技術的なディストピア
人類の歴史が何らかの意味で「進歩」だったというニュアンスは、基本的にはまやかしだ。
テクノロジーは、生得的に進歩する。
隣村が石斧を作った時、私達は石斧を作らなければ仕方がなかったし、剣ができた時だって、矢が生まれた時だって、銃や爆弾や飛行機だって、そうだった。男の子がテクノロジーを「かっこいい」と感じるのは、テクノロジーこそが力そのものだからだ。
それについて、「私達が私達の幸福を増加するためにテクノロジーを進歩させてきた」だなんて言明は、滑稽じゃないかな? だって、私達には他に選択肢なんてなかったんだから。
殺されるくらいなら殺すほうがマシだと思ったから私達は山ほど殺してきたし、今生きている人間は全員そんな血筋の生き残りだ。これは少しダークな言い方だけど、よほど事実でしょう?
そして現代では、戦いの基盤が軍事であることは決して変わらないものの、戦いの大半は経済的な現象に形を変えた。
例えば、家庭を持ちたい人々が経済的な貧しさのせいで家庭を持てなかったら、生まれてこなかった子供達の命は、経済的に恵まれた人々の手によって殺されたのと同義。でもそこまでダークなことは普通、言われない。現代の闘争は、かつてよりもずっと間接的に、ずっと「クリーン」に行われるようになった。
昔だったら、石斧を手に持って互いにリスクを負わざるをえなかったところを、税金を通して軍隊にお金を払ってドローンで地球の裏側の人々を爆殺し、その悲鳴を聞かなくていいほど、戦いは「クリーン」になった。あるいは、「ダーティー」になった、と言ったほうが事実に適っているような気がするけど、「偽善」って、そもそもそういうものだよね?
そして、歴史的な社会思想や政治システムの変遷についても、教科書では「進歩」のニュアンスで教えられているけど、事実としては必然だ。
例えば、(1776年頃に起きた)アメリカ独立革命や(1789年頃に起きた)フランス革命などの歴史的な「市民革命」は、近代史上における一つの画期だ。
「民主主義」の実現によって世の中は良くなった、ってのが、歴史教科書や現代思想のニュアンスだよね? でも逆に見れば、民主主義で権力を制御しなければ成り立たないほど、テクノロジーによる力の分布の格差が深まってきた、とも言える。するとそれは、歴史的な性質の変化であって、「良くなった」とただちに言い切る論理的な根拠は消滅してしまう。
あるいは、イギリスではじまった産業革命による資本主義的な市場の秩序が、既存の規制を次々に解除して世界的に波及していく過程として、それら「市民革命」を見ることも可能だ。すると、正義が悪に勝ったのか悪が正義に勝ったのかすら、もはや不明になる。
資本主義の勝者達の自己正当化のために、現代人が歴史を眺める視点がゆがめられてしまっていると疑うこともできる。
そうやって見てくると、現代世界に流通するメインストリームの情報が、実は政治的にひどくゆがんでいたり、インターネットやSNSが実は強烈に検閲されていたりしても、かえって自然だよね?
かつては幸福に向かって進歩してきた人類の歴史が、一転、ディストピアまがいの状況に転落したり、かつては大いにまともだった超大国米国が、一転、不正義の親玉のようになったかのような世界の見方は、現実的ではない。
テクノロジーが一方向的に進歩していくことは、人間には実は選択肢のない必然であり、テクノロジーが進歩するほど実質的な力の分布に格差が増大することもまた必然。そして、力が自らの利益追求のために流通する情報を制御することもまた、必然。
例えばイスラエルがガザ地区で何万もの市民を殺害しても、隣国であるレバノンやシリアで何千ものポケベルを爆発させても、国際社会はそれをテロとして非難し、被害を止めるための実効的な措置を取ることができない。その一因としては、米国政治におけるイスラエルロビーの影響力の強さがある。まるで、イスラエルによる虐殺は良い虐殺で、イスラエルによるテロは良いテロだというくらいに、メインストリームの情報による世界の記述は公正を欠いている。
でもそれは、逆に言えば、それだけのことをされても弱者の側からはどうといった報復ができないほど、大きなパワーバランスの差がすでにあるということ。強者の側には、メインストリームのマスメディアを通じて世界の世論を十分に制御する力がすでにあるということ。
したがって、弱者に対する一方的な大量殺戮が人類社会で増加していくことは、むしろ自然なことだと考えることができるし、敵対勢力に流通している兵器ではないデバイスに爆薬などを仕込むことによって兵器に転用し、技術的弱者を恐怖によって支配する方法もまた、今後増加していく自然な戦術だと考えることができる。
テクノロジーの進歩とディストピアの実現とは、あまりにも相性がいいんだよね。