64.プルー
翌日早朝に出発したわたし達は、まだ朝早い時間に港に到着した。
それでも漁に出ていた船が帰ってきている時間だ。
わたし達は船長に注意事項を聞いているところだ。
この船長ポールはわたしの父世代ということもあり、幼い頃からの顔見知りである。
「まず、一番大切なのは、大きな声を出さないことだ」
こんがりと日に焼けたポールは逞しい身体をしている。
プルーを思う方向へ動かすには、そこそこの筋力が必要らしい。腕がパンパンである。パワー!とか叫んでほしいくらいの素晴らしさである。
「静かにしていればいいのね?」
「いや、普通に話す分には構わない。あと、男性の声ならば多少大きくても大丈夫だが、女性の叫び声など高く大きな音をプルーは怖がる。多少揺れるかもしれないが、慌てずにいて欲しい」
「なるほど。……ルネ、大丈夫そう?」
一番心配なルネに声を掛けてみたが、余裕そうに微笑んでいた。プルーの姿はもう見えているので、予想よりも大丈夫だったのかもしれない。
「エマも大丈夫よね?」
「はい」
「わたしも気を付けるわ。ポール、他には?」
「そうだなあ。乗る時が一番揺れると思う。お嬢様方の靴は……いいな。でも濡れているところは滑りやすくなってるから気をつけてくれ」
「分かったわ」
「それと、スピードに乗るまでは突然大きく揺れることもある。柵から身を乗り出さないように。お嬢様のような小さな子は吹っ飛んじゃうぜ」
「もう! ポールったら、わたしはもう小さな子じゃないわ」
わたしが不貞腐れたように言うと、ポールはガハハハッと大きく笑った。
「俺らにとってはいつまでも小さなお嬢様なんだよ。さ、出発だ」
ベイカーさんを始め、領地にいるこの世代の人達はみんなこんな調子である。
娘のように思ってくれているのは有り難いが、いつまでも子ども扱いが抜けない。嬉しいけど照れくさいものだ。
間近で見るプルーは、めちゃくちゃ気持ち悪かった。何たって超でかい青いタコなのである。
馬のシュヴァールといい、熊のプーゲといい、このタコのプルーといい、よく見知った生き物の大きさがバグっているのには未だ慣れない。
板を通しただけの渡し板は頼りないが、トントンと軽やかにポールが乗り込んでいく。
そして次にアンリも同じように軽やかな動きで乗り込み、途中で振り返ってわたしに手を差し出してくれた。その手をしっかりと掴みながら、ゆっくりと乗り込む。
船に乗ってしまえば、そんなに揺れは感じない。
わたしの次にエマが乗り込む、その時だった。
渡し板の上に居たエマの身体が、ぐらりと揺れた。
一連の動きがまるでスローモーションのように見えた。
「きゃあっ」と小さな悲鳴を上げたエマの目が見開き、ゆっくりと身体が傾いていく。
「エマ!!」
思わず声を上げて手を伸ばしたが、もちろん間に合うはずもない。
ゆっくりと海面に落ちていくように見えた視界の中、何か白いものが横切った。
バッシャーンと音がしたのはその直後だ。目の前には板ごと落ちたのか何もない空間があった。
「エマ! いやあっ!!」
「ジュリエット様、落ち着いてください!」
取り乱すわたしを後ろからアンリが抱きかかえてくる。それを振りほどくように前を進もうとするのだが、女性とはいえ騎士の力に敵うはずもない。
「エマが! エマ!」
「お嬢様! 声を落として! プルーが暴れちまう」
「落ち着いて! 副隊長が掴んでますから大丈夫です!」
ポールとアンリの言葉にハッと我に返った。
下を見れば、確かにエマを小脇に抱えたダミアンが船にくっついたままの渡し板を掴んでいた。
「ジュリエット様、大丈夫ですね?」
覗き込んできたアンリと目が合い、震えた身体で涙目ながらしっかりと頷く。
「ええ。二人をお願い」
「はっ」
「ポールも手伝って」
「もちろんです。おい、おめぇらも手伝え!」
それからは素早い連携で、あっという間にエマが船へ持ち上げられた。びしょ濡れだが無事である。
そして身軽になったダミアンは、ひょいっと自分で船に乗り込んだ。
「エマ! 良かった……」
冷えた身体をぎゅうっと抱きしめた。
「ダミアンも。本当にありがとう」
全身ずぶ濡れで、水も滴るいい男を体現しているダミアンにも声を掛ける。ダミアンもホッとしたように微笑んで頷いてくれた。
「着替えが必要ね。一旦岸へ戻ろうかしら」
振り向いてポールの方を見ると、さっきまでそこに居たはずなのにポールの姿がなかった。
ふと気付けば、船は港からかなり離れてしまっている。港には慌てた様子のマチアスやセルジュ、ルネの姿が見えた。何かを叫んでいるようだが聞こえない。
「え? どういうこと?」
驚きすぎて素の声が出てしまった。
そしてその途端、ぐいっと身体が引っ張られ、エマごと倒れこんでしまったところをアンリが受け止めてくれた。
「ジュリエット様、掴まっていてください」
耳元でアンリの鋭い声がした。
ずぶ濡れのままのダミアンも一瞬で表情を硬くし、「見てきます」と足早に操作室の方へ駆けていく。
その間にも船はどんどんスピードを上げていき、あっという間に港が小さくなってしまった。
スピードに乗ると揺れは収まってきた。
そしてダミアンが戻ってきて、最悪の言葉を告げてきた。
「プルーが暴走しているようです」
「……わたしのせいね。止める方法は?」
「プルーを仕留めれば止まりますが、このまま海上で取り残されることになります。ポールはこのまま走らせ、クレッシェの方向へ向かうように調整しているそうです」
「……そう」
(わたしが取り乱してしまったから……落ちたエマは大声を出さなかったのに)
自分が迂闊すぎて嫌になる。唇をぎゅっと噛み締め、手を強く握り締め、後悔と情けなさを受け止めた。
「ジュリエット様のせいではありません。わたくしが足を滑らせてしまったのが原因です」
「エマは落ち着いていたわ。わたしが取り乱して大声を出したからよ。今はポールが上手くやってくれることを祈るしかないわ」
いくら目視できる距離とはいえ、何もないこんな海上で遭難してしまったら、行き着く先は死である。
わたしだけが死ぬならまだしも、何の落ち度もない皆を巻き込むわけにはいかない。
どうすればいい。どうすれば。
何も出来ない、何の力もない自分が歯がゆくて嫌になる。
「いえ、いえ……違うのです。わたくしが……もっと早くご相談すべきだったのに、こんなことになるなんて」
エマの声がいつになく悲痛なもので驚く。声と同じように、顔も悲しげなものだった。
「エマ!? どうしたの?」
「ジュリエット様。まずは着替えた方がよろしいかと」
遮ったのはダミアンだ。その声にハッとしたのはわたしだけではなかった。
「そうね。でも着替えはあるのかしら」
「念のため簡易的なものを運び込んであるはずです」
「さすがね。じゃあ着替えましょう」
ずぶ濡れのエマを抱きしめたからわたしも濡れてしまっている。海上は風も強いのでこのままだと風邪をひいてしまうかもしれない。そう自覚すると寒くなってくるから厄介だ。
船室の一つを借りて、エマと一緒にブラウスとスカートに着替えた。アンリも手伝ってくれたのですぐに終わる。その間もエマの表情はずっと暗いままだった。
先に着替え終えたわたしが船室を出ると、ちょうどポールが通りかかったところだった。
「ポール! 申し訳ないわ、わたしのせいで。きちんと注意されていたのに、本当にごめんなさい」
「いいや、お嬢様のせいじゃない。渡し板の整備を怠っていた俺らのせいだ。こちらこそ巻き込んで申し訳ない。お付きの方は大丈夫だったかい?」
「エマは大丈夫よ。みんながすぐに助けてくれたから。ありがとう」
「そうか、良かった」
「それで、船はクレッシェに向かっているの?」
わたしの問いに、ポールの表情が少し曇る。
「ああ。だがプルーの調子がどうもおかしい。ただの暴走じゃなさそうだ」
「そうなの?」
「そもそも、お嬢様のあの声くらいじゃプルーは暴走しない。何か変なモンでも食ってたのか、反応も悪いしどんどん弱ってきてる。クレッシェの港まで辿り着ければいいが……」
「そう……」
「すまねえな。何が何でもお嬢様は守り抜いてみせるから」
「何言ってるの、全員無事に帰るのよ」
「おうよ! まあいざとなったら、って話だ」
いつになく真剣なポールの顔に息をのむ。海を生業にしているからこその覚悟なのだろう。
「気軽に乗りたいなんて言ってしまって、後悔しているわ」
「それこそ何言ってんだ、俺はずっと乗せたいと思ってたんだ。今回はこんなことになっちまったけど、船はいいぞ。ほら、外を見てみな」
ポールに背中を押されて甲板に出た。
途端、潮風が身体にまとわりつく。お日様の光が容赦なく照りつけてくる。
だが、強い光を浴びた海面はキラキラとダイヤモンドのように輝いている。遠くは深い青と波の白。時折魚が跳ね、上空を大きな鳥が飛んでいる。
圧倒的な自然がそこにあった。
「ああ、きれい……」
「な? この景色は船からじゃないと見れないんだ。お嬢様もボネの人間なら、この景色は見ておいてくれないとな」
「ええ。ありがとう、ポール」
ガハハハッと笑ったポールはわたしの頭を乱暴に撫でて、操作室の方へ戻っていった。
その優しさに救われる思いだった。




