「君を愛する事はない」それは私も貴方を愛さないということですが、覚悟はよろしいですね?
「フレデリカ、私が君を愛する事はない。お互いに干渉しない契約をしよう」
ドワイト・ローズマイン侯爵は、新婚初夜早々に、妻となった女性へそう切り出した。
それは、彼にとっては意を決した告白だったのかもしれない。
しかし妻となったばかりのフレデリカは、彼が考えているよりも冷静だった。
――とっくに、存じております。
自分でない者に決められた結婚に臨む。
それは貴族の一員として通過する、当然の営み。
だから、同様の「当然の嗜み」として、フレデリカが夜会でお相手の噂を追わぬはずがなかった。
気の毒に思い、進んで伝えてくれる者。
退屈しのぎにフレデリカの反応を愉しもうと、もったいぶりながら近づいてくる者。
様々ではあったが、彼の視線がキャサリン・ホールワード男爵令嬢にしか向いていない事は、そういったことに関心の高い方々の間ではよく知られた話であったようだ。
上流の淑女たちには退屈しのぎに飢えている者が多すぎたという面倒はあったものの、それらの憐れみはいずれも彼を見定めようとするフレデリカを助けるものとなった。
「事情を、お伺いしても?」
だから、フレデリカは聞かずとも知っている。
知っているが、この場合、淑女の作法として彼の口からそれを吐き出させるべきであった。
フレデリカの実家は伯爵家の身分。彼は侯爵。確たる証拠も無いのに無下に婚約を白紙に戻すことはできなかった。
そして、彼がキャサリンとフレデリカを同時に愛すという選択をしていたら、フレデリカ自身の嫌悪感のやりどころも含め、いささか話が難しくなっていた。
だから、始まる前から壊れた結婚生活においては、向こうからこのような申し出をしてきてくれてフレデリカには幸運なことにすら思えた。
「私には、真実の愛を誓った人がいる。だが、家格に見合う結婚相手が必要だった。だから君と結婚したまで。だから君を愛することはできない。これにサインをお願いしたい」
披露宴から変わらぬ格好のドワイトは、内ポケットから紙を取り出した。
それは、白い結婚の契約書であった。
――用意のよろしいこと。キャサリンさんの入れ知恵でしょうかね。
フレデリカには、愛されなくとも義務として彼との結婚生活をこなすという貴族の令嬢としての覚悟はあった。
しかし、状況が整うのであればより良い人生を目指すというのも、彼女に許された選択肢だった。そして、その状況を整えるという道も。
「わかりました。ただ、契約書は私の方でご用意しますわ」
流し読みした紙面には、彼に都合の良いことが並べられていた。
フレデリカには、確かに覚悟はあった。
しかし、それは物を考えないお人好しに成り下がることを意味しない。
中身も読まずに契約するような女と思われていたのかしら?
みくびられることは、油断を誘うこともできるから悪いことばかりではない。フレデリカはそう思っていた。しかしいざその場に立たされれば、夜闇にも似た暗い帷をその心に落とす。
「では、文面ができたら見せてくれ」
「はい。……私を愛さないということは、私も愛さないということ。その点は、ご理解いただいていますわね?」
「ああ、もちろんだ」
ドワイトは質問に対して、ただ頷いた。
――なぜそんなことを聞くのか、訝しげにも思わないのですね。
フレデリカは動き出した。
自らの幸せ、それだけのために。
*
「よく働く奥様だなあ」
「新婚ですから。張り切っていらっしゃるのよ」
使用人からそんな声が聞こえてくるのは、フレデリカが驚くほど家業に精を出し始めたからだ。
「この屋敷の柵の仕入れ、領地のための仕入れとまとめてくださらない? ああ、収穫物の販路はもう少し増やした方が良いですわ。今の取引先との交渉材料にもなるでしょうし。実家につてがあるから聞いてみるわ」
「かしこまりました。仕入担当並びに商家窓口担当に申し伝えます」
フレデリカの従者、ヘンドリックは恭しく頭を下げる。
お屋敷の運営は、侯爵夫人たるフレデリカの役目。
しかしフレデリカは、じわじわと領地経営そのものに口を出していった。
ドワイトは決して無能ではなかったが、愛は彼を盲目にさせた。
フレデリカに任せれば任せるほど愛するキャサリンとの時間を作れるという欲望に、勝てなかったのだ。
「旦那様はお忙しいでしょうから、私にできることはお任せいただいて構いませんわ」
そう仕向けたのは、間違いなくフレデリカだった。
この関係をよく理解してくれている妻、そう思わせた。
「わかった。ただ、あまり勝手はするなよ。よいな」
そう言うドワイトの心配の中身は、当然ながら領地経営の失敗であった。
しかし、ドワイトの予想よりも遥かにフレデリカは有能だった。
使用人の上役として厳しすぎず、優しすぎず、正しく振る舞う。
領民の意見を聞き、視察し、順序立てて効果的に投資する。
「もちろんですわ。危うい事柄はご相談します」
だから、彼は任せてしまった。
フレデリカの欲するものが何か、深く考えもせずに。
フレデリカは、あくまでドワイトとの契約の先を見据えていたのだ。
この少し前、ドワイトはフレデリカが用意した契約書にサインした。
フレデリカの用意した契約書には、二年の有効期限と延長についての但し書きが足されていた。両者が改めて相談して改定し、合意した上で再締結する旨の但し書きだ。
ドワイトはやや渋っていたが、最終的に、これでなければ契約しないというフレデリカの圧力に負けた。
「跡継ぎについてはいずれ養子を取らねばならないのでしょうけれど、今はその気になれません。けれど、人は気が変わる生き物ですから、改定の余地を残しておきましょう」
フレデリカはそんなことを言って、ドワイトの「愛」につけ込んだ。
ドワイトはいずれキャサリンとの間に子をもうけ、その子を嫡子としたいに決まっているのだから。
フレデリカの真意は、もちろん契約の延長判断を利用することにあった。
それまでに、屋敷と、領地の実権を握る。それが彼女の目的であった。
――二年だけ付き合ってあげる。それまでに幸せになる準備をするから。
ドワイトは、そんな事はつゆ知らず、キャサリンとの愛の棲家へと足繁く通っていたのだった。
*
一年ほど経った、ある日の晩餐。
「ホールワード男爵家の領地では、梨が特産でしたわね」
「ん? ああ、そうだったかな」
久々に顔を合わせたフレデリカからキャサリンの実家に触れられ、ドワイトは白々しくもはぐらかした。
ドワイトもフレデリカがキャサリンのことを知らないとは思っていない。しかし、これまで面と向かって触れられたこともなかったからだ。
「果物の良い流通網ができてきましたの。我が領地特産の林檎だけではもったいないので、良い値で梨を仕入れようかと思いまして」
ただの領地経営の相談事。
ドワイトはそう解釈し、内心で安堵した。
「良い案だ。ホールワード男爵とは懇意にしている。ぜひ高値で買い取ってあげてくれ」
「承知しました」
――懇意、ね。
それがフレデリカにとって最後のピースであることを、ドワイトは理解できなかった。
愛する人の家の浮沈が、あなたを決して愛さない者に委ねられたというのに。
フレデリカは内心のみで微笑を浮かべた。
「ヘンドリック、先月の締め分が更新された帳簿を見せて」
「は、かしこまりました、奥様」
この一年で、フレデリカは使用人を完全に掌握した。屋敷の運営は全てフレデリカを中心に進められている。
ただ、屋敷に関しては、貴族の夫人の仕事としてさほど珍しいものではない。
フレデリカがより腐心したのは、領民と流通だった。
フレデリカがその能力を認め、従者から家令として抜擢したヘンドリックは遺憾無くその能力を発揮してくれている。
「昨年同月比で木材に関しては二割ほどの売上向上、利益は八割の向上です」
「よく見ていたわね。ただ、八割は大きく見えるけれど、元の利益が少なかっただけ。こういう時は割合でなく数値を語るべきよ。覚えておいてちょうだい」
「かしこまりました。続いては収穫期を迎えた果実に関する人手の配分と日当ですが――」
二人は、こんなやりとりを毎日続け、領地経営の向上に邁進していた。
女と遊び呆けている旦那様と、日々顔を見せ、話を聞き、適切な対応を続ける奥様。フレデリカにとって、善政を敷くことはあくまでその構図を作り上げるためのポーズに過ぎなかった。しかし、実際に善政であるのだから、領民はフレデリカに靡いていった。
フレデリカ自身も領民に罪はないことは承知している。だからポーズとはいえ貴族の勤めとして当然に民を愛し、守り、領地を共に育んでいった。
世論があれば、侯爵家馴染みの商会が多少文句を言ったところで、流通を変えていくことは容易かった。
リスクの分散という名目で複数の流通、販路を用意し、ドワイトにも納得させた。
その端々には巧みに実家の伯爵家の領地や、その息のかかった商会を紛れ込ませていた。しかしそれは、領民の多くにとっては「領地のことを第一に考えてくださる奥様が、使えるツテを全て使い、実家に頭を下げてまで実現してくれたこと」にすり替わり、好意的に捉えられた。
そんな中で、もう一年が過ぎた。
*
「旦那様、契約の更新の時期でございます。こちらを」
フレデリカは、ドワイトに一枚の紙を渡す。新たな契約書の素案だ。
「む……これはどういう意味だ? 理解に苦しむが」
そこには養子に対する条項が足されていた。
フレデリカが産んだ子を、ドワイトが嫡子として迎え入れるという内容。
「そのままの意味ですわ」
「子を産む予定があると? この私と以外に?」
「いいえ? どなたともそのようなことはありません。ただ、前にも申しました通り人は気が変わる生き物ですから、その準備にと」
「ふざけたことを! それであればキャサリンが産んだ子を養子として嫡子にすれば良いだろう!」
「ふふ、キャサリン様のこと、ついにぼかしもしなくなったのですね。ええ、おっしゃる通りですわ。ですから、私のこの提案も飲んで頂かなくては公平でないでしょう?」
「どうせキャサリンのことは知っていたのだろう! しかし、誰ともわからぬ者の子など……」
フレデリカにとってはそれこそ「誰ともわからぬ」キャサリンという女である。
ドワイトは自らの行いに慣れきって、非道である自覚すら無くしてしまったのだろう。
しかし、フレデリカはそのようなことを本気でするつもりで書いたのではなかった。ドワイトはこの条件を飲まないだろうという前提に立っていた。
「ええ、もちろん存じておりますわ。ですから、飲めないなら契約の延長はせずとも結構。守秘義務も同時に終了するので、そうしたら二年前の件を明るみに出すだけですわ」
二年前、ドワイトは永続的な契約書として文面を用意した。そこには守秘義務に関する条項が含まれていた。しかし、期限を設けたフレデリカの改案において、守秘義務のみ永続化する再改定の必要性まで考えが至っていなかったのだ。法律家に確認を通せない、プライベートな内容だったからこそのミスであった。
だから、二年前、あの書面にサインがされた時点で、フレデリカの勝利は決まっていたのだった。あとは、どのような勝利を手に入れるかだけだった。
「お前……私を脅迫するのか」
「脅迫? 人聞きの悪い。私の望む条件で円満に別れてくださるなら、私はそんなことをせずにここから去っても構いませんわ。ホールワード男爵家とは取引先として今では繋がりも深い。そのご令嬢を後妻として迎えてもそれほど違和感は無いでしょう」
フレデリカの本当の狙いはここにあった。
「おお……それは誠か。願ってもない。お前には悪いが、そうしてくれると助かる。金銭や財産の面では厚く報おう」
――かかった。
フレデリカは、溢れる笑みを隠すように扇で顔を隠す。
「では、そのように」
フレデリカの出した条件は、以下の二つだった。
一つ、この二年で増やした分の財産の半分を渡すこと。
一つ、使用人や領民がフレデリカのもとへ移住を望んだ場合、それを無条件で受け入れること。
ドワイトには大した条件には思えなかった。だから、離縁の交渉はすんなりとまとまった。
*
「ああ、ここがドワイト様のお屋敷……私、ついにここで暮らせるのね!」
水色のドレスに身を包んだ女性が、ドワイトと共に門前に現れる。
「あら、あなたがキャサリン様? 初めまして、フレデリカ・ローズマインと申します。今日までね」
フレデリカは、車止めでヘンドリックと共に荷物を馬車に積み込んでいた。今日、出立するためだ。
「あなたがフレデリカ。ふん、長いことお屋敷のことお疲れ様。そうよ、私がキャサリン・ローズマインよ。今日からね」
キャサリンは、殊更に「ローズマイン」を強調し、敵意をむき出しにした物言いでフレデリカに挨拶をした。
「お、おい、キャサリン。フレデリカも」
まったく、明日連れてくれば良いものを。
「では、旦那様。お世話になりました。もうお会いすることもそうは無いでしょうけれど。ご機嫌よう」
フレデリカは笑顔で淑女の礼を取り、馬車に乗り込んだ。
「じゃあね、伯爵令嬢さん」
キャサリンが精一杯絞り出した嫌味を、フレデリカは聞き流す。
「出してください。では、ヘンドリック、後のことは任せました」
馬車が走り出し、フレデリカの二年間の「結婚生活」が幕を閉じた。
――あの程度の器では、苦労するでしょうね。精々頑張ってください。
フレデリカは心の底からそう思ったので、彼女を憐れにすら感じた。
フレデリカは、道すがら出会った領民に今日でお別れだと伝えた。
涙を流して悲しんでくれる者、ドワイトに対して怒る者など、皆別れを惜しんでくれた。
何かあったら私を頼ってください、そう言い残して改めて馬車を走らせる。
そんなことを繰り返しながら、侯爵領を出たのだった。
*
ドワイトは、二年ぶりに領地経営の手綱を握り直し、そこで様変わりしていた領地の流通網を改めて確認し、目を見張った。
「ここまで優秀だったとは……」
フレデリカが作り上げた緻密な流通は、その効率、効果ともにそれまでの何倍にも改善されていた。
これを残したのなら、全財産の半分を渡しても良かったのではないか、そう思えるほどのものだった。
そして、それを丸二年、ほとんど確認していなかった自分に思い至った。
「いかんな、これからはしっかり私が管理せねば」
キャサリンの家に通う必要がなくなったのだから、そのための時間は取れるはず。ドワイトはそう考えていた。
「失礼いたします」
そこに、ヘンドリックが入ってくる。
ドワイトも、フレデリカが彼を重用していたことは知っている。
「おお、良いところに。君には期待しておるぞ」
「実は、今月限りでお暇をいただきたく思いまして」
ドワイトは、自らで管理するという考えが既に手遅れであるとは、露ほどにも考えていなかったのである。
キャサリンは、男爵家の令嬢、ただの愛人から正式な侯爵夫人となり、ただ、舞い上がっていた。
あれを変えてください、これをやってちょうだいと、気まぐれに使用人を動かしていた。彼女なりにフレデリカの残香を消そうと必死だったのかもしれない。
一般的に、貴族の夫人のあり方としてはそんな程度の者も多いのかもしれない。しかし、それはフレデリカの公明正大な管理監督に慣れた使用人たちには、大きな不満をもたらすこととなった。
そして、彼女はフレデリカがそうしていたと聞けば、領地に視察に出て、上回る成果を出そうと躍起になった。
「この林檎、秋しか収穫できないなら、冬や春にも収穫できるようにすれば良いじゃない」
その道の者であれば噴飯物の理屈を、平然と撒き散らす。
箱入り娘として育ち、ただ何をするでもなく愛人として囲われ、その上で侯爵夫人という立場を手に入れた。
それは彼女自身に「自らが無知である」ということを忘れさせるには十分すぎる人生だった。そうなってしまったのは彼女のせいではないかもしれない。しかし、今となっては彼女の問題だった。
「ま、まあ、それができたら嬉しいんですがね」
「そんな事もできないの?」
「……」
領民にしてみれば、領主様のご夫人だけに無下には扱えず、不満だけが溜まる日々であった。
一方、実家に戻ったフレデリカは、真っ先にここで新たに暮らせる民の数や使用人の数を確認した。
その確認無くして爆弾を破裂させるわけにはいかなかったからだ。
そして、使用人も、キャサリンがあれでは相当な数が見込まれたからだ。
フレデリカは、それらにある程度の目処が付くと、流通に組み込まれた商家に幾つかの依頼をした。
まず、ローズマイン領の流通の要所を占める馬車運営、一時貯蔵、仕分けと再出荷に関する手数料を「予定通り」増額した。
これら要所は全て伯爵家に近しい商家が牛耳っている。そして、最初から二年の間だけ初回契約特典として、特別料金とする契約だったのだ。
次に、目星をつけていた幾つかの貴族領から、梨を安く買いつけることにした。
ローズマイン領からの買い付けは、「高くつくので」止める。もちろん、ホールワード領産のものが対象だ。果実に関する流通販路については、伯爵領を中心とするならばローズマイン領から運ぶ必要がないからだ。
フレデリカはドワイトとキャサリンは愛さないが、ローズマイン領の使用人や領民は守るべき対象として愛してきた。だから、適正以上に締め付けるつもりはない。それでも侯爵家から流れ込む利益は、伯爵家には不相応なほどの額となる。
ひとまずはこれで良いでしょう。
これだけで、きっと勝手に瓦解しますわ。
フレデリカには、ある種の確信があった。
――だって、あそこには私も、ヘンドリックももういないんですもの。
ドワイトは、フレデリカを愛さないと言った。
愛さないということは、つまりはその相手からも愛を返されないということ。配慮も、遠慮も、献身もないということ。フレデリカにしてみれば、そんな相手を二年も家の中に入れてただで済むと思う気が知れなかった。
だから、その意味を問うたのだ。その意味を深く考えられなかった時点で、ドワイトの運命は決まっていた。
――せいぜい、愛の力で乗り越えてくださいませ。
*
「ドワイト様、運賃の改定でございます」
「こちらは、倉庫手数料の改定です」
「私たちも今月でお暇を頂こうかと」
「あ、私も」
ドワイトは、執務室であらゆる報告にパンクしていた。
「ええい、次から次へと! サインをするからそこに順に置いておけ!」
ただでさえ忙しいというのに、使用人が次々とやめていく。
あれほど順調だった領地の経営が、知らぬ間にみるみるうちに赤字に転落した。
きっとキャサリンがわがまま放題言っているからだろう。初めは侯爵家にきて嬉しいのだろうと放っておいたが、そろそろ言わなくてはならない。
「キャサリン! 遊んでばかりいないで手伝ってくれ!」
つい口調が荒くなる。
しかしキャサリンの姿が見当たらない。
「キャサリンはどこに行った?」
「街の市場へ視察に行くと」
まったく、男爵領に比べて珍しいものが多いのはわかるが、遊び歩いてばかり。
すると、外が騒がしい。
「もう我慢できねえ! 領主様! あの女、家に繋いでおいてくれ!」
「そうだそうだ! なんでぇ何にも知らねえくせに偉そうに!」
領民が大挙して押し寄せている。
「なんということだ……む、キャサリン! これは一体何事だ!」
領民に囲まれていない裏から、キャサリンが屋敷に入ってきた。
「私はただ、なんでホールワード産の梨を置かないのって言っただけよ!」
憮然としてそう答えるキャサリン。
「ホールワード産の梨なら、たくさん買い付けておったろう?」
傍にいたキャサリンの従者が言いにくそうに口を開く。
「旦那様、実は……高い割にうまくないから仕入れなくなったと言われ、実家の名産を馬鹿にするのかとキャサリン様が商店主を平手打ちにしまして……」
「な、まさか。そんなことで領民に手をあげたのか!」
「そんなことって、領主の妻の実家を馬鹿にしたのですよ! それなりの躾が必要でしょう!」
悪びれもせず、逆に声を高めるキャサリン。
「もう付き合ってらんない。私も今月で辞めさせてもらいますんで」
従者がそれだけ言って逃げるように姿を消す。
「どいつもこいつも馬鹿なことばかり! キャサリン! しばらく外出は禁止だ! お前も侯爵夫人なのだから、まず家の中を建て直せ!」
「なんですって! あの女がやっていた視察くらい私にだってできます!」
「それはフレデリカが優秀だったからできたのだ! まずは家の中をだな……」
「私があの女より馬鹿だって言うの!!!」
醜い罵り合いは、屋敷中に響き渡り続けたのだった。
*
フレデリカがのんびりと庭を散策していると、馬に乗った男が門から入ってきた。
男はフレデリカを見つけ、下馬する。
「フレデリカ様、只今参上いたしました」
「あら、ヘンドリック。早かったのね」
家令であったヘンドリックは、ローズマイン家を去り、フレデリカを頼ってきたのだ。
フレデリカは自身が去る前に、その強い意向を聞いていたのだった。
「私はフレデリカ様の従者でございますので」
「こちらはやることもなく散歩をしている、ただの出戻り女ですわ」
肩をすくめるフレデリカ。
「皆もじきに参ります。そうしたら大勢の家来を従えるご令嬢になってしまいますね」
「その時が来たら、また何か考えましょう」
そうは言うものの、フレデリカは「その時」がそう遠くない事は確信していた。
今は、いっときの休息の期間。侯爵家で白い結婚を迫られた時から、いや、他の女に目を向けている男と婚約した時から、決まっていた運命なのかもしれない。
「ヘンドリック、せっかくですから馬に乗せてくださらない? 我が領を見てまわりたいの」
「かしこまりました。領地視察でございますね」
ヘンドリックに馬の後ろに乗せてもらう。
「いいえ、ここは私の故郷ですのよ? 隅々まで知っております。これはただのデートです」
「は、はあ……」
フレデリカの言葉が本心なのか計りかねたヘンドリックは、半端な返事をしてしまう。
「まあ良いではありませんか。デートしながら、皆の受け入れについて考えましょう。伯爵領は侯爵領より随分狭いですからね、きちんと考えねば受け入れもできませんの。いいですね」
教師と生徒のような会話。毎日繰り返してきたヘンドリックとの会話だった。
「かしこまりました、ぜひご領地の方に私をご紹介ください」
「それもいいわね、さあ、参りましょう!」
フレデリカが、侯爵家ではなかなか見せなかった年相応の笑顔を見せる。
そんな顔もされるのですね。
ヘンドリックはフレデリカに悟られぬよう前を向いて僅かに微笑むと、馬を走らせたのだった。
お読みいただきありがとうございました。
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続きを書きました。よかったらお読みください。
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