7 真犯人 (榊)
春の午後だった。
縁側にはやわらかな陽が差し、庭の椿がひとつ、音もなく落ちた。
江戸川松露子は老眼鏡をかけ、膝の上に原稿の束を置いていた。紙の端は少し黄ばんでいて、何度も書き直した跡がある。若い頃なら勢いのまま終えられた話も、年を取るとそうはいかない。何を残し、何をぼかし、何をあえて物語の形へ寄せるのか。その見極めには、昔よりずっと時間がかかるようになっていた。
「ばあちゃん」
ちゃぶ台の向こうで寝転がっていた孫が起き上がる。孫の手には、松露子の膝の上にある原稿の前半部分があった。
「これ、本当にばあちゃんが関わった事件なんだよね?」
「そうよ」
「じゃあさ──」
孫は原稿に目を落としながら、首を傾げる。
「この時代に“見た目は子供、頭脳は──”って、おかしくない? あと“コスプレ”も。昭和三十年代でしょ?」
松露子は赤鉛筆を止めた。
「よく気づいたわね」
「いや気づくよ」
「それは後から書き直したの」
松露子は微笑んだ。
「昔の言葉のままだと、空気は伝えられても、今の人には伝わりにくいことがあるの。だから少しだけ、今の言葉に寄せた」
「ずる」
「作家なんて、少しずるいくらいで丁度いいのよ」
孫はふうん、と言いながら次の原稿をめくった。だが今度は、さっきよりも不思議そうな顔になる。
「じゃあ、これは?」
「どれ」
「“ファースト”」
その一言で、松露子の手が止まった。
「最初の探偵。急に現れて、急に消えた人。これも演出?」
庭の木が、風に吹かれふっと鳴った。
松露子はしばらく黙っていた。やがて、椿の影へ目を落としたまま、静かに言った。
「……半分は、そう」
「半分?」
「そう。半分」
紙の擦れる音と一緒に、何十年も前の古びた事務所が、松露子の中で静かに立ち上がってくる。
***
結局、五人の名探偵は、誰ひとり同じ答えを出さなかった。
──最初の青年は大岩貞子を疑った。
──次の男は、女たちの集団心中だと言った。
──大阪の未亡人は香代子を見た。
──派手な衣装の伯爵令嬢は、その焼き直しのようでいて、村ぐるみの不自然さを嗅ぎ取った。
──最後の老人だけが、毒を入れた“手”と、毒を使わせた“頭”は別ではないかと言った。
その場その場では皆、好き勝手を言っているように見えた。
だが最後の老人が帰ったあと、西園寺先生は机の上の資料を前に、珍しく長いこと黙っていた。
「……松露子ちゃんよ」
「はい」
「一番筋が通ってんのは、最後の爺さんだ」
「Ben・Colinさんですか」
「ああ」
先生は煙草を灰皿に強く押し付けた。
「少なくとも、あいつだけは“西山が犯人じゃねぇ”って話を、雰囲気じゃなく構造で見てやがる」
私は机に並んだ資料を見た。
ぶどう酒の到着時刻。貼り直された封緘紙。弱い歯形鑑定。
そして、西山悟の自白。
どれも決定打に見えて、どれもどこか脆かった。
「じゃあ、他の人たちは外れですか?」
「外れとまでは言わねぇ。だが、穴がある」
「どこがです?」
先生は指で机を軽く叩いた。
「最初の説は、貞子に機会があるってとこまでは悪くねぇ。時間のずれにも気づいてる。だが、“西山がなぜそこまでして貞子を庇うか”の説明が弱ぇ。血縁かもしれねぇ、で止まってる。そこが致命傷だ」
「……たしかに」
「暮井の説はもっと厄介だ。戦争の傷だの、女たちの絶望だの、雰囲気の筋はある。だが、いくら絶望があっても、封緘紙は勝手に剥がれて勝手に貼り直されたりしねぇ。人の手が必要だ」
私は少しだけ頷いた。
「波多野夫人の説は?」
「あの説は香代子の心をよく見ていた。香代子が毒へ手を伸ばしかねない“心理”を一番掴んでる。だが香代子一人じゃ、その後で時間を動かし、酒屋まで揃って証言を曲げた説明がつかねぇ」
「伯爵令嬢は……」
先生は露骨に嫌そうな顔をした。
「前の夫人の劣化版だ、と言いてぇところだが……一つだけ当ててやがる」
「村ぐるみ、ですか」
「ああ。あれは妙に鋭ぇ。理屈は雑だが、“一人の犯行”にしちゃ、村全体の口裏が揃いすぎてる。そこだけは核心に触ってる」
私は紙の上に、探偵たちの名前と、その推理の要点を書き出した。
・貞子。
・集団心中。
・香代子。
・村ぐるみ。
・実行者と操る者。
先生は最後の一行を指で叩いた。
「で、結局残るのはこれだ。毒を入れた手と、そのあとで話を作った頭は別だ」
「香代子さんが毒を入れた。でも、それを“西山一人の犯行”にしたのは別の誰か」
「そういうことだ」
そこから先は、先生と私で詰めていった。
香代子には動機がある。
松子への鬱屈。古い家の中で積もった感情。嫁姑。村のしきたり。時代から取り残される不安。
“殺すつもり”まではなくても、“少し痛い目を見せたい”くらいの愚かな衝動なら、十分にありうる。
だが、香代子一人では足りない。
酒屋と井坂が、あとから揃って時間を後ろへずらしたこと。
これを偶然の記憶違いで済ませるのは無理がある。
さらに、西山の自白は手段の細部と噛み合わず、妙に“誰かを庇う言い方”になっている。
「先生」
「なんだ」
「その人は、最初から全部を仕組んだんじゃなくても……起きたあとで、“使える”と思ったんじゃないでしょうか」
先生は目を細めた。
「続けろ」
「香代子さんが衝動で毒に手を出した。そこへその人が気づく。あるいは、最初に軽く吹き込んだのかもしれません。“これくらいなら大事にならない”って」
「で、死人が出た」
「はい」
「そいつぁ困る。だからそいつは、今度は話のほうを組み替える」
私は頷いた。
「酒が来た時間を後ろへずらせば、西山さんだけが触れたように見せられる。酒屋にも口を合わせさせれば、筋は通る──井坂さんならそれができる」
「井坂は組長家にも近ぇ。村の力関係も知ってる。後始末役としては一番向いてる野郎だな」
私は紙に、ゆっくり書いた。
毒を入れた者。
それを利用した者。
罪を被った者。
先生が低く唸った。
「西山が庇ったのは……香代子だけじゃねぇな」
「はい」
「井坂だけでもねぇ」
「はい」
先生は窓の外を見た。
「……あいつが守ろうとしたのは、“村”じゃねぇのかもしれねぇな」
「先生の予想は?」
「もっと個人的なもんだ」
私は息を止めた。
「千代さん、ですか」
先生は何も言わなかった。
だがその沈黙が、答えだった。
***
接見室の西山悟は、前よりもさらに痩せていた。
「私が殺しました」
その言葉も、もう何度目かわからなかった。
西園寺先生は机を指で叩いた。
「やめろ、その言い方は」
西山が、びくりと肩を震わせる。
「貞子を庇ってんのか」
沈黙。
「香代子か」
沈黙。
「井坂か」
その瞬間だけ、呼吸が乱れた。
先生は低い声で言った。
「だが、本当はそこじゃねぇな」
西山がゆっくり顔を上げる。
「……何の、ことです」
「おまえは誰か一人を守ってんじゃねぇ」
先生は一語ずつ噛むように言った。
「おまえが守ろうとしたのは、千代さんが愛したものだ」
西山の目が、大きく見開かれた。
私は、先生の隣で手の平を強く握った。
「千代さん……奥様はこの村を好きだったんですね」
西山の唇が、かすかに震えた。
「……妻は」
それだけ言って、言葉が詰まる。
しばらくして、やっと続きが零れた。
「妻は、この村の嫌なところも、苦しいところも、全部知っていました。けれど……それでも、ここで生きていこうとしていた。ここで笑おうとしていた」
西山は顔を伏せた。
「私は、妻ほど、この村を好きにはなれなかった。けど……妻が、千代が好きだった場所だったんです」
先生は黙って聞いていた。
「香代子さんを出せば、大岩の家が壊れる。井坂さんを出せば、村の男たちまで巻き込まれる。全部を明るみにすれば、この村はもう、“妻が愛した村”ではいられなくなる」
「だからおまえが被った、と」
西山は力なく笑った。
「人が死んでいるのに……なにより、妻が死んでるのにおかしいですよね。そんなこと」
「おかしくねぇよ」
先生の声は低かった。
「人間が何かを守ろうとする理由なんざ、たいてい筋が悪い。だからって、犯人じゃねぇ人間が犯人として死ぬ理由にはならねぇ」
西山は先生を見た。
「……でも、先生」
「綺麗には片づかねぇ。誰も傷つかずにも済まねぇ。だが、“最愛の人が愛した村”を守りたいからって、おまえが嘘の罪を背負うのは違う」
先生は、ぐっと身を乗り出した。
「奥さんが愛したのは、嘘で人を埋める村か?そもそも、お前が罪を被って死ぬことか?」
その一言で、西山の顔が崩れた。
両手で顔を覆って、声もなく泣いた。
その肩の震えを見て、私は初めて、この人が欲しかったのは許しではなく、“千代さんの見ていた村を最後まで汚したくない”という、たったそれだけの願いだったのだと知った。
裁判では、真犯人を一人に断定することはできなかった。
香代子が毒に手を出した可能性は高い。だが、それだけでは説明のつかないことが残る。
井坂が証言操作に関わった疑いも濃い。だが、直接の物証は決定打に欠ける。
それでよかったのだと思う。
なぜなら、この事件の本質は、誰か一人を綺麗に“真犯人”に切り分けた瞬間に、逆に見えなくなるものだったから。
西園寺先生は法廷で、そこを徹底して崩した。
西山単独犯説は脆い。自白は不自然だ。
時間証言は作られている。
そして西山悟は、真相を語らないことで誰かを庇っている人間ではあっても、少なくとも“自分一人で実行した犯人”ではない。
その一点を、通した。
無罪判決が出た日、先生は事務所へ戻るなり椅子へどさりと座った。
「……腹減った」
「第一声がそれですか」
「派手な名勝負じゃねぇからな。腹ぐらい減る」
「でも先生」
「なんだ」
「負け弁、じゃなくなりましたよ」
先生は一瞬だけ黙り、それから煙草に火をつけた。
「うるせぇ」
けれど、口の端だけは少し上がっていた。
***
それから何十年も経って、私はこの話を書くことにした。
実名のままでは残せない部分を変えた。
その時代のままでは今の読者に届かない言葉を、少しだけ今の語彙に寄せた。
だから私は、昭和三十年代の自分に、まだ存在しなかったはずのアニメの決め台詞を言わせてもいる。
伯爵令嬢にも、“コスプレ”なんて便利な言葉を与えた。
あれが一番、今の読者にその人物の滑稽さと華やかさを伝えられると思ったからだ。
でも。
最初の探偵だけは、少し違う。
私は最初の推理を立てた人に“ファースト”という名前をつけた。
最初に推理をしたから。ただ、それだけの意味で。
けれど原稿を読み返すたび、私はつい笑ってしまう。“ファースト”の推理は、他の誰よりも未熟だった。
時間のずれへの違和感。
貞子の存在の重さ。
西山が“ただの犯人”ではないという、最初の引っかかり。
先生はあの推理──いや、独り言を聞いていた時、口元だけが笑っていた。
それは、孫の成長を見て喜ぶ私のように。
あの時の私は、まだ若くて、先生の横で必死にメモを取るだけの助手だった。
違和感はあっても、それを推理として形にするだけの言葉も、自信もなかった。
でも確かに、私は最初に引っかかっていた。
何かがおかしいと、ずっと思っていた。
だから後年、このお話を書くときに。私は、その“まだ探偵ですらはなかった自分の独り言”へ、椅子を一つ与えたのだ。
事務所の来客用の椅子に。
紅茶の湯気の向こう側に。
西園寺先生と向かい合う場所に。
そうして生まれたのが、最初の探偵だった。
その時、玄関の呼び鈴が鳴った。
孫が顔を上げる。
「お客さん?」
「ええ。たぶん、編集さんよ」
松露子はそう言って、膝の上の原稿をそっと揃えた。
孫が立ち上がって廊下をぱたぱたと駆けていく。やがて、玄関先で交わされる簡単な挨拶が、障子越しにかすかに聞こえた。
ほどなくして、居間に通された若い編集者が、どこか緊張した面持ちで頭を下げる。
「失礼いたします。江戸川先生、原稿を頂きに参りました」
「どうぞ。ちょうど最後まで見直したところです」
編集者は、ちゃぶ台の前にきちんと座り直した。
その様子を見ながら、孫が松露子のそばへ戻ってくる。
「これが『五人の名探偵』の最終話ですか」
ちゃぶ台を挟んで、編集者が尋ねる。
松露子は微笑んだ。
「ええ」
「犯人は、結局誰なんです?」
松露子は少しだけ考え、それから静かに言った。
「毒を入れた手は、一つだったのかもしれません。けれど、人を死なせたのは、それだけじゃないの」
「……と、言いますと?」
「弱さと、見栄と、鬱屈と、因習と、沈黙。そういうものが少しずつ重なって、人を殺すことがあるのよ」
編集者は黙った。
松露子は原稿の一番上を、指先でそっと撫でた。
「だからこの話は、“誰が犯人だったか”だけの話じゃないの」
「では、何の話で?」
松露子は、はっきりと言った。
「誰を犯人にしてはいけないか、という話です」
庭で、また椿がひとつ落ちた。
その音を聞きながら、孫がふと原稿の束を見下ろして言った。
「本当は最初から最後まで、ばあちゃんも探偵の一人だったんじゃないの」
春の光が、紙の端に淡く滲んだ。
松露子は、その光の上にそっと手を置いて、静かに笑った。
「探偵なんかじゃないわ。当時の私は……弁護士の端くれで、西園寺先生の助手だもの」
西園寺先生と過ごした、遠い昔の日々。
嬉しかったことも、辛かったことも、今もまだ不思議なほど鮮明だった。
その記憶を、ひとつひとつ掬い上げるようにして綴った原稿を、松露子は静かに編集者へ手渡した。
了
夢茫の中の人
Aju
榊
クレイジーエンジニア
かわかみれい
しいな ここみ
かぐつち・マナぱ(かぐつち・くまナぱ(便乗期間限定w))
Ajuの後書き(感想)
すごい! すごいです! 榊さん、すごいです。Ajuは感動に打ち震えております!!
榊さん、お疲れ様でした。
そして参加してくださったみなさん、お疲れ様でした。
ありがとうございました!




