先では、ずっと自分が護るべきだと思っていた者達が、自分を護る為に戦っている。
「どう、して……」
自分でも気付かない内に呟く。どうして今、自分はこんなにも苦しい。高遠が、鬼神の腕に吹き飛ばされる。その瞬間、八重の心臓は止まるかと思った。だが直ぐに高遠は起き上がると鬼へ向かって行く。その姿に八重は胸を撫で下ろした。
高遠の攻撃が効いているのだろう。鬼神の体の所々から血が出ている。満四郎の矢が刺さり、鬼神の体が傾ぐ。高遠は気合の声を上げて、鬼の腕へ太刀を振り落とした。
肉を断つ嫌な音がして、鬼の腕が肘の先から重い音を立てて地に落ちる。痛みに鬼神が絶叫した。耳を塞ぎたくなるような声だ。
「おのれっ!!」
鬼神が叫ぶ。同時に高遠の体が宙に舞い、中島まで吹き飛ばされる。
「高遠!!」
八重は叫び、近くのそり橋を渡って高遠へ駆けよった。荒く息をついているが、高遠はまたすぐに起き上がる。そして、目の前にある八重の姿を認めて驚きに目を見開いた。何か言おうとした高遠の声を遮るように、鬼神の声が轟く。
「おう、八重ではないか。これは丁度よい。そなたを喰らえば我の腕も治るであろう。いや、それだけではない。我の力は復活し、人も妖も喰ろうて、この里からようやく出てゆける」
振り返った八重に、鬼神の腕が伸びる。八重は無意識にその腕から逃げた。鬼神の目に憤怒の感情が燃え上がる。
「八重、そなたまで我に逆らうか!!」
鬼の鋭い爪が八重に向かう。どこか他人事の様に、八重はその爪を見つめていた。
――どうしてあの時、私は鬼神の腕から逃げたのか。
瞬間。痛みでは無い衝撃が八重を襲った。衝撃の原因を見やって、八重は驚愕に目を見開く。
その瞬間、血飛沫が飛ぶ。だがそれが見えたのは一瞬の事で、八重は高遠に抱きかかえられながら何度か転がった。
木にぶつかってようやく止まると、八重は覆いかぶさった体から這い出して高遠を見た。そうして、自分の中の血が一気に無くなってしまったかのような感覚に襲われた。
どくどくと、真っ赤な血が高遠の背中から噴き出している。触れた肩にも血がべっとりと付いていて、八重の手まで真っ赤に染まった。
真っ赤な自分の手を凝視して、いったい何が起きたのかと思う。
「姫、お怪我は、ありませぬか」
ひどく掠れている声だ。それでもいつものように高遠は八重に問う。八重にはどうすればいいのか分からなかった。流れ出て行く血を止めようと背を抑えてみるが、効果があるようには見えない。
「高遠、凄い血じゃ。どうすればよい」
声が震える。そんな八重の手を、高遠が優しく包んだ。
「俺の事はいい。逃げて下さい」
八重は首を横に振った。そのような事が出来る筈がないと思った。胸がどうしようもなく苦しい。こんな物を八重は知らない。
「おうおう。泣かせるではないか」
鬼神の声に、八重ははっとする。
「女を護る為に、その身を犠牲にするか。やはり人は滑稽でおかしいのう。では望み通り、八重と共に喰ろうてくれるわ」
「……姫、早くっ」
このままでは高遠が鬼神に殺されてしまう。
そんな事を認める訳にはいかない。
高遠を死なせたく無いのだ。
彷徨っていた八重の瞳が、近くに落ちていた国杜剣で止まる。太刀を掴むと、八重は震える足で立ち上がった。何故そんな事をしているのか、自分でも分からない。衝動に突き動かされるまま、八重は太刀を握って鬼神に向き直った。
「っ姫!?」
高遠が痛みに耐えた声で、自分の名を呼んでいる。太刀は思っていた以上に重く、切っ先は下がったままだ。それでも八重は、ひたと鬼神を見つめた。
「ほう。扱い方も知らぬと言うのに、その太刀で我を斬るか。八重よ」
八重に覆いかぶさるように鬼神が近づいてきた。血走った目がすぐ近くに迫る。腐臭の混じった息が頬にかかる。八重の手がかたかたと震えていた。背には冷たい汗が伝っている。
何故だ、と思う。
何故今、自分は震えているのだ。今までどんな妖が来ようと、八重の体が震えた事など無かった。そこでようやく八重は理解する。
――これは、恐怖だ。
自分は今、恐怖に震えているのだ。
死に対する恐怖か。
否。違う。
高遠を失う事に怯えているのだ。
八重の頬に一つ。透明な雫が伝う。
「おうおう。八重が泣いておる。あの人形の様な、鬼姫が泣いておるわ」
鬼神の言葉に、八重は自分が泣いているのだと初めて理解した。理解した途端に、視界が歪む。何粒もの雫が目から溢れて来たのだ。
それを拭う事もせず、八重は必死に太刀を持ち上げる。
ふ、と太刀が軽くなって、八重は手元を見やった。
血に染まり、震える八重の手の上にもう一つ、大きな手が重ねられている。背に感じる暖かさが心地よい。いつの間にか手の震えが止まっていた。
耳元に高遠の優しい息使いが聞こえる。
「八重様。妖を退治るのは私の役目にござります」
そう言って、高遠は八重の手から国杜剣を受け取ると、八重の前に立った。