11 ◆ウォーカー公爵夫人サイド◆
完結となります。
我が息子ジョシュアは5歳のある日、庭のブランコから落ちた。
もちろん大慌てで医師に見せたが、擦り傷程度しかなかったにも関わらず──息子はそこから1ヶ月泣き続けた。
最初こそ大泣きしていたが、数日経てば泣き喚くでもなく、ハラハラと泣くのだ。幼児が。
どこか痛いのか、大丈夫かと何度も聞くが、明確な説明は返って来ず「いなくなった」とか「違う」とか「ごめん」とかばかりを言う。
1ヶ月の間に何人もの医師に見せたが、結局異常は見当たらなかった。
心配で仕方なく、離れて寝てなどいられず。
付きっきりであやし抱きしめ寝かしつけた。
それでもジョシュアは夜中に飛び起きて、また泣く。
泣きながら「ごめん」と言うから「大丈夫よ……大丈夫」と繰り返し、背中をさする。
「大好きよ、私のかわいい子……大丈夫」そうあやしているうちに、夫もやってきて三人で一緒に寝るようになった。どうやら一人で寂しかったらしい。
「ここに天使がいるぞっ!? 美しい女神と……とんでもなくかわいい天使だ! 誰だ!?
あっ、俺の妻と息子だな!?」
下手な小芝居をしながら、私と息子をまとめて膝に乗せ、ぎゅうぎゅうと抱きしめる。昔からオーバー気味な人だが、今はそれがありがたい。
そんな小芝居をする夫をジョシュアは大きな瞳でキョトンと見上げ、そのうちスゥっと眠りに落ちる。
そんな日々を繰り返し、少しずつ泣く回数も減り、ひと月後にようやく落ち着きを取り戻した息子。
元々表情豊かではなく静かなタイプではあったが、たまにはにかむ笑顔は天使のようだった。
──それが、キリッとしだした。
まだ5歳だ。かわいい盛りのはず。
かわいがりたいのに妙にしっかりしてしまい、喜ばしいやら切ないやら。
赤子の頃は何か成長する前にぐずったりと言うことがあったが、5歳にして1ヶ月のぐずりを見せた後……成長しすぎではなかろうか。
そんな息子は、どんどん真面目な堅物となっていった。
何かに取り憑かれたように勉学に励む。
ついでにいつも冷静で表情をあまり動かさない。
親の前ではこんなものかもしれないなと思ったが、どこでもこのままらしかった。
言われたことは言ったこと以上にやり成果を出す。
そもそも、嫌とすらほとんど言わない。
そんな彼が唯一絶対に嫌がったことがある。
──それが、婚約である。
公爵家の跡取りとして必須の、婚約・結婚を絶対に受け入れようとしなかった。
無理矢理婚約を結ぼうとすれば家を出ると言ったし……
実際に10歳のころ書き置きを残し家出をした。
なかなか見つからず、大騒ぎになった。
ようやく探し出した時には……
──下町の宿屋で住み込みの下働きをしていた。
周りに小さな子供が群がり、息子は器用に芋を剥きながら、合間に子供の相手をしてあげている。
完全に周囲に紛れ込んでいたため、こっそりと見に行った私は目が点。
「ほら、こんなに石高く積めたよ!」
「俺の方が高いもん!」
「やるじゃないか。じゃあ今度は……こんなの出来るか?」
「……えぇっ!? 石が立ってる!? なんでそれで積み上がるの!?」
「くっついてる? にーちゃん、石くっつけた!?」
「重心を見つけるんだ。色々やってたらそのうち出来る」
ジョシュアが……子供と遊んであげている。
大笑いするわけではないが、ほんの少し口角が上がっている。
公爵家で育った生粋の貴族なのに。
顔だって美しいとしか言いようがないのに。
わざとススをつけているのか銀色の髪をくすませ、髪を全部前に下ろすことで顔を隠し、その高貴なオーラを消している。
……完全に平民に馴染んでいたのだ。
これはこちらが折れない限り、もう帰ってこない気がする。
ようやく面と向かって会いに行くと、真相を知らなかった宿屋の主人は真っ青になり……倒れた。
公爵家の嫡男を下働きとして働かせていたのだから、そうなる気持ちは分かる。
どうやら通りがかりの宿屋の子供になぜか懐かれ、帰るところがないと言ったジョシュアを「とーちゃん!このにーちゃん、泊めてやってくれ!」と自分の家(宿屋)に連れて帰ったという。
働かせてくれと宿屋の主人に頼んだのはジョシュアだ。
この国の平民は10歳ごろから働き出す子が多いし、何か事情があるのだろうとすんなり受け入れてくれたようだ。
平民のものだが衣食住をちゃんと与えてくれて、酷い扱いも受けておらず、無事にジョシュアが生きていたのは、この宿屋の主人のおかげだろう。
あとからだが、しっかりとお礼はさせてもらった。
ジョシュアは言った。
一見淡々としているように見えるが、その目の奥は……辛そうに何かを堪えていた。
「──公爵家嫡男としての責任を果たせず申し訳ありませんが…… 絶対に結婚はしません。婚約者も作りません。それだけは、どうしても出来ません。
騒がせてしまって、本当に申し訳ありません。勘当されても仕方ありませんが、他のことでお役に立てることがあればなんでもしたいと……」
「……分かった。お前が自分からそうしたいと言い出すまで、もう絶対に言わない。だから──戻りなさい」
大人びていると言われようと、愛しい我が子はまだ10歳。
その子が静かに悲痛な叫びをあげ、見えない涙を流しながら頭を下げていることくらい分かる。
今までまったくわがままを言わなかった息子がここまで頑なに拒否するならば、受け入れてあげたい。
周りにはきっと甘い判断だと言われるかもしれない。貴族として、公爵家としての責任を果たせと言われるのは分かっている。だが、それで揺らぐような我が家ではない。
夫は、大きくなればまた考えが変わることもあるだろうと、その問題は寝かせておくことにした。
なんといっても能力に関しては、ジョシュアは超一級。
身内贔屓を抜きにしても、身体能力に優れた上に記憶力も頭の回転も非常に良い。
大人顔負けの議論をするし、語学と数字にめっぽう強く、すでに歴史と剣術・マナー以外の教師は全員ことごとく身を引いた。
一を言えば十どころか百ぐらいを理解し、サラサラとこなす。
なにごとも淡々とこなすのが親としては少し心配だ。
下町でのあの日以来一層勉学に励むようになったが……下町での芋の皮むきが、一番楽しそうに見えたのは気のせいであってほしい。
でも、あの家出のあとから、ジョシュアは笑うようになった。
……ニヒルな笑みとでも言うのだろうか。
口角が少しだけ上がるようになった。まぁよしとしよう。
◇
交流目的のためだけに通っていた学院時代。
彼が始めた事業はことごとく成功し、国を巻き込む一大産業に発展した。
諸外国との販路の拡大、早々に目をつけた広大な薬草園を買い取り医薬品事業を興したり、原料を見つけそれを加工し高値で売るということをいろんな分野で……守備範囲が広すぎて、何をしているのかもう分からない。
利益追求かと思いきや、医薬品に関しては完全に採算を無視してでも平民に行き渡るようにしていった。
一時期、平民のところで過ごしていたからだろうか?
あまりに淡々と物事をこなすので、息子が人生を楽しんでいるのか、本気で分からない。
学院を卒業してからは、外交を担当する第二王子の側近という立場はあるが、別行動も多い我が息子。
相変わらず絶対に結婚は拒否する、25歳。
多分、人に興味がないのではないか。
パーティーなどで見かける息子は、いつも無表情。
息子から令嬢に声をかけるなんてあり得ないし、基本的にパーティでは動かない。石像のようだ。
令嬢から声をかけられれば、無表情からさらにワントーン落として……嫌そうとまではギリギリ言えない、かろうじて礼儀が保てているレベルの表情で素っ気なく返答しているものだから、頑張って声をかけた令嬢は半泣きだし、その子は他の令嬢に勇者と呼ばれているのが聞こえた。
息子は悪魔かなにかなのだろうか。
……ごめんなさいね、本当に。
ふと「魔王」という声が聞こえてきた。……悪魔より酷かった。
ひとまず息子に公爵家を継がせて、そのあとは親族から養子でも取ろうかと話していた矢先に。
「プロウライト伯爵家のアメリア嬢に求婚します。今すぐに。押印願います」
──耳を疑った。
夜会から帰ってきた息子はもう寝る寸前だった私たちを叩き起こし、なんと求婚するという!
あんなに結婚はしないと言い張ったのに!?
夫と顔を見合わせ、これを逃してはなるものかと即座に許可を与え、プロウライト伯爵家へ早馬を走らせた。
失礼だが、もう結婚できる身分の人で跡取りが出来そうなら誰でもいい。
それくらい我が家は切羽詰まっている!
他に子供がいればまだ良かったが、残念ながら私たちはジョシュア一人しか恵まれなかった。
プロウライト伯爵夫妻はもちろん知っている。
明るく朗らかな伯爵と可愛らしい夫人。堅実な領地経営により安定した収入を常に得ているし、信頼できる。
ここ最近は一風変わったイベントをいくつか開催し、大きな収益をあげていると聞く。
なぜ息子がそこの娘に求婚ということになったのかはわからないが、きっと夜会でお互い恋に落ちたのだろう。
待ちに待っていた瞬間に、私たち夫婦は大喜びした。
逃してはなるまいと、早々に我が屋敷に招き入れ囲い入れる判断をした……のは、息子だ。
こちらとしてはまったく構わないし、願ってもないことだが、息子自ら自分の部屋の隣に部屋を用意し、壁紙から家具からすべて超特急で手配していたのには目を丸くした。
変われば変わるものだな、愛は人をここまで変えるのかと夫婦で喜んだ。
初めて会ったアメリアさんはかなりの美少女だったし、18歳になったばかりだという。
金色の髪に大きな瞳。たしかに非常に可愛いのに凛とした印象を持ち、どこか大人びて見える。
こういうのがタイプだったか。
そしてなにより私たちを絶句させたのが……
────ジョシュアが笑っている!?
ニヒルな笑いじゃなくて!?
アメリアさんを見つめながら、それはそれは嬉しそうに。
一瞬「誰?」と思ったが、息子のようだ。
アメリアさんを出迎えに出ていた使用人たちが、ことごとく「ジョシュア様が……っ」と見てはいけないものでも見たようにガクガクと青ざめ震えていたのは……こういうことか。
この一週間で笑顔の猛特訓でもしたのだろうか。
息子にそんな表情筋はなかったはずなのに。
そして驚いたことに、満面の笑みでアメリアさんの食事の世話をする……という名目で、邪魔をしている。
何度も思った。
この息子っぽいのは、他の人に入れ替わったのか?と。
だがアメリアさん以外に接するときは、スンと表情が戻り、あ、息子だとようやく分かる。
この目が信じられない。
彼女の皿を取り上げステーキを切り分けるそのさまは、まるで親。
しかも真横。
腕が上げられないだろう、その距離では。
そんな息子にアメリアさんも目がハートで……なんてことは一切なく、どちらかというと目が死んでいる。
そして確実にこちらに助けを求めている。
わたしたちは「ごめんなさい……アメリアさん!」と心で謝罪し……その訴えはスルーすることに決めた。
もう誰なのか分からないほどキャラが変わっているその男だが、どうやらそれは本物のうちの息子だ。
──ならば、このチャンスに水を差すわけにはいかない!
ここで息子にストップをかけてしまうと、もしかしたら結婚の意思すらなくなってしまうかもしれない。
最悪、また家出される。
息子は多分どこでも生きていける。
それは一番避けたい。
そして私たち夫婦は、気付きたくないことに気づいてしまっている。
──アメリアさん……
息子に惚れてないのでは……? と。
お互い恋に落ちたかと思ったのに、落ちたっぽいのは息子だけという事実。
逃げられては困る。本当に困る。
◇
そのうち日を重ねるごとに息子の行為はどんどんエスカレートし、しまいにはアメリアさんを膝に乗せ食べさせ始めた。
その顔はもうデレデレで、心底アメリアさんに惚れているのは誰が見ても確かだろう。
あんなの息子じゃない、と一瞬考えてしまうが、いや、夫は私に求婚する時や新婚の時はまぁ似たような感じだった。あそこまでひどくはないが。
つまりこれこそがウォーカー公爵家本来の姿! ということにしておきたい。
対するアメリアさんはというと、何度も抵抗しようとしてはジョシュアに捕まり、最近は……なんというのかしら。
──虚無?
生贄……いえ、人身御供……違う。
なんというか、そんな立場に彼女を置いて申し訳なさでたまらない私たち。
それでも唯一の救いは、息子を見る彼女がふと見せる、柔らかい眼差し。
眩しいような、慈しむような。
仕方がないなと微笑むその顔には、明らかに愛情があるように思えるようになった。
……アメリアさん、もしかしてツンデレ?
そうであって欲しいという、私たちのただの希望的観測だろうか?
そんな彼女も、また優秀な人だった。
学院を飛び級して卒業したという知識も考え方も面白く、プロウライト伯爵の領地でここ最近行われていたイベントはアメリアさんのアイデアだったという。
息子の前ではスンとなりがちな表情(たまに口元が緩んでいるのは見逃さない)も、私とお茶をするときはいつも優雅に可愛らしく微笑む。
姿勢も作法も美しく、公爵家を取り仕切っていく女主人として、なんら支障はなさそうだ。
家族が揃う食事時間には、作法がどうとか見る機会もないのだけどね。ジョシュアが食べさせてるから。
状況に応じて見せる姿をうまいこと変えることができ、社交活動にも全く問題はなさそう。
アメリアさんには感謝しかない。
しかも、すごく可愛い。天使。妖精。
ただ……息子の話題を振られると困る。
今のあれが標準仕様なのかと言われれば、「違う」と答えざるを得ないし、なら注意してくれと言われて窘めた結果、息子が冷めてしまっても困る。
ということで、屋敷全体でアメリアさんに息子の話はタブーとなっている。
しかも、アメリアさんが息子を見る目がどんどん優しくなっているのに私は気付いている。
というか、隠せなくなっているというべきか。
嬉しいことこの上ない。
◆◆
アメリアさんが公爵家に来てひと月ほどしたころ、彼女は拐われてしまった。
主犯格のロナルド・ルドワールはもちろん、ルドワール伯爵家自体取り潰しに。貴族は連座制なのだから、その家の者がどうなったのかは言うまでもない。
関与した者はもちろん処罰を受け、止めることの出来なかった公爵家の護衛や屋敷の者たちにも謹慎や減俸など、それなりの処罰を与えることとなった。
──そしてその事件の日から、二人の関係は劇的に変わった。
今までやられっぱなしで死んだ表情をすることが多かったアメリアさんが無理矢理フォークを奪い取り、ザクっと刺したお肉を……ジョシュアの口の前に!?
それも、可愛らしい子猫がいたずらしているようなニマニマした顔で。
「ジョシュア様。はい、どうぞ」
もちろん息子の膝の上のこと。
今までいつも固まっていたのはアメリアさんだったのに、今度は息子が固まり、その後カァッと赤くなった。
……釣られて私たちまで赤くなった。
こちらが恥ずかしくなる。
あの二人は……
一体何をやっているのか。
でもすでにジョシュアの奇行について一切不問とした以上、アメリアさんの行為も認めざるを得ない。
ついでに言えば、アメリアさんが非っっ常に!
かわいい!
……何そのいたずらっ子みたいな顔! 可愛いっ!
うちの子になってください!
……もうすぐなるんだわ。
絶対にこれからパーティーに連れ回す。奥様たちに自慢する。
今度、小悪魔っぽいドレスを作らせるから着てほしい。そして息子をこれからも翻弄したら良いと思う。
その日以降、やり返された息子は少し落ち着きを取り戻したのか、晩餐の場でアメリアさんを膝に乗せるのをやめ、カトラリーを奪い取るのもやめた。
自分が彼女にしてきた立場を経験し非常に恥ずかしかったようで、これはアメリアさんの完全勝利。
だが、部屋の中でお茶をするときなどは、相変わらず膝に乗せてますよとメイドが微笑ましく語っていた。
たまに出勤前の息子が後ろからアメリアさんに抱きつき、アメリアさんの耳に齧り付いている。
……一体何をしているのだろう。
それをされたアメリアさんは、ちょっとワタワタして戸惑いつつも、仕方がないなとばかりにヘニャっと笑い、息子に「帰ってからですよ」と伝える。
──全然意味がわからないけれど。
二人共とても幸せそうで。
『絶対に結婚はしません。婚約者も作りません。
──公爵家嫡男としての責任を果たせず申し訳ありませんが……それだけはどうしても出来ません』
十五年前のあの日、苦しい気持ちを押し殺すようにジョシュアが言った、あの言葉が思い起こされる。
……そうか。
この子はアメリアさん以外、ダメだったのだ。
ずっと彼女を待っていたのかもしれない。
すべての感情を息子に与えてくれる存在に。
あの言葉をあっさりと覆すことが出来る存在に。
──そんな人に息子が出会えたことを……
ただただ感謝したいと思う。