二話
窓の外に広がる異界の景色。そして存在しない筈の少女。
二つの非現実は紛れもない現実として祐也の眼前に現れた。
「夢……じゃ、ない……?」
彼の呟きに少女は答えない。口を噤み、祐也を見つめる彼女は、ただ凛とそこに咲いているだけだ。
外の異形が発した声が、沈黙した室内に木霊する。
呆然自失となった祐也は力なく視線を落とす。敷かれた布団と散乱している座卓の見慣れた光景が、寝起きの口の中の苦みが、冷たい部屋の空気が——それらのリアルな感覚が今は現実味を薄めている。
「そう。これは夢じゃありません」
唐突に聞こえた声は祐也の問いに遅れて答えた。
穏やかで柔らかく、するりと心に溶け込むような安心感を覚える声。
声の主は少女ではない。しかし、少女の方を見やった祐也は気付く。その深紅の瞳が初めて自分以外を捉えているという事を。
彼が恐る恐る振り返ると——そこに彼女は居た。
新緑を思わせる鮮やかな緑の髪。同じ色をした瞳は泉のように澄んでいると同時に、深い森のような静けさを宿している。纏う衣は見慣れぬ意匠でありながら、神秘的な雰囲気に包まれていた。
優しい微笑みを湛える彼女は、まるで人の形を成した春風のようだ。
少女との一番の違いは、彼女の姿は祐也の記憶に一切の手掛かりが無いということ。
「……誰?」
零れたのは純粋な疑問。
度重なる異常事態に憔悴しきった彼には驚く気力すら残っていなかった。
女性は微笑みを保ったまま静かに答える。
「私は命の造物主。この世界の命を司る者」
「造物主……神様……?」
祐也の言葉に女性は頷く。
今となっては荒唐無稽な彼女の言葉も真実だと頷けてしまう。
彼女は外の景色へ目を移す。
「現在、世界はその姿を大きく変えてしまいました。決して、あってはならない事です。私はこの世界を『在るべき姿』に戻したい。そして、そうする為にはあなたの協力が必要なのです」
「俺が……?」
どうして自分が、と祐也は当惑する。
ただの一般人に何が出来るというのか。頼るにしても軍や首脳など力のある人達が適任じゃないのか。
そうした祐也の疑問を見透かしたように彼女は口を開いた。
「あなた以外の人類はもういません。世界が変異した際に皆死に絶えました」
「……は?」
慈愛に満ちた命の神は淡々と、穏やかな表情を変えずに人類の滅亡を告げた。
「いや、そんなの……信じられるかよ……俺は生きてるじゃないか! なら他の奴だって——」
「あなたが生きているのは彼女が守ってくれたからです」
命の神は少女へと視線を送る。祐也が思わず目をやると、少女は僅かに首を傾げた。それに合わせて白いワンピースの裾がふわりと揺れ、流れた銀の髪が輝く。
あの小さな存在が世界の滅亡から救ってくれた?
祐也に実感はない。そもそも滅亡した事実すら受け入れられないのだ。
「外に出れば否応なしに受け入れられるでしょう。ですが——私としてはあなたが事実を否定し続けようと関係の無い話です。私の目的は変わりません」
表情や声色こそ変わらない。しかし、彼女の言葉にはどこか祐也に対する憐憫が、そして神としての傲慢さが垣間見えた。
祐也はこの状況が紛れもない現実であると既に気が付いている。それでも、自分がたった一人の人類である事実を上手く飲み込むことが出来ない。
穏やかな彼女の背後に広がる異形の森。元々は住宅街だったのだ。
枝葉の上に散らばる瓦礫は起きた事象の凄惨さを物語っている。
似たような出来事が世界中で起きたとすれば、人類が滅んだのも妥当と言えるだろう。
徐に祐也は心臓を押さえた。
非情な現実が、想像してしまった死んだ者達の体験した恐怖が、彼の精神を揺さぶり蝕む。同時に締め付けられる心臓の苦痛が生きている実感となり安堵を齎した。
「——協力って……俺は何をしたら……?」
彼女の言葉を信じるのなら、協力さえすれば世界を元に戻すことが出来る。
しがない一般人が救世主になれるのだ。
祐也は生来、高尚な心の持ち主ではない。それでも、追い詰められれば行動に移せるのは、やはり人の性なのだろう。
徐に命の神は祐也に手を翳す。その瞬間、彼の頭に情報が溢れた。流れ込む濁流はじわじわと脳に染み込んでいく。
「物質、幻獣、魂魄――」
脳を直接圧迫されているような感覚と、目まぐるしく通過していく未知の知識に眩暈を覚え、祐也はその場に膝を着いた。
——物質、幻獣、魂魄。それは世界を象る三界。
物質界で魂に定着した『記憶』を魂魄界で抜き取り、物質界へと還す。抜き取られた記憶は世界を保つ力に変換され、余剰分は幻獣界の造物主によって幻獣の形へと成る。
それは世界の真の姿と輪廻転生の仕組み。
眩暈の収まった祐也はゆっくりと立ち上がる。
彼の脳を焼いた未知は、この僅かな時間で既知となった。
この先予想されるであろう祐也の質問を回避するため、彼女は粗い手段を用いたのだ。
その事実を知る由もない彼は、ただ困惑した様子で頭を押さえている。
「私は他の造物主たちと話をしなければなりません。その間、行方を晦ました幻獣界の造物主を探して欲しいのです。彼はこの世界の何処かに居る筈です」
「この世界の何処かって……」
祐也は呟き、外の異形たちへと目を向ける。
仮に異形たちが温厚だったとしても、インフラの消失した現状で、ただの一般人が地球全土からたった一人を探すことなど出来る筈がない。
だが、命の神は問題ないと祐也を宥める。
「あなたには彼女が付いています。彼女が居る限り、あなたの安全は保障されている。それと、私からもこれを」
そう言って彼女は手を差し出した。その掌には、小さく透き通った翡翠色の玉が乗っている。
「これは、あなたが外で活動するために不可欠なものです。これが体内にある限り食事や呼吸の必要もなく、怪我や病に怯える事もありません。彼女が如何に強大でも、人間であるあなたには外の世界は過酷ですから」
祐也は一歩、後退った。それは本能からくる無意識の警戒。
しかし、彼女には寸分の揺らぎもなく、ただ優しく、ただ静かにそこに居る。
祐也はそっと玉を受け取る。
掌に微かに触れた指先から、仄かな温かさが感じられた。
慈愛に満ちた表情の中に何処か冷淡さを纏っていても、失われた命を想うのは紛れもない本心だと伝わってくる。
祐也が玉を取った瞬間、銀の少女はほんの僅かに目を細めた。だが、その変化に気付く者はいない。
祐也が翡翠色の玉を眺めている間、命の神は銀の少女へ視線を送る。
一瞬、少女の睫毛が揺れ、唇が微かに動いた。声は聞こえない。
ふと彼が視線を挙げると、二人は先程までと変わらない様子でその場に居る。
祐也は降って湧いた疑惑に眉を顰めた。
——今、喋ってた?
「では、あとは任せましたよ」
祐也の疑問を搔き消すかのように告げ、命の神は姿を消した。




