思ふ心は 花曇り 四の二
陽が傾き始め辺りが燃えるような色になった頃、高遠達は帰路に着いた。じきに陽が暮れる。そうなれば妖に出会う可能性も高くなるだろう。もっと早く帰るつもりが、ついつい長居をしてしまったのだ。ごとりごとりと重い音を立てて牛車がついて来ている事を目の端に留め、高遠は辺りを窺いながら歩を進める。
ふと空を見上げた。
雲の広がる空も茜色に染まっている。こんな夕焼けは今まで何度も見て来た筈だ。なのに何故か恐ろしく、同時に美しいと思った。
空から視線を外した高遠の頭に、ずきりと鈍い痛みが走る。この痛みには覚えがあった。あの時。妖が現れた時と同じ痛みだ。思った瞬間、高遠は太刀に手をかけていた。
高遠が太刀を引き抜いたのと、それが現れたのは同時。
どこからともなく現れたそれは、闇の様に黒い霧に身を覆われていた。霧の触れた草木が音も無く枯れていく。
「妖か……」
満四郎が呟く。高遠は頷くと牛車を止めるように目で合図した。そのまま辺りを見渡す。舌打ちをしたくなった。いつの間にか黒い霧に覆われた妖が、前方に半円を描くように現れていたのだ。牛車の軋むような音が辺りに響く。ゆっくりと霧を纏いながら、妖達は高遠、否、八重へ向かっているようだった。すぐさま数を数える。合計で六。高遠と満四郎ならばなんとか倒せる数だ。
満四郎は弦を引き絞って矢を放った。寸分たがわず妖へ向かう。当たる、と思った瞬間、矢は弾かれたように軌道を変えて間近の木に刺さった。
「!!」
満四郎だけでなく、高遠まで驚きに目を瞠る。確かに当たったと思った。そもそもこの程度の距離で満四郎が外すはずも無い。もう一矢、満四郎が放つ。だがやはり先ほどと同じように、妖へ当たりそうな所で急に軌道を変えてしまう。
「まさか、あの霧の様な物に阻まれているのか?」
「信じられないが、そのようだ。ならば俺の太刀も届かないかもしれん」
嫌な汗が垂れる。高遠と満四郎が言葉を交わしている間も、妖はゆっくりと近づいて来ていた。今度は道院から貰った札を付けて射る。それも妖に当たる事は無かった。これでは妖を退治する事が出来ない。どんな攻撃も当たらなければ意味が無いのだ。あの霧をどうにかして無くさなければならなかった。だがその方法が分からない。考えあぐねている高遠の脳裏に、突然八重の言葉がよぎった。
――妖や物の気を断ち、浄化する力があるそうじゃ。
「物の気を断つ……」
「何?」
高遠は国杜剣を握り直すと同時に土を蹴った。一気に妖との距離を縮める。近づいてきた高遠に妖が腕を振り上げる。だがそれよりも早く、袈裟がけに太刀を振り落とした。腕に水を切る様な感触が伝わる。確かめる事も無く、高遠は太刀を切り返して振り上げた。今度は確かな肉を断つ感触がする。ぬめった水が頬にかかって、国杜剣が妖を斬る事が出来たのだとすぐに思った。
仲間が斬られた事に驚いたのだろう。他の妖達が高遠に向かって殺到してくる。それを気配だけで感じながら、高遠は振り返りざまに太刀を薙いだ。一度に二体の妖を覆っていた霧が消える。そこに札を付けた満四郎の矢が続けざまに刺さった。二体が倒れる。高遠は空いた隙間から転がり出ながら、もう一体を斬りつけていた。すぐに態勢を立て直すと続けざまに二体の霧を断ち、霧の無くなった一体を突く。同時にもう一体には満四郎の矢が刺さった。霧を纏った最後の一体が高遠へ覆いかぶさろうとしてくる。妖を貫いたままの刃を捻って、そのまま覆いかぶさろうとした妖を霧ごと斬った。妖の纏う霧が掻き消える。この時初めて高遠は、霧の中にあった妖の姿をまともに見た。真っ赤に染まった目と視線が合う。そこにあったのは狂気でも無く、獲物を狩る興奮でも無かった。ひどく物悲しそうな、何かを憂えているかのような。それが確信へ変わる前に、妖は目を閉じて赤い水の中へ倒れ込んだ。
「終わった……ようだな」
満四郎の声にはっとする。今の妖の目は一体何だったのか。気にはなったが考えても答えは見つかりそうになかった。高遠は一度頭を振って満四郎達へ向き直る。牛車から降りた八重と時定に向けて声をかけた。
「妖は退治ました。陽が暮れる前に戻りましょう」
高遠の声に皆一様に頷く。再び牛車が動き出すと、高遠は妖の倒れた所へ一度だけ視線を投げてすぐに歩き始めた。
陽が落ちかけ細い稜線が山の端にかかる頃、一行は屋敷に着いた。
屋敷に戻るとすぐ、高遠は時定に稽古をつける事になった。高遠としては今日はやらなくとも良かったが、時定がやりたいと言ったのだ。帰り際に行き合った妖に何か感じる所があったのかもしれなかった。
打ち込んでくる時定の木刀を木刀で払う。それでもすぐ時定はまた打ち込んでくる。今度はそれを避けて、高遠は隙の出来ている所を軽く打った。軽くと言っても木の棒だ。痣ぐらいは出来るだろう。痛みに時定は顔をゆがめるが、それでも構えなおして高遠へ向かって行く。
高遠が打ち込んだのは一回だけで、後は払い避ける事を何度か繰り返す。特に何かを言う事はしない。言葉で言うよりも、体で覚えたほうが早いのだ。陽が完全に落ちて辺りが闇へ沈む頃に稽古を終えた。
時定は荒い息をつき汗で服が濡れている。やはり高遠は息一つ乱していない。ふらふらとしながらも、時定は礼をすると自分の部屋へ戻って行った。
「容赦がないな」
満四郎が縁の上から高遠に声をかけた。
「手加減はしているが、時定様も手を抜かれる事をよしとしないだろう。それに、手を抜かれているかどうかを見抜く眼も持っておられる」
「成る程」
土を払って、縁へ上がる。いつの間にか部屋には食事が用意されていた。燈台に火も灯されている。膳の前に二人は膝をついた。
「先ほどの妖だが……」
満四郎の言葉に高遠は視線を向けて、続きを促した。
「何かこの間の妖と違う物を感じた」
「……満四郎もか」
「高遠も感じたか」
「ああ」
以前襲ってきた妖には、理由は分からないが明確な殺意が感じられた。だが今回は違う。何かに怯え、仕方無く襲ってきたようにも見えるのだ。
「とはいえ妖に聞く事も出来ん。答えは分からないままだ」
「もっと何か情報があればよいのだが……」
「……言っても始まらん。とにかく今は姫様の身を護る事だけを考えるしかあるまい」
敵の目的が分かる方が本来は護りやすい。だが相手は人では無いのだ。人と同じようにはいかない。気になる事も多々あるが、それに振り回される訳にはいかなかった。
しばらく互いの間に沈黙が落ちる。先に口を開いたのは満四郎だった。
「それにしても、随分と俺達の立場も変わったものだ」
「ああ」
「まさかこのような場所で、飯を食べる日が来るとは思わなかった」
その通りだ、としみじみと思う。例え短い間であったとしても、高遠は一生この数日間を忘れはしないだろう。
焼き魚に箸を伸ばすと、身を押すようにしてほぐす。じわりと染み出してきた脂に、高遠は自分の腹が減っていたのだと気付いた。この里は食べ物が豊富だ。海と山に近い事が大きいのだろうが、新鮮な魚に山の幸がよく採れる。それに、ここ数百年と大きな災害にもみまわれていないらしかった。そのおかげか里全体が富んでいて、酒などもよく手に入る。
「そういえば。道院様はいつ戻られるのだ」
高遠は動かしていた箸を止めた。
「兼光様によると、三日はかかると申されていた。ならば早くとも明後日になるだろうと思う」
「そうか。……高遠、お前気付いているか?」
満四郎の言わんとしている事を察して、箸を置くと庭を見つめる。
「隋身の配置が変わった」
「それだけではない」
「ああ、姫の部屋の周辺は変わりないが、それ以外は随分と数が増えたな」
気付かない訳が無かった。高遠も満四郎も武を修めた身。人の気配ぐらいは分かる。それも徒人ならぬ気を発している者までいるようだ。人が増えただけでなく、手練ればかりを集めているようだった。
「あの妖に対抗する為、か……」
あの日以来、あの妖は姿を現していない。あれだけの深手を負えば、それも仕方のない事だろうとは思う。だからこそ、違和感があるのだ。確かにあの妖は強い。だがこれだけの人を集め、結界を強める為に道院が屋敷を離れる。そして高遠と満四郎には、対抗すべく武器を持たせる。それ程の存在には感じられなかった。力を隠していたというのか、と思うが全ては憶測にすぎない事ばかりだ。情報が少なすぎる。道院がいないのならば兼光に聞きたい所だったが、昨日の朝に会ったきり忙しなく動いているらしい。あれから一度も会えないままだった。
一陣の強い風が吹き抜けていく。
嫌な予感に駆られて、打ち消すように高遠は庭から視線を外した。
明かり取りの無いその部屋は月の光さえ届かない為に暗く、灯明皿に点った頼りない灯りが揺れているだけだった。
そこで男は、死に瀕していた。
見目には傷一つとしてない。だが男は荒く息をつき、全身が汗でびっしょりと濡れている。その男の横に、もう一人の男が座していた。
口元に指を当て、聞き取れないほど小さな声で何かを言っている。
苦しげにしている男が目を開けた。
「こ、ここは」
「気がついたか」
何かをささやいていた男が声をかける。横たわったままの男は、焦点の定まらない瞳を横に座す男に向けた。
「……様っ。申し訳ありませぬ。…には、……しか持って来る、事が……」
横たわった男の声は途切れ途切れで、何を言っているのか判然としない。だが、もう一人の男には分かったのだろう。深く頷く。そうして横たわった男が、懐から震える手で取り出した二つの玉を受け取った。微かに目を見開くが、すぐに目を細めた。
「お主、これはいったいどこで手にしたのだ」
問う男の声は微かに掠れている。
「……坂、にて」
息も絶え絶えに横たわった男が答える。その言葉に、男は静かに瞑目した。
「すまぬ。お主には辛い役目を負わせた」
横たわった男には言葉を返す力も無い様だ。微かに口の端を上げると、そのまま息を止めた。
「志麻遠乃介。お主の事は決して忘れぬ」
ゆらゆらと揺れる闇の中。男の手に握られた、小さな薄緑色の玉が、光を弾いて淡く光っていた。
ふっくらとした月が青い光を注いでいる。
冷たい夜気がどこか心地よく、満開に咲く桜が淡い燐光を放っているように白かった。はらり、と思い出したように時折、花びらが舞っている。甘い芳香が風に乗って漂っていた。それに混じるように、香の微かな香りがする。
高遠と八重は二人並んで、縁に座していた。香の微かな香りは八重の物だ。二人とも言葉を発する事は無く、ただ中天に差し掛かる月を見上げていた。
「高遠は酒が好きじゃと聞いた」
「や、これはどこで聞かれましたか」
高遠は首に手をやって、月から視線を外す。どうにも気恥しかった。
「満四郎が昼間、言うておったのを聞いたのじゃ」
「左様でござりましたか」
満四郎か、と高遠は八重に気づかれない所で半眼になった。これはそろそろ一度こらしめなくてはならないだろう。高遠がそんな物騒な事を、心中で決めている事など知るはずもない八重は話を続けた。
「私には酒の味が分からぬ。旨いのじゃろうか」
旨いか、と聞かれれば旨い。特に今日の様な月夜に呑む酒は格別である。実は先ほどから酒が呑みたいなどと考えてもいたのだ。まるで八重には高遠の心が読めているかのようだと思った。高遠は困ったように笑う。
「私は旨い、と思います。特に今日のような夜に呑む酒は、更に旨く感じられましょう」
「……呑んでもよいぞ」
「いえ。今は任に就いております。何より、酒を飲めば剣先が鈍りまする」
「そういうものか」
「はい」
「一度、高遠と呑んでみたかったものじゃ」
月からは相変わらず、青い光が高遠達に注いでいる。風に舞う花びらが、はらり、はらりと空へ昇ってゆく。美しく、静かな夜だった。
だと言うのに。ふとまた、高遠の胸を嫌な物が通り過ぎて行った。