ある高校生たちの日常
「鳥」の家は不完全だ。羽多野子鳥は物心ついた頃から、何度もそう耳にしてきた。確かにそうだ、と彼は思う。この広い世界には、動物の名前とその気質を持つ人間たちが生きている。銀狼の末裔や白虎の末裔、海に生きる魚の一族まで、多種多様な「一族」が存在する中で、羽多野は最も小さく、最も地味な「小鳥の一族」に生まれた。その身体はひどく華奢で、ちょっとした風邪もこじらせがちだった。
小鳥の一族は、高貴で力強い「鳳の一族」と対を成す存在だ。鳳の一族は、その名の通り、優れた資質を持つ者が多く、社会の中心で輝く。一方で、平凡の域を出ることが少ない小鳥の一族は、他の一族からは敬遠されがちだった。「鳳の金魚の糞」「みそっかす」。そんな言葉が、子鳥の小さな耳に届くこともあった。彼はそのたびに、胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じた。
それでも、鳳の一族は小鳥の一族を殊更に大事にする。彼らの前では、誰も子鳥を貶めるような言葉を口にできない。鳥の一族の言葉に、「小鳥なくして鳳なし」という古くからの言い伝えがある。子鳥はその意味を理解できなかったが、鳳と小鳥は必ず対の家族となり、子供を産み増やすのが慣例だと聞かされていた。小さくて男の子である子鳥にとって、それは少しばかり重い言葉だった。
しかし、子鳥の両親は少し珍しかった。通常、鳳の一族と番となることが多い小鳥の一族の中にあって、彼の両親は稀にみる小鳥の一族同士の夫婦だったのだ。だから、子鳥は生まれるべくして生まれた、「小鳥」としての血を濃く受け継ぐ、小鳥界のサラブレッドとも言える存在だった。その事実は、本家の一部の人間だけが知る秘密だったが、子鳥自身は知る由もなかった。それでも、彼の周りには、その重さを感じさせない光があった。彼を包み込むように護ってくれる、鳳の一族の幼馴染たちだ。彼らは子鳥の特別な出生を知らずとも、その小さな体と、どこか惹きつける不思議な魅力に、幼い頃から抗えずにいたのだ。
春の陽だまりに包まれて
春の訪れとともに、子鳥は中学に上がったばかりだった。真新しい制服は彼の小さな体には少しだけ大きく、それがまた彼の頼りなさを際立たせていた。明るい日差しが差し込む教室で、彼は幼馴染たちと共に過ごしていた。子鳥の小さな体を挟むようにして、鷹取扇、尾鷲怜、嶌誠の三人が元気に話し込んでいる。まるで子鳥を護る壁のように、彼らは常に子鳥の傍にいた。
放課後、下駄箱の前で扇が興奮気味に声を上げた。
「駅前にマックできたろ?あそこ行こーぜ!」
扇は子鳥含め4人のリーダー的存在。明るく愛嬌があり、誰からも好かれる人気者だ。サッカー部のユニフォーム姿が似合う、ツーブロックの端正な顔立ち。彼が話すと、自然と周りに人が集まってくる。その元気な声に、子鳥の体がびくりと揺れる。人混みや大きな音は、彼にとって少なからず負担になるのだ。
「えー、俺モスバーガーが良いんだけど」
いつも眠たげな怜が、のんびりとした口調で反論する。怜は退廃的な雰囲気を持つ美術系の美男子で、肩につかないくらいの髪をたまに結んでいる。何にも興味なさそうな顔をしているが、そこがまたいいと周囲からは思われている。怜はあまり表情を変えないが、子鳥の小さな異変にはすぐに気づく。彼の視線が、一瞬子鳥の顔に固定されたのを、子鳥は感じ取った。
「おい、勝手に決めるなよ」
誠が呆れたように声を上げ、三人が他愛ない言い合いを始める。誠は子鳥の隣の家に住む幼馴染で、顔も文系イケメンの好青年だ。どこからどう見てもいい子だが、幼馴染の中では一番子鳥の心を理解していると自負している。子鳥は彼らのやり取りをぼんやりと見つめながら、心の中では早く静かな家に帰りたいと願っていた。しかし、その気持ちをうまく言い出せない。三人は寄り道する気満々なのに、子鳥は身体が弱く、幼馴染たち以外とはあまり関わってこなかったため、人との距離感が未だに掴めずにいた。
「ぼ、僕は…三人が行きたいところでいい…よ?」
か細い声で子鳥が言うと、ぴくりと彼らの動きが止まる。誠が心配そうに子鳥の顔を覗き込んだ。その目は、子鳥の小さな表情の変化も見逃さない。
「子鳥?気を遣わなくていいんだよ?帰りたいなら俺が送るし」
誠の優しい言葉に、子鳥はほうと一つ息を吐き、へらりと笑った。誠はいつも、子鳥の心の声を聞き取ってくれる。
「ううん。無理してない…ありがと、誠」
その言葉を聞いて、扇がぱっと子鳥の小さな手を、自分より一回りも二回りも大きな掌で包み込んだ。扇は可愛さ余ってスキンシップが多い。太陽のような、一点の曇りもない笑顔を向けられると、子鳥は何も言えなくなってしまう。扇の熱が、子鳥の小さな体にしみるように伝わってくる。
「よし!じゃあドトールにしようぜ!子鳥、あそこのミルクレープ好きだろ?」
誠がまだ心配そうに見つめる中、扇の押しに負けて、子鳥は頷くしかなかった。直情的で、子鳥を大切にしたいという気持ちが強い扇は、一度こうと決めると譲らない。子鳥は彼の腕に引かれるまま、駅へと向かう人波の中へと入っていった。
駅から少し離れたところにあるドトールに着くと、扇と誠は慣れた様子で注文をしに行った。子鳥は怜と共に、少し広めのボックスシートに腰を下ろす。店内は平日の夕方で、賑やかな話し声で満ちていた。子鳥は落ち着かない様子で、怜の制服の袖をそっと掴んだ。怜は何も言わないが、その手をぎゅっと握り返してくれた。
「怜…ごめん。僕のせいでカフェになっちゃって…」
子鳥が小さく呟くと、怜は眠たげな目をゆっくりと瞬かせ、子鳥の頭をポンポンと軽く撫でた。彼の大きな手が、子鳥の小さな頭を優しく包む。
「何言ってんの、ちーちゃん。俺たちはちーちゃんの幸せのためにいるんだから」
優しい、けれどまっすぐな言葉に、子鳥の頬がじんわりと赤く染まる。怜の大きな手が、子鳥の頭に心地よい重みを与えていた。
そうこうしているうちに、扇と誠が四人分の飲み物とケーキを持って戻ってきた。
「怜は抹茶ラテな。子鳥はアイスティーにミルクレープだぞ」
扇が子鳥の前にミルクレープを差し出す。子鳥はもくもくと食べ始め、他の三人は飲み物に口をつけた。
「子鳥、抹茶ラテ一口飲む?」
怜が自分の抹茶ラテを差し出す。いらない、とは言えない子鳥は、小さく一口抹茶ラテを飲んだ。ほろ苦い抹茶の風味が口に広がり、少しむせる。
「あー!ずりぃぞ怜!俺も子鳥に一口あげたい!」
扇が悔しそうに叫ぶ。彼が頼んだのはブラックコーヒーだ。子鳥がそれを飲めないことを知っているから、扇はいつも自分だけ子鳥と飲み物をシェアできないのを悔しがっていた。子鳥が控えめにフルフルと首を振ると、誠がバカにしたように鼻で笑った。
「怜は子鳥も飲めるように抹茶ラテ頼んでるの知らないのか?」
「くそー!俺も次からはカフェラテにする!」
扇が口を尖らせる。子鳥は、こんなところを他の女子に見られたらどう思われるだろう、なんて思いながら、くちくなってきたお腹を摩った。店内の奥から、ちらりとこちらを見る視線を感じる。きっと、鳳の御三家が小鳥を囲んでいるのが珍しいのだろう。でも、幼馴染たちはそんな視線には全く気づかない、あるいは気づかないふりをしているようだった。
「僕って変なのかな?」と両親の木漏れ日
学校側の配慮なのか、幼馴染と子鳥は同じクラスになることが多い。今年は誠と怜が子鳥と同じクラスだった。お昼休みになると、扇がお昼を持って子鳥のクラスまでやってくる。子鳥が席を立つと、扇がすかさず子鳥の小さな手を握り、彼の周りを他の生徒から守るようにしてカフェテリアへ向かう。他の生徒の囁き声が聞こえる。「また小鳥のやつ、鳳の奴らに囲まれてるよ」子鳥は俯いて、扇の手をぎゅっと握りしめた。
四人はいつもの定位置に着いた。窓際の、少し奥まった場所。そこは彼らにとっての、小さな聖域だった。
「子鳥、今日はなんか楽しいことあった?」
扇が尋ねる。扇と怜は鳳の本家の息子なので、立派なお屋敷に住んでいる。一方、誠は分家で、子鳥の家のお隣さんだ。三人とは同時に顔合わせをしたが、特に誠とは物心ついた頃からずっと一緒にいるような気がする。
幼馴染たちに囲まれている時は、安心感に包まれる。けれど、ふとした瞬間に不安がよぎることがあった。
「ねえ、誠。僕ってやっぱり変…なのかな?」
子鳥は不安を抱えたまま、そっと問いかける。その声は、いつも以上に小さかった。誠は読んでいた本から顔を上げ、子鳥をまじまじと見つめた。その眼差しは、子鳥の心の奥底を見透かすような、深く優しい色をしていた。怜は静かにフォークを止め、扇もいつもの陽気な表情を少し曇らせて子鳥を見つめる。
「どうしたの?子鳥。誰かに何か言われた?」
心配そうに聞く誠の問いに、子鳥は首を振り、唇を噛んだ。何かを言われたわけではない。ただ、周りの生徒たちの視線や、時折耳にする「小鳥のくせに」という小さな囁きが、彼の心を少しずつ削っていくのだ。
「僕、時々…他の小鳥の一族の子たちとも違うって、父さんと母さんを見てて思うんだ」
子鳥はぽつりと呟いた。彼の両親は、共に小鳥の一族出身だ。珍しい組み合わせだと、大人たちが話していたのを幼い頃に耳にしたことがある。他の小鳥の一族の子どもたちは、鳳の一族の血を引いていることがほとんどで、それが子鳥の密かな不安の原因でもあった。
誠は立ち上がると、そっと子鳥の隣に座り、頭を撫でてくれた。その手つきは、まるで壊れ物を扱うように優しく、子鳥の不安を吸い取っていくようだった。扇は子鳥の肩に手を置き、怜も静かに頷く。
「子鳥は何も変じゃないよ。むしろ、俺たちの方が変なんだよ」
優しく、けれどきっぱりと言い切る誠の言葉に、子鳥の瞳から大粒の涙が溢れそうになる。彼はたまらず、誠の体にしがみついた。誠の制服から、森のような落ち着く匂いがふわりと香る。その匂いに包まれ、子鳥は安心しきって目を閉じた。
次に目を開けると、そこは誠の部屋のベッドだった。自分は誠に抱えられたまま、深い眠りに落ちていたらしい。どうしてこうも、すぐに眠ってしまうのだろう。子鳥は少し恥ずかしくなり、身じろぎをする。
「あ、起きた?無理させちゃったね」
誠が子鳥の髪を撫でながら、優しく微笑んだ。その顔には、子鳥を心配する色が滲んでいる。
「今日は疲れてたんだよ、きっと。子鳥は頑張り屋さんだから」
誠は子鳥を抱き起こし、水を差し出してくれた。子鳥は少しだけ、自分の身体の弱さが幼馴染に負担をかけているのではないかと、申し訳なく感じた。けれど、誠の優しい眼差しに、その不安はすぐに溶けていった。誠は子鳥にとって、何でも話せる、一番の理解者なのだ。
夏の日の記憶と口づけ
夏休みに入り、子鳥は一週間早く鳳の本家に行くことになった。滞在先は扇の部屋だ。今日も日差しが良く差し込む部屋で、子鳥は扇の大きな布団に包まれてお昼寝をしていた。薄いカーテン越しに入る光は、最高の寝心地を提供してくれる。しかし、彼の体はまだ、慣れない環境に緊張しているようだった。
しばらくすると、障子の向こうから、そっと人の気配がした。静かに開かれた扉の先に立っていたのは、鳳本家の当主、扇の祖父だった。強面で、普段はめったに笑わない厳格な人物だ。いつもきちんとした着物を纏っている。その祖父が、足音を立てないようにゆっくりと部屋に入ってきた。
彼の視線は真っ直ぐに、布団で眠る子鳥へと向けられる。普段の厳しい表情はどこへやら、その顔には深い慈しみが浮かんでいた。祖父は子鳥の傍にそっと膝をつくと、優しく子鳥の額に触れた。熱がないことを確認するように。
「…よく眠っているな、子鳥」 低い声が、だが、ひどく甘く響く。
「もう少し、ゆっくりしておくといい。お前は、ここにいるだけで満たされる存在なのだから…」
祖父は子鳥の乱れた前髪をそっと整え、再び静かに立ち上がった。その背中は、子鳥を守るかのように、いつもより大きく見えた。彼は部屋を後にする際、ちらりと振り向き、眠る子鳥を目に焼き付けるように見た。彼が子鳥を一週間早く本家に呼んだのは、ただ純粋に、子鳥に会いたかったからに他ならなかった。
頭に違和感を覚え、薄っすら目を開けると、ひどく優しい顔をした扇が目の前にいた。まるで、子鳥が目覚めるのをずっと待っていたかのように、じっと子鳥の寝顔を見つめていた。
「お、起きた。眠かったら寝てていいぞ、ちーちゃん」
扇は優しく声をかけてくる。子鳥はまだ夢と現実の狭間にいて、状況がよく掴めない。
「おうぎ…?なんでここ…?」 混乱しながら尋ねると、扇は楽しそうに笑った。 「ああ、じーさんが子鳥の様子見て来いってさ。あと1時間で夕食だしな」 扇はそう言って、子鳥の頬をそっと撫でた。扇の手は大きく、子鳥の頬をすっぽりと覆うほどだ。その手が、子鳥の小さな体をまるで宝物のように扱っているのが伝わってくる。
「おうぎも寝る…?」
子鳥が問いかけると、扇の耳が少し紅くなった。そして、照れたような笑顔を浮かべながら、子鳥の横に潜り込んだ。扇の温かい体が子鳥の背中に密着し、包み込むように抱きしめられる。ふわりと、彼らしい太陽のような匂いが子鳥を包んだ。
「なあ、子鳥…俺たちが小さい時、かくれんぼしたときのこと覚えてるか?」
扇が懐かしそうに語り始めた。
「俺と子鳥が納屋に隠れてたらさ、じーさんが鍵かけちゃって、真っ暗でさ…子鳥が怖がって泣きだしてさ」
扇の声は、子守唄のように子鳥の耳に心地よく響く。あの時の扇は、まだ小さかったのに、子鳥を必死に守ろうと抱きしめてくれたことを思い出す。しかし、子鳥の意識はすでに夢の中へと落ちていた。
「って、寝たのかよ。相変わらず、かーわいい寝顔だよなあ…」
扇は微笑みながら、子鳥の額にそっと口づけた。柔らかな唇が触れるか触れないかの、限りなく優しいキス。子鳥は気づかないまま、穏やかな寝息を立てている。扇もまた、その愛おしい寝顔を胸に抱きながら、静かに眠りについた。
音楽が奏でる絆
次の日、扇がサッカー部の合宿で一日不在になったため、子鳥は怜の部屋で過ごすことになった。怜の趣味は音楽だ。子鳥は、彼の部屋の隅に置かれた大きなグランドピアノに目を向けた。怜の部屋は、どこか静かで、子鳥の心も落ち着く。
「ねえ、子鳥。俺、この曲弾きたいな」
怜がそう言って、一枚の楽譜を差し出す。それは連弾の楽譜で、ゆったりとした優しい旋律の曲だった。怜はいつもそっけないが、子鳥と関わる時だけは、その態度が少し柔らかくなる。
「いいよ」
子鳥は頷き、怜の隣に座った。怜の指が鍵盤の上を滑り、優しい音色が部屋に響く。子鳥もそれに合わせて、たどたどしいながらも音を紡ぎ出した。怜は子鳥の指が少しもたつくと、そっと手を重ねて、正しい場所へ導いてくれる。その大きな手から、温かい熱が子鳥の指に伝わる。
「俺、子鳥のおかげで音楽好きになったんだよね」
ふいに怜が呟いた言葉に、子鳥は驚いて彼の顔を見た。いつも眠たげな怜の瞳が、今は優しく輝いている。少し照れた表情が、彼の顔に浮かんでいた。子鳥は、怜がここまで自分に心を許していることに、胸がいっぱいになった。怜は、子鳥の奏でる音色の中に、彼だけが持つ純粋な煌めきを感じ取っていた。まるで、彼自身が最高の芸術作品であるかのように。
「子鳥と曲弾いてるとさ、すっごく癒されるというか、楽しかったんだよね。それに、息ぴったりじゃん?」
怜が屈託なく笑う顔を、子鳥は一生忘れないだろうと思った。学校ではあまり話さない怜だが、幼馴染と、特に子鳥の前では素直に自分を表現する。怜は、子鳥と少しでもたくさん過ごせるように陰で努力している。例えば、子鳥が休憩時間に図書室にいると、さりげなく自分も美術書を借りに来るフリをして隣に座る、といった具合に。扇が子鳥に抱き着いたり、誠が子鳥を連れ出したりするのを見ると、怜はわずかに眉をひそめるが、それを表に出すことはない。その代わりに、子鳥の好きな楽譜を探したり、次に会う約束を自分から持ちかけたりする。怜が奏でる音が、子鳥の心に温かいひだまりを作ってくれる。彼らはただ音楽を奏でるだけでなく、心と心を重ねていた。
サッカー部の人気者と小さな特等席
夏休み後半、本家での滞在も終わりが近づいた頃、扇がサッカークラブの練習試合に子鳥を誘った。
「ちーちゃん!今度の土曜、俺の試合見に来いよ!絶対勝つから!」
扇は目をキラキラさせながら、子鳥の頭をくしゃくしゃに撫で回した。子鳥は彼の勢いに圧倒されながらも、その大きな手から伝わる温かさに、くすぐったいような心地よさを感じていた。
試合当日、グラウンドには多くの観客が集まっていた。ほとんどが扇のファン、特に小動物系のDNAを持つ女子たちが、「扇くーん!」と黄色い声を上げている。扇はそんな声援に笑顔で応えながらも、ちらりと子鳥の姿を探していた。子鳥はグラウンドの隅、日陰になる場所で、誠と怜に挟まれるように座っていた。誠が日傘を差し、怜が子鳥のために凍らせたペットボトルを差し出す。彼らは子鳥が人混みで疲れないよう、常に気配りを欠かさない。
試合が始まると、扇はピッチを縦横無尽に駆け回った。ツーブロックの髪が風になびき、その端正な顔立ちから汗が滴る。相手選手を軽々と抜き去り、力強いシュートを決めるたびに、観客席からはひときわ大きな歓声が上がった。子鳥は、そんな扇の姿をまぶしそうに見つめていた。普段の無邪気な扇とは違う、真剣な表情。その力強さに、思わず見惚れてしまう。
ハーフタイムになり、扇は休憩もそこそこに、一直線に子鳥たちの元へ駆け寄ってきた。
「ちーちゃん!どうだった!?俺のシュート!」
息を切らし、汗を光らせながら、扇は子鳥の前にしゃがみ込む。その顔には、子鳥からの評価を求める、どこか子どものような期待が宿っていた。
「う、うん…!すごい…かっこよかった、扇…!」
子鳥が褒めると、扇は最高の笑顔を弾けさせた。周囲の女子たちが「扇くん、かっこいい!」と騒いでいるのにも気づかないほど、扇の目は子鳥にだけ向けられている。扇は子鳥の小さな手を両手で包み込み、その柔らかさに顔をうずめるようにする。
「ありがとう、ちーちゃん!ちーちゃんが見てくれてるから、俺、頑張れるんだ!」
その直情的な言葉に、子鳥の頬はまた赤く染まった。誠はそんな扇の様子を苦笑しながら見つめ、怜は静かに扇の飲みかけのボトルに手を伸ばし、それを子鳥に飲ませようとする扇から奪い取る。
誠の優しさと、秘められた繋がり
夏休みが終わり、再び学校が始まった。子鳥は夏休み中に少し体力を消耗したようで、午後の授業では机に突っ伏して眠ってしまうことが増えていた。周りの生徒が気づかない、子鳥のほんのわずかな変化を、誠は誰よりも早く察知する。今日も、子鳥が数学の教科書に顔を埋めたまま、小さく寝息を立てている。誠はそっと自分のノートを子鳥の顔の横に立てかけ、彼の寝顔が教師から見えないようにした。
放課後、誠は子鳥と共にゆっくりと家路を辿っていた。扇はサッカー部の練習へ、怜は美術部の活動へと向かい、今は二人きりだ。子鳥は少し元気がないように見えた。
「子鳥、何か考えてる?」
誠が問いかけると、子鳥は俯いたまま、小さな声で話し始めた。
「…僕ね、夏休みに父さんと母さんに言われたんだ。『子鳥はすごく珍しい子だ』って。小鳥族同士の子供は、あまりいないからって。だから僕、やっぱり変なのかなって…」
子鳥の言葉に、誠の表情が微かに硬くなる。子鳥の出自については、鳳の一族のごく一部の人間、つまり本家の中でもごく限られた大人たちだけが知る、深い秘密のはずだ。両親も話したというが、子鳥がその重みを理解しないまま、その漠然とした不安を抱えていることに、誠は胸を痛めた。自分が彼を守り、この不安から遠ざけてやりたいと、強く思う。
誠は子鳥の肩にそっと手を置いた。子鳥はその温かさに促されるように、顔を上げる。誠の瞳は、子鳥の不安を丸ごと包み込むかのように、深く、優しい。
「子鳥が珍しいのは…そうかもしれない。でも、それは子鳥が変だっていう意味じゃない。むしろ、特別だってことだ。俺たちが、子鳥に惹かれる理由の一つなのかもな」
「…誠も、僕のそういうところ、知ってたの…?」
子鳥の瞳が、不安げに揺れる。誠は首を横に振る。
「…いや、俺も詳しくは知らない。知るはずもないし。でもな、子鳥。俺たちは子鳥が子鳥であるってだけで、子鳥が好きなんだ。それは、何があっても変わらない。扇も、怜も、きっと同じだ」
誠は普段見せない真剣な眼差しで子鳥を見つめる。その言葉の力強さに、子鳥の胸の奥に灯りがともるのを感じた。
子鳥は誠の言葉に安堵し、たまらず彼に抱きついた。誠の腕が優しく子鳥を抱きしめ返す。その時、誠の心の中では、扇や怜が知らない子鳥の深い悩みに触れられたことへの、わずかな優越感が生まれた。けれどそれと同時に、それでもやはり彼らも子鳥にとって大切な存在であることへの、複雑な感情が渦巻く。子鳥を守れるのは、自分だけではない。いや、だからこそ、自分が一番の理解者として、子鳥の隣にいるのだと、誠は再認識する。
夕食時、羽多野家のリビングには柔らかな陽光が差し込んでいた。子鳥はソファで本を読みながら、ふと顔を上げた。キッチンからは、両親の穏やかな会話と、夕食の準備をする楽しそうな音が聞こえてくる。
「子鳥、今日もお疲れ様。学校、楽しかったかい?」
「うん…みんなと、いたから、楽しかったよ」
食卓につくと、温かい料理が並ぶ。両鳥の一族らしい、彩り豊かで優しい味付けの料理だ。
母が子鳥の髪をそっと撫でた。「そう、よかったわね。子鳥は昔から、本当に不思議な魅力がある子だったわ。みんな、子鳥が大好きで。特にあの三人はね」
子鳥は少し恥ずかしそうに俯く。「え…そうかな?僕、おどおどしてるし、身体も弱いのに…」 父が優しく笑った。「そんなことはないさ。お前は私たちにとって、何にも代えがたい大切な宝物だ。そして、お前は…私たち二人から、純粋な小鳥の血をこんなにも濃く受け継いでいる」 母が頷き、父の言葉を継いだ。「そうよ。この羽多野の家で、私たちと同じ血筋をこんなにも濃く受け継いだ子は、今までいなかったもの。だからこそ、あなたは特別なのよ」
子鳥はぼんやりと両親の顔を見つめる。「…そうなんだ。珍しいって、聞いたことあるけど…」
両親は互いに顔を見合わせ、優しい笑顔を交わす。子鳥はその言葉の奥に隠された意味をまだ理解しきれないが、両親の深い愛情だけはひしひしと感じていた。彼らの言葉はいつも、子鳥の心を温かい光で満たしてくれるのだ。
子鳥の周りには、いつも彼を護り、愛してくれる幼馴染たちがいる。彼らは子鳥にとっての「鳳」であり、子鳥は彼らにとってかけがえのない「小鳥」なのだ。「小鳥なくして鳳なし」という言葉の意味を、子鳥はまだはっきりと理解はできない。けれど、幼馴染たちの温かい愛情に包まれるたびに、彼らと自分の間には、誰にも壊せない特別な繋がりがあるのだと感じていた。彼らが子鳥を守り続ける理由は、いつか明かされるだろう、彼自身もまだ知らない、小鳥としての純粋な血が、鳳の一族の彼らを引き寄せてやまないのだ。