望月昇りて 咲き覆いけれ 三の一
三
風切が浄化されると凍える様な風が無くなり、そこにいた全員が息を吐く。
まだ鬼神と言う本当の戦いが控えている。だが、一つの戦いが終わったのだ。誰もが安堵の表情を浮かべた。
高遠が八重を連れて屋敷へ戻ろうとしたその瞬間。頭が痛むほどの耳鳴りが高遠を襲った。直後、高らかな哄笑が辺りに響き渡る。
条件反射のように高遠は太刀を正眼に構えて振り返った。そうして驚愕に目を見開く。
身の丈が九尺はありそうな巨大な体躯。筋肉が盛り上がり、人など簡単に殴り殺せそうな腕。赤黒い鋼の様な肌。そして額から突き出た、二本の角。とてつもなく大きなものが、いつの間にか現れていたのだ。
「鬼神……」
八重の呟きに高遠は驚いた。あれが、鬼神。八重を喰らい、代わりにこの里へ恵みをもたらせる、守り神。
あんなものが守り神だと、この里の者達は本気で思っていたのか。そう思うと、高遠の中には怒りしか湧かなかった。あんなものが神な訳が無い。人など守る筈も無い。あれはまぎれも無く。
人を喰らう鬼だ。
「我の力が断ち斬られたゆえ来て見れば、何やら騒がしい事になっておるではないか」
地の底を震わせるような声だった。声だけで、人を殺してしまいそうな力がある。その場にいたほとんどの者が、声に竦み上がっていた。
太刀を構えたまま、一歩前に踏み出す。鬼は首を傾げた。
「男。お前、我と戦おうとしておるか」
「ああ」
短く答える。兼光も撃を飛ばして、竦み上がっている兵たちを叱咤していた。その様子に鬼は哂う。
「兼光よ、お前もまた我に戦いを挑もうと言うか。かつての事を忘れた訳ではあるまい」
「忘れた訳ではない。だからこそ、お前を生かしておく事など出来ぬ」
「ほう」
「姉上を守ろうとした私の前で、お前は姉上を喰った。そして我が妻さえも……。あの日から私は、姉上と妻の敵を討つ為、いつか生まれてくる娘を守る為。お前を倒すと誓うたのだ」
兼光の声は低く、血を吐く様だった。そんな兼光にげらげらと鬼が哂い声を上げる。
「兼光、お前は愚かな男よ。私に勝てる筈も無いのにのう」
「やってみなければ分からぬ。あの頃とは違うのだ」
「なれば、やってみるがよい!」
鬼が叫ぶ。その身から、瘴気が爆発した。
高遠は八重に覆いかぶさるようにして、噴き出して荒れ狂う瘴気から護る。衣に縫い付けた呪符に、熱がこもるのが分かった。他の者たちも、道院を筆頭にした陰陽師達の張った結界のおかげで無事だったようだ。怒声と金属のぶつかる音がして、戦いが始まった事を告げていた。
「姫は、離れた所に隠れていてくださりませ」
八重から体を離して高遠は、逃げるように促す。だが八重は首を縦に振らなかった。
「時が来たのじゃ高遠」
「姫?」
「このままでは父上も、里の者達も死んでしまうじゃろう。だが私が嫁げば、鬼神の怒りも鎮められよう」
「何を、申されるのです」
「少し早いが、その時が今じゃ」
高遠の頭に血が上った。八重の肩を強く握りしめる。
「どうしてっ」
「高遠……」
「どうしてあなたは死のうとするのです!簡単に死ぬと言うな、と申されたのはあなたではありませぬか!!」
「高遠、これが私の運命なのじゃ」
「違う!あなたはただ諦めてしまっただけです」
「私は……」
「皆があなたを護る為に戦っている。なのに、あなたがゆけば皆の思いが無駄になるのですよ」
八重は目を瞠った。高遠は八重の肩を握りしめていた手を離す。あの日、自分を叱咤した八重の言葉。その端々に、八重にも生きたいという感情が感じられた。なのに、今は生きる事を諦めてしまった八重。八重の中で何があったのか高遠は正確には分からない。だがこのまま八重を、母と同じように死なせる訳にはいかなかった。
高遠は八重に背を向ける。視線のその先で、鬼と人が戦っていた。
鬼が腕をひと薙ぎすれば、枝の様に人が吹き飛ばされる。陰陽師達の術が効いているのか、鬼の動きが一瞬鈍る。そこに満四郎の矢が突き刺さる。鬼が怯む所を見ると、満四郎の矢は効いているようだ。
「高遠、待つのじゃ」
「……その命だけは、聞けませぬ」
八重の引きとめる声を振り切って、高遠は駆けだした。
「遅いぞ高遠!」
満四郎は矢を番えながら叫んだ。その満四郎の横に高遠は並ぶ。
「随分と苦戦しているようだな、満四郎」
「お前が遊んでいるからだ」
「それはすまん。ではそろそろ俺も往くとしよう」
「死ぬなよ、高遠」
再び走り出そうとした高遠の背に満四郎の声がかぶさる。
「満四郎、お前もな」
振り返らずにそれだけを言うと、今度こそ高遠は駆けだした。
走って来た高遠に気付いたのだろう。鬼が腕を高遠へ向けて振った。しゃがんで高遠はその攻撃を避ける。立ち上がる反動を使って、鬼へ向かって斬りあげた。
「ぎゃっ!」
鬼がのけぞる。皮膚が鋼のように硬くて深く斬れなかったが、効いてはいるようだった。もう一度踏み込もうとして、鬼のもう片方の腕に高遠の体は吹き飛ばされた。