35.練習
王太子妃教育が進む中、わたしは次期王族としての公務も担うようになった。
とは言っても大きなものではなく、国内の修道院や孤児院への慰問がメインである。国民への顔見せ、そして慈善事業によるイメージアップを意図している。
ジュリエットは深窓の令嬢だが、友梨亜は一般市民、死語でいえばパンピー、つまりは庶民である。現代日本においての庶民なので、ここでの庶民とは生活様式に大きな差があるとはいえ、身分による貴賤はないと思っている。
そういった思想は行動に出てしまうものらしく、わたしの評判はうなぎ登りだった。
わたしとしては孤児と一緒に遊んだり、修道女の皆さんとクッキーを作ったりと楽しく過ごしていただけなのに。
ジュリエットの妖精のような顔立ちと、友梨亜の気さくな性格がギャップだったのだろう。ギャップ萌えは全世界、夢の中でも異世界でも共通の萌えなのだ。分かる。
「ユリア、先日慰問した孤児院の院長から礼状が届いてたよ。ちびっこたちと鬼ごっこしたんだって?」
「え! ええ、まあ、はい。……ダメでした?」
週に一度だった殿下とのお茶会は、わたしが王城で暮らし始めてからはほぼ毎日となっている。
中庭での午後の茶会が、就寝前にわたしの部屋での語らいと変わってはいるが、とにかく二人で顔を合わせて話す時間があるのだからそれでいいのだ。
しかし、さすがに伯爵令嬢、いや次期王妃が駆けだしたのはまずかっただろうか。
あの時はつい楽しくて走ってしまったけれど、エマとマクシム隊長もちょっと焦っていた。マチアスだけはニヤニヤ笑っていたけれど。
わたしが罰の悪そうな顔をしたのだろう、殿下はフッと笑ってジョーくんの顔になった。
「院長からの手紙によれば、本物の妖精が飛んでいるかの如く美しく、ついに捕まえられなかったそうだけど?」
「……次から気を付けます」
「ははっ、子どもたちは喜んでいたそうだからいいんじゃない? 俺も見たかったな」
「だって! マクシム隊長が鬼になって走ってきて、一番小さなサナが泣きそうになりながら逃げまどってるんですよ! それは手を繋いで逃げるでしょう!?」
その時のことを思い出しながらわたしがそう言うと、ドアの外で微かな物音が聞こえた。
そういえば今日の護衛当番はマクシム隊長だった。別に告げ口しようとしたわけではないので許してほしい。
ガタイのいいイケオジが孤児にせがまれて鬼となる姿は大変微笑ましく、家庭での父親像が垣間見えてギャップ萌えだった。
「楽しそうで良かったよ。公務が負担になっていたら申し訳ないと思ってたから」
「負担なんて、全然! 楽しく過ごしております」
「なら安心だわ。あとはそろそろ、俺に慣れてくれると嬉しいんだけど」
チラッと掬い上げるように見つめられる視線。ジョーくんと過ごす時間が増えてきたとはいえ、まだ甘い雰囲気には慣れようがない。
ジュリエットならまだしも、ユリアと呼ばれるたびに胸が高鳴る。ジョーくんがわたしを見ていると思うだけで顔が熱くなる。手に触れるだけでも息が苦しくなる。好きすぎて辛いのだ。
「やっぱ少しずつ、練習が必要だと思うんだよね」
「れ、練習ですか?」
「そう」
澄ました顔で言うジョーくんが、スッと立ち上がってわたしの隣へ座った。服越しに膝と膝が触れ合う距離だ。いつものようにとってもいい香りがする。
「勉強も公務も頑張ってくれてるから、これ以上追い込むのは可哀想かなって思ってたんだけどね。でもいくらなんでも、スローペース過ぎない? 結局まだキスもしてないんだけど」
「ひっ、あの、それはその、誠に申し訳ないとは」
「うん。だから、練習」
そう言ってにっこり笑うジョーくんは天使にしか見えない。わたしの元へ降臨した天使。
しかしその天使は、直後にニヤリとその笑顔を悪いものに変えた。天使ではなく、堕天使。いや小悪魔か。
小悪魔はわたしが反応を返す間もなく腕を引っ張って引き寄せた。そしてぎゅうっと思い切り抱きしめてきた。
顔に当たるのはジョーくんの胸ポケット。そこから覗くのはわたしの瞳であるライラック色のチーフだ。
今日はシルクっぽいネイビーのストライプスーツで、これももちろん衣装である。
むせかえるようなジョーくんの香りと、静かな息遣い。
固まって動けずにいるせいか、息遣いとともに鼓動もとくとくと聞こえてきた。
(待って、これどういう状況!?)
身体は固まったまま、頭の中がようやく動き出す。
だけどジョーくんはわたしを抱きしめたまま、何も言葉を発してくれない。わたしの身体はソファーの上でジョーくんにもたれかかってしまっている。
「あ、あの」
「うん」
言葉を発したとはいえ、何を言うべきなのかまで頭が回らない。
返事をしてくれたジョーくんは、あろうことかわたしの肩に顔を埋めてきた。おろしている髪に潜り込んでしまっている。就寝前だからお風呂には入っているが、自分の匂いも気になるし、何よりとんでもなく恥ずかしい。
それなのにジョーくんは更にぐりぐりと顔を埋めてくる。
「あー、やばい。あなた風呂入ってたの忘れてた」
「え?」
「めっちゃいい匂いするし、ドレスが薄い」
「えっ!?」
何を言い出したのかと声を上げると、ジョーくんはそっとわたしを解放してくれた。
慌てて後ずさるが、そもそもソファーの上なのですぐに逃げ場を失った。きっとわたしの顔は真っ赤になっている。
(ドレスが薄いってなに!? なんか透けてるの!?)
エマたち侍女の支度は完璧のはずだ。風呂上りとはいえ婚約者に会うのだから、寝間着ではなく簡易なドレスを着ているし、ジョーくんはまだ執務が終わったばかりだからきちんと衣装を着ている。
「ドレスの生地が薄すぎて、友梨亜ちゃんの身体が柔らかかった」
確かにいつも殿下に会う時の正装とでもいうべきゴージャスなドレスよりは頼りないドレスだ。身体のラインを隠すふんわりとしたデザインだが、だからこそ生地は薄いかもしれない。
言われてみれば、抱きしめられたときにジョーくんの腕が感触として身近に感じられた気がする。
「やっ! ちょっと待って、恥ずかしすぎる!」
「練習のつもりだったのに……風呂上がりはやべえだろ。耐えろ俺」
手で顔を覆ってしまったジョーくん。わたしはその隙に立ち上がって、ジョーくんが元々座っていた席に移動した。
「ちょっと、逃げられるとさすがに傷つくんだけど」
「だって! や、やわらかいって! 無理ですぅぅぅ」
「だから練習だっつってんじゃん。こっちだって手ぇ出したいのめっちゃ我慢してるんだけど」
「け、け、結婚! 初夜までは!」
「おまえ、そんな状態で初夜にいきなりできる訳ねぇだろ」
「で、でき、ます! たぶん」
「多分じゃねえよ。それにそんなにお預け食らったら、俺が優しくしてやれるか分かんねえし」
(ひぃぃ! がっついたジョーくんに襲われるのもアリっちゃアリだけど、わたしが耐えきれる気がしない! 途中で気絶しちゃいそう。いやその前にジョーくんとそういうことするの!? そうだけど!)
あわあわしてるわたしの隣に、またしてもジョーくんがやってきた。そして有無を言わさずに抱きかかえられ、膝の上でお姫様抱っこのような状態にされた。
すぐ斜め前にジョーくんの綺麗すぎるお顔が存在している。死にそうだ。
「はい、こっち向いて」
「む、無理です」
「無理じゃない」
いきなりスパルタになったジョーくんが、わたしの膝の下に回していた方の腕をスッと抜き取った。そしてその手でグイっと顎を掴み、無理やり顔を向けさせられた。
顎クイ、乱暴バージョンである。何されてもときめいてしまう己の心が、今は少し恨めしい。
顎を掴んでいた手が頬に上り、ぷにっと潰される。わたしの唇はタコのようになっているだろう。
とんでもなく不細工な顔をジョーくんに見せているはずだ。
「ひょー、ふん」
「何?」
「はひゃひへ」
「やだ」
ニヤっと笑うジョーくんは、意地悪で楽し気で、最高にカッコいい。
「んー、友梨亜ちゃんの可愛い顔見ちゃうと、イジメたくなっちゃうんだよね。でも俺にしがみついて顔が見えなくなったら、できないよね」
それはつまり、わたしからジョーくんにしがみつけと、抱きしめろと言っているのだ。なるほど、これは確かに追い詰められている。頭が爆発してしまいそうだ。
頬をムニムニしていた手を放し、両手を上に上げるジョーくん。顔はニヤニヤし、とっても楽しそうだ。キッと睨みつけてやる。
「そんな顔で睨まれても可愛いだけなんだけど。あー、そろそろ手が動いちゃうかも」
「もう!」
掌で転がされているのを自覚しつつも、勢いよくジョーくんの首に腕を回して抱き着いた。女は度胸である。
ぼすんと音を立てて、ジョーくんの胸元へ納まる。すぐに腕が回ってきて、ぎゅーっと力強く抱きしめられた。
「ふふっ、あーほんと可愛いなあ」
「うるさいですよ」
「こういうの、ツンデレって言うんだっけ?」
「知りません」
こうなったらもう、絶対に顔を上げてやるもんかと頑なにしがみついた。ジョーくんの首筋が目の前にあるけど、意識したら負けだろう。
「ほんと、何なのもう」
はあっと息を吐いたジョーくんが、わたしの頭に顔を乗せてくる。何なのって、こんなに顔を赤くしながら頑張っているのに何が不満なのか、わたしが聞きたいくらいだ。
ジョーくんが、甘すぎて困る。




