卑怯者
カーテンの隙間から光が差し、部屋の中を照らす頃。
「し、士郎様、お目覚めの時間です」
そんな声で、士郎は眼を覚ました。メルアの声だ。
士郎はベッドから起き上がると、伸びをした。
「えっと、き、今日の朝食はスクランブルエッグとトースト、ダージリンティーです」
メルアは、お茶の入ったポットを持ち、もう片方の手にはティーカップが握られている。
「いつも済まないね、メルア、僕は言わばこの家の厄介者なのに、毎日こんなもてなしを受けてさ」
「え、えと、そんなことはないです!厄介者なんて、そんな、士郎様たちが来てくれたおかげで毎日楽しくて、感謝してるんですよ」
メルアは、お茶をティーカップに注ぎながら言った。
このやりとりも結構繰り返されたもので、朝の習慣みたいになっている。
士郎は、お茶の入ったティーカップを受け取り、一口啜った。
それを見て、メルアはほんの一瞬、本当に一瞬、うっとりしたような表情になった。
「うん、美味しいな」
士郎が言うと、メルアは表情を元に戻し、照れくさそうに一礼した。
「君の淹れたお茶は一味違うね」
「でもまだ、ウイングスさんの足元にも及びません、まだまだ勉強することは山積みです」
「そう?十分美味しいと思うけどな」
士郎が首を傾げると、メルアはやはり照れくさそうに一礼した。
士郎はお茶の入ったティーカップをメルアに返すと、部屋を後にする。
向かう場所はもちろん食堂だ。
部屋から出て、大きな階段を下りる。
その士郎の後ろにメルアが付き従うように付いていった。
食堂の入り口の手前で、士郎は急に足を止めると、メルアの方へ向き直った。
「メルア、サーシャさんは帰ってきたのかい?昨日」
「はい、帰ってらっしゃいました。十一時時頃ですね、皆様はとっくにお休みになられたころでした」
「そっか」
士郎は首を捻る、何故そんなに時間がかかったのか。
「やっぱり、旦那様の容態が気になったんじゃないかと・・・」
そんな士郎の心中を察してか、メルアはその疑問に答えるようにしみじみと語った。
「そうだね」
士郎は納得顔で頷いた。
そして、食堂に入った。
既に、サーシャとレナ、ユリアが席についている。
「お早う!士郎」
「お早う、お兄ちゃん」
「お早うございます、士郎さん」
「お早うございます、サーシャさん、お早う、レナ、ユリア」
挨拶を済ませて、士郎は席に座った。
そして、スクランブルエッグとトーストがウイングスの手で運ばれてきた。
全員に食事が行き渡ると、四人は十字架をきり、「アーメン」と言って食事にありついた。
一応、サーシャもユリアも士郎も十字教徒の人間だ。
レナは十字教徒というわけではないが、何となく士郎に習ってその動作を真似している。
四人は黙々と食事を済ませると、それぞれの部屋へ着替えるために戻った。
士郎は、こぎれいに片付けれれた自分の部屋に入り、ベッドの上にクローゼットから出した制服を投げ出した。
黒いブレザーと、チェックのズボン、白いYシャツ、典型的な制服だ。
士郎は服を脱ぐと、ベッドの上に置いた制服に着替えた。
そして、部屋を出ると、一階の洗面所に向かう。
洗面所は浴場のすぐ近くにあり、大きな一枚板の鏡が取り付けられている。
更に、ドライヤーやクシ、タオルなどがズラッと綺麗に洗面所の脇にある台の上に乗せてあり、その全てが新品のような輝きを発している。
身だしなみに気を使わない士郎は気付かなかったが、かなり丁寧に手入れされている。
とりあえず、士郎は洗面器の蛇口から水を出し、顔を洗った。
綺麗に並べられたタオルの一つを手に取り、顔を拭く。
そして、洗濯籠にそれを入れると、士郎はその場を後にした。
学校の始まる時間まで、あと一時間ほどある。
ユリアやレナは女性だから身だしなみを整えるのに時間がかかるが、三十分もあれば余裕だろう。
それに、ここから学校まで、十五分もかからない。
だが、士郎はある事情があって、早めに学校に行かなければならない、そんな訳で、部屋に戻り、鞄を取ると、階段を下りて、家を出た。
その事情と、早く家を出ることは、既にユリアとレナには知らせてある。
士郎は少し急ぎ足で、噴水があり、白い薔薇の咲き乱れる庭を出た。
しばらく走って、住宅街のある場所に差し掛かったとき、
「待ちなさい、そこのアンタ!」
人気のない場所で、士郎を呼び止める声があった。
その言葉からは、敵意がびんびんと感じ取れる。
それほどに、棘を持った口調だった。
「また、君か・・・」
士郎は振り返らずにため息をついた。
「こっち向きなさい!」
声の主は、士郎が何度あしらっても喧嘩をふっかけて来る、士郎にとっては鬱陶しい相手だった。
士郎は振り返り、少女のほうを見た。
少女は聖・ルーベルハイスクールとは違う学校の制服を着ている、どこの学校だかは分からないが、おそらく高校生だろう。
肩までのびた黒い髪のストレート、凛とした表情、武道家のような佇まい。
恐らく日本人だ、と、士郎は睨んだ。
少女は心底嬉しそうに笑っている、彼女はいつもそうだ。と、士郎は思った。
強敵に合間見えるほど燃え上がるバトル漫画の主人公みたいだ。
士郎は少女を見据える。
次の瞬間、少女の身体は消えていた。
そして、一瞬後に、士郎の視界のすぐ前に現れた。
(この間より速くなってる?)
士郎は感心しながら、少女の放つ拳を受け止めた。
みぞおちに吸い込まれるような、無駄の無い攻撃だった。
だが、彼女と士郎とでは次元が違う。
その隔たりが、士郎に余裕を生む。
「何で、僕に喧嘩を売ってくるの?」
士郎は少女が次々に繰り出す拳を全て軽くあしらいながら、尋ねた。
上段に放たれる回し蹴りと共に、答えはやってきた。
「そんなの、最強になるために決まってるじゃない!」
「またそれか・・・」
士郎は回し蹴りを片手で受け止めながら呆れたように呟いた。
確かに、士郎を倒せたとしたら、この街で、いや、世界で最強と言うことになるかもしれない。だが、
「そんなに最強の称号が欲しいなら、武道の大会にでも出ればいいじゃないか?」
少女は、それを聞くとしばらく黙った。
「それじゃあ、足りないのよ、私が求める強さは、ルールがあるつまらない戦いごっこの中では手に入らない、私が欲しいのは本当の強さなのよ!」
少女の求める強さは士郎には理解できないものだった。
最強?本物の強さ?そんなものが何になると言うのだろう?
だから、少年は鼻で笑う、自分でも気づかずに。
「馬鹿にするな!」
少女は、叫ぶ。
士郎には、それが泣き声のように聞こえた。
ふと、士郎は不思議に思う、何故、少女の叫びが鳴き声のように聞こえたのか。
少女の叫びは、今にも壊れそうで、儚げで、崩れ落ちそうな、そんな印象を与えた。
だが、士郎には、その痛みを受け止めてやることは出来ない、彼には、その痛みを感じ取っても理解するだけの精神的な成熟が足りなかった。
だから、いつものように、呟く、誤魔化すように、はぐらかすように。
「お休み・・・」
その言葉の後に、少女の身体が動かなくなった。
指先も、目も、少女は、殴りかかろうとした動作のまま固まった。
士郎はその様子を見て、ため息をつき。
「ずるいとは、思うけど、僕にはこれしか出来ないんだ」
そう言って、その場を後にした。