選ぶカードがもたらす結果
要するに、二枚目のカードは、あまりにも理解されない。
「正義」あるいは「事実」とは、無限大の孤独を必然としているのだ。
それを、「思想を持って生きる」と言うこともできるかもしれないし、一種の哲学者として生きる生き方だと言ってみてもいいかもしれない。
とにかく、権力に寄り添いお金を崇拝する人生観とは根本的に異質な視点が、そこにある。
人間の人生には、かくまで極端に異なる二枚のカードしか、配られていないのだ。
そこから一枚を選べとは、明らかに無理難題だ。滅茶苦茶な話だ。
でも、選ぶしかない。そして、二枚目を選ぶしかない。
二枚目のカードを選ぶということは、一枚目のカードを床に叩きつけるということだ。
それは、利よりも義を選択することによる結果を、受け入れるという覚悟でもある。
ちなみに、2001年に起こったアメリカ同時多発テロ事件を実行した「ハリド・シェイク・モハメド」というクウェート人は、グァンタナモ米軍基地に収監されて183回のウォーターボーディングを受けたという。なお、ウォーターボーディングは、死に十分に等しいだけの苦痛をもたらす拷問方法として知られている。
2996人もの死者を出したテロ事件を肯定するわけではないし、中東でイラクやアフガニスタンやリビアやシリアといった国々を破壊しつくした米国の覇権に疑義を唱えるわけではないが、権力に抗った者に注がれる苦しみが時として無限大に等しいということを例証する一例ではあるだろう。
つまりは、正義を選択するということは、公正世界仮説のニュアンスとは甚だしく乖離している。
そうであっても、真実を目撃する知性は決して、一枚目のカードを選び取ることを許さないのである。
人間の社会は、このように非常に行き詰まっている。
多くの人達は、メインストリームの情報のゆがみを十分に認識することができないし、そもそも動物的な公正世界仮説の外側に抜け出ることができない。
そこにおいて、人々を真に愛する者は、人々から嘲笑を受ける。限りない孤独のなかで、限りない痛みを味わう。
しかし、人間という種のなかで賢く生まれた人達には、知性という力のぶんだけ、責任が伴っている。それは、人から責められる意味での責任ではなく、自ら自覚する意味での責任だ。
日本でも、太平洋戦争の末期には、多くの若者が特攻隊として命を散らしていったという。
その多くは、必ずしも立場を選ぶ自由がなかったかもしれない。やむにやまれぬ必然の成り行きで、死んでいく以外になかったのかもしれない。
同様に、人類の危機の時代に生まれた才能ある子供達は、生まれつき一種の特攻隊員のようなものだ。祖国を守るために痛みを引き受けることを、運命づけられているという意味でだ。
そこにおいて、多くの愚痴をつぶやくことも自然だろう。しかし、愚痴をつぶやきつつ任務をまっとうすることも自然なことだろう。
「権力」と「正義」というカードを与えられて、「正義」のカードを選びうる精神の自由が与えられていることは、人間という動物の無限大の美しさを証明している。
利を前にして義を選び取った行動や思考の一つ一つは、神の奇跡にまさって価値あるまさに奇跡だ。
人類の歴史のなかにはそんな奇跡が無数にあるし、現代の庶民生活の細部にだってそれは常にある。
私達はそれを、「希望」と呼ぶ。
君がどちらのカードを選ぶかを私は推奨しようとしないし、推奨すべきだとは考えていない。
しかし同時に、二枚目を決して選ぶなと勧めても、二枚目を選ぶ者は必ず選ぶことになるとも知っている。
この世界のすべては、とても自然で必然的だ。私達人間は宇宙のなかであまりにも小さいし、私達に見える範囲もまた狭い。
言ってしまえば、すべてはなるようにしかならない。自身が死刑囚だとしても、処刑される日を待って今日を過ごすしかない。
人類幸福がやがて破滅に収束するとしても、私達の本能には、戦いつづけることをやめる自由など存在していない。
それは諦念なのだが、努力しつづける諦念だとも言えるだろう。
そこには一種の絶望があるわけだが、その絶望には、義の限りない美徳を味わう快楽も伴っているのだから、絶望を不幸だと断じきることも結局できない。
世界は、不正義と欺瞞によって覆われている。
日本と日本人についても、かつて広島がそうされたように、ある日風向きが変わって大量虐殺が完全に正当化されないとも限らない。
そして、メインストリームが行うホロコーストは、良いホロコーストであって、永遠に裁かれることもないし、糾弾されることがない。
しかし、広島がそうされるような戦いを挑んで日本は単に「失った」のだろうか? あるいはむしろ、かけがえのない価値を「得た」のか?
一人の人生にも常に二枚のカードが配られているが、人間の集団にも常に二枚のカードが配られている。
権力に与するだけが人間ではない。
そして日本人なら、権力に与するだけが人間ではないのだと、誇り高く謳う資格がその血統に与えられているのだ。