望月昇りて 咲き覆いけれ 一の一
一
真っ黒な闇が、身を包んでいた。
いけどもいけども、闇が途切れる事は無い。
もうじき自分は、存在する意味をまっとうして闇の中で果てる。
それでいい。その為に自分はここにいるのだ。
闇の奥。その最奥で、しらしらと懐かしい何かが輝いている気がした。
空には薄い雲がかかり、空気はひんやりと冷えていた。
露に濡れた草木は重そうに垂れ下がっている。
「姫、いつまでもそのような場所におられると、風邪をひきまする」
高欄にもたれかかるように眠っていた八重へ高遠は声をかけた。眠りが深いのだろう。高遠の声に反応は無い。仕方なく、持っていた衣を八重の肩に掛けた。
昨日までの暖かさならばいざ知らず、今日は随分と冷え込んでいる。結婚を控えた大事な時に寝込んでしまっては大変だ。
つい先ほどまで、高遠は時定に剣の稽古をつけていた。それを八重は見守っていたはずだが、いつの間にか眠ってしまったらしい。高遠も縁に座りこむと、汗を拭った。冷たい風が、火照った体には心地いい。ふと、二人の女房の姿が見えず、どこへ行ったのかと気になった。だがすぐに思いなおす。八重が嫁ぐまであと三日だ。準備などやるべき事がたくさんあるに違いなかった。
満四郎が気を利かせて用意させた水を一息に飲み干すと、人心地着いたような気分になった。その満四郎は、時定に連れられていずこかに姿を消している。今、高遠は八重と二人きりであった。
風が、頬を撫でて通り過ぎていく。八重の髪が、風にさらさらとなびいていた。その度に艶やかな髪は陽の光を受けて、輝いているように見える。無性に触れたい衝動に駆られて、高遠は視線をひきはがした。同時に八重が身じろぐ。
起きたのかと心臓が何故か一瞬跳ねるが、起きたわけでは無かったらしい。気持ち良さそうに眠っている。そんな八重の姿を見ているだけで、満たされた気分になる。だが、高遠にはその感情の意味が分からなかった。
一陣の風が吹き抜けていく。
その瞬間。八重が飛び起きるように顔を上げた。
突然の八重の行動に驚く暇も無く、高遠を耳鳴りが襲う。考えるより先に体が動いた。太刀を引き抜きながら庭へ飛び降りる。そのまま引き抜いた太刀を振り下ろした。
硬い音が庭に響く。太刀は途中で止められていた。高遠の目の前には、血生臭い息を吐く大きな妖がいたのだ。獣のような体毛。長い尾。血走った眼。人など一瞬で殺せるであろう大きな鉤爪。その爪が高遠の太刀とぶつかり、火花を散らせているのだ。
一瞬前まで、庭には何もいなかった。何の前触れも無く現れた妖は、現れたと同時に八重へ爪を向けたのだろう。少しでも高遠の太刀が遅ければ、妖の攻撃は八重に当たっていたに違い無かった。
妖は低い唸り声を上げている。もう片方の腕を振り上げると、高遠へ向けて振り落とした。高遠は妖の鉤爪を弾く。その威力を使って、後方へ飛ぶ。避けきれなかった攻撃に、薄皮と服が裂けた。縁の簀が背に当たる。汗が首筋を伝っていた。
「あな口惜しいや。姫を殺さねばならぬと言うに」
またか、と思う。この妖も何か目的があって八重を襲っているようだった。八重に逃げる気配は無い。背に庇うように立って、太刀を構えなおす。
「妖よ。なにゆえ姫を殺そうとするか」
高遠の声が届かないのか、妖は喉の奥を鳴らしてひたと八重を見据えている。目的を聞き出そうと思ったが無理なようだ。一つ、短く息を吸う。剣先を下に下げて、踏み込んだ。高遠の動きに気付いた妖が鉤爪を横に薙ぐ。高遠は上体を下げて避ける。風が頭上を通り抜けて行った。下から太刀を振り上げる。確かな手ごたえを伴って、高遠の太刀は空を指した。
一拍後。妖は血飛沫を上げて地に倒れる。高遠は頬にかかる血もそのままに、荒く息をついていた。妖が動かない事を確かめて、ようやく構えを解く。刀身についた血を拭って鞘に納めると、高遠は八重へ振り返った。
「姫、お怪我はありませぬか」
「大事無い。怪我があるのは高遠の方じゃ」
八重に言われて、高遠は腹部の傷を見た。服が大げさな程に裂けているが、少し血が滲んでいるだけで深くは無い。すでに傷口も乾いていた。
「浅い傷にござります。問題ありませぬ」
「……そうか。ならば、よい」
八重が眼を伏せる。その姿が弱弱しく見えて、高遠は焦った。誤魔化すように話題を変える。
「それにしても。姫はあの時、妖が現れると分かって眼を覚まされたのですか」
呼んでも起きないほど、八重は深く眠っていた筈だ。高遠は太刀が教えてくれるが、八重はどうして分かったのか。
「私には見鬼の才がある。妖が近づけばすぐに分かるのじゃ」
だからあの時も、という言葉を高遠は飲みこんだ。ずっと気になっていたのだ。何故、八重はあの夜に妖が襲って来た時、縁に座していたのか。八重はあの妖が近づいている事に気付いていたのだ。だから女房を巻き込まない為に、一人で縁に座した。
「高遠の方こそ、なにゆえ妖が来ると分かったのじゃ」
「私は、この太刀が教えてくれるのです」
腰に佩いた国杜剣へ視線を落とす。
「そうか……」
高遠が言葉を発しようとした時だ。
「おう、なんだ高遠。ひどい有様だな」
「高遠殿!?」
満四郎が時定と共に戻って来たようだった。高遠の姿を見て満四郎は平然としているが、時定は顔面が蒼白になっている。それもそのはずだろう。高遠は返り血まで浴びているのだ。何も知らない人間が見れば、大怪我を負っているようにしか見えない。
「時定様。これは私の血ではありませぬ。ここに倒れている妖の血を、かぶってしまったのでござります」
高遠の言葉に少し安心したのか、時定は小さく息を吐く。だがすぐに動けるようには見えなかった。どうしようかと思っていると、橘と梅が戻ってくる。二人も高遠の惨状を見ると絶句するが、すぐに橘は持ち直して、梅に時定を部屋へ戻らせるように言いつけた。その後は早かった。
八重を部屋に戻し、舎人を呼んで妖の死体を片付けさせる。高遠は傷を洗おうと、水場へ足を運んだ。
井戸水は身を切るように冷たかったが、構わず水で傷口をすすぐ。少し痛んだが、やはり深くはないようだ。綺麗な布を巻いて、高遠は治療を終わらせた。血で汚れた衣を着る気にはなれず、上半身をはだけさせたまま戻る事にする。
簀を歩いていると、突然叫び声があがって高遠は驚いた。すぐに叫んだのは橘だと分かるが、何故叫んだのかが分からない。
「橘殿、いかがなされ」
「高遠殿!!なんという姿で歩いているのですかっ!!」
橘の言っている意味が分からなかった。一緒に歩いてきていた梅は、頬を朱色に染めて視線を逸らせている。八重は相変わらず無表情なまま高遠を見つめていた。
「そ、そのように肌を露出させたままで歩きまわるなど、もっての他にござりまする!姫がおられるのですよ!?」
ようやく橘が叫んだ理由が分かって、高遠は頭をはたいた。
「や、着替えを持って行くのを忘れてしまったのですが、汚れた衣を着る気になれなかったので、そのまま来てしまいましたが。女人にこの傷は刺激が強すぎましたか。驚かせてしまい、申し訳ありませぬ」
「私が申し上げたいのは、その様な事ではござりませぬ!」
一喝されて高遠は押し黙った。傷を見せてしまった事でないなら、いったい何に怒っていると言うのか。相変わらず梅は高遠を見ようともしない。
「とにかく!早く着替えてきて下さりまし!」
橘に追い立てられるように高遠は部屋へ戻った。入った途端。今にも吹きだしそうな満四郎と鉢合わせして、むっとする。
「何が可笑しいのだ」
「や、何も可笑しくなどない」
「笑っているではないか」
「高遠の気のせいだ」
先ほどから、高遠にはまったく意味の分からない事ばかりだ。更にむっとして首をひねるが、このままでは体を冷やしてしまう。高遠は仕方無く着替える事にして、新しい衣を手に取った。