魔王様は素敵な勇者様に恋焦がれた
――よく来たな、勇者よ。
と言いたくなったセリフを、魔王は恨めしそうな眼で勇者を睨みながら、ただ静かに飲み込んだ。
鬱蒼とした影がしたりと降り注ぐ玉の間。煌々とした紅が暗く沈むカーペットには、これまでどれほどの血が注いだのだろう、斑々とした黒い染みが、しかし汚らしくない程度にうっすらと浮かび上がっていた。
遠くの雷鳴の音を除いて、その広間は静寂に包まれていた。
蝋燭に燃ゆる揺れ火ですら、無言のまま二人の戦いを息をのんで見守っている。
「お前が、魔王か!」
これまでの勇者よりも、よく響く若々しい声。齢はおそらく20にもなっていないだろう。その瞳には、まだ未来や世界への翳りは映っていない。
「……1人、か」
玉の間を横目でさらりと見るも、魔術師やアサシンが潜んでいる様子は見受けられなかった。
ここに来る途中で果てたか、それとも初めから単身で乗り込んできたか……魔王はそこで思考を止め、頭が痛いかのように小さく首を振った。それを私が考えて、何になるのだ、と。
「ここで、お前を倒す!」
強張った眉間の皺が、その風貌には似合わない。おそらく、元々どこかの静かな農村で暮らしていた好青年だったのだろう。しなやかでしかし鍛えられたその腕は、なるほど、ここまでこれるだけの能力が備わっているようだった。
「お前に、妾が倒せるかな?」
魔王はぼそりと、その美しい声を震わせただけで、玉座のすぐ右に腰かけたその体勢を変えることはなかった。何よりも赤く美しい朱。これまで手にかけた勇者の数だけ鮮やかになっているようにすら思える、その狂おしい長い髪を、風がそっと揺らして魔王の頬を撫でた。
妖艶とも違う、しかし厳格でも貧相でもない。その禍々しい鎧がなければ、おそらく人間界においては絶世の美女と讃えられていただろう。女魔王というだけで、畏怖と憎しみの眼差しがなければ、一目で求婚をする人間もいたかもしれない。
実際、過去の勇者において――それはとんでもない誤りであるが――彼女を倒すのを諦め、説得しようとし、そして彼女の死鎌に倒れた者もいる。
その首の感触すら、悲しいかな魔王はすでに覚えてはいなかった。
「……っ」
勇者が一歩、距離を詰める。やれやれ、どうして勇者というものはそのようにせっかちなのだろうか。せっかちではないといけないのだろうか。
これまで会話という会話が成り立った勇者は指折り数えられる程度。その多くは突然襲いかかり、数撃のうちに沈黙した。
自らの実力を見誤い、本来即撤退すべきであるはずなのに過信(もしくはこれまでの人生においてそうせざるを得ないという見えないプレッシャーに押し潰されて)し、無駄にその命を散らす。
それについて魔王は美しいとも悲しいとも蔑む気持ちさえも抱かなかった。
あるのはただ、近寄ってきたゴミを振り払ったという、少しの手間に対する不満と苛立ち。
それくらい、魔王は強かった。
幾何かの時が過ぎる。勇者は先ほどの一歩を詰めてより、そこから動かなかった。いや、動けぬのだ。
この勇者はおそらく分かっている。魔王の実力が、これまでどれほど苦労して倒した魔物よりも、はるかに凌駕されていることを。
しかし撤退すらもできず、魔王のその凛とした横顔を見つめているしかできなかった。
横顔。頬のタトゥーは生まれつきある魔力の標。しかし頭に生えるその左の折れた角は、ずいぶんと昔に一度だけ、唯一、勇者に折られたものであった。
歴代の勇者が、たった一度だけ、魔王に傷をつけることができたもの。それが左角。
魔王は自らの恥としたが、しかしそれをあえて隠そうともしなかった。隠す意味がなかったからだ。
そういえば。忘れかけていた記憶が蘇る。この角を聖剣で切ったあの勇者も、この少年のようにまっすぐな目をしていた。
猛る気持ちと、純粋な熱意。あの顔は、ほうと感心をさせられたものだ。
あの勇者――名前くらい聞いておけば良かったか――ほどの腕の勇者は、いつになったら現れるのか。
そうか、そういえばこのつまらない世界で、唯一気がかりなのは、もしかしたらそれかもしれない。
心躍るような、血みどろの戦いをしたい。魔王として君臨している以上、私が渇望しているのは、それなのかもしれない。
これまで、さんざん、軽々と勇者を葬ってきた分、いささかな飽きと飢えが、正直魔王にはあった。
満たされない。心も、身体も。疼いてしまう。苛立ちとも呼べない、欲情とも呼べない、満たされない心に痺れが生じるように、しばらく魔王の顔には笑みが灯ったことはなかった。
でも。
「……っう」
魔王が改めて勇者を横目で見つめたと同時に、勇者は一足飛びで、魔王にとびかかった。
少し、遠い。本気で刈りにきたわけもなく、まずは一撃。実力を試すかのようなその行動に、魔王はひどく怒った。
侮るな、と。
白く長い指を勇者に向けると同時に、髪に負けぬほど紅く鋭い指から、一閃の光が勇者に襲いかかる。瞬きすらも、許されない。
しかし勇者は剣を構えなおし、弾き、防いだ。行き場を無くした光は、数秒の遅れをもって崩壊の音を鳴らし、左右の壁を脆くも屠った。
一抹の雫が勇者の額を流れる。それほどまでに、勇者にとっては避けようのない、しかし覚悟を決めた瞬間だった。
「ほう……?」
魔王は少し、興味が出た。今の魔法を弾いた勇者は、それこそどれほどいただろうか。
身体を勇者の方に向き直し、右手を腰に回して、左ては玉座の肘掛に触れた。
「少しはできるみたいではないか」
その高らかな声に、しかし勇者は返事をしなかった。できなかった、が正しいかもしれない。
「…………」
魔王は改めて、その勇者をじっくりと見つめなおした。
なるほど、青く澄んだその目は、おそらく数多の汚れを見、後悔や悔恨からそらさず、つぶさに見つめ続けていたものだろう。
様々な感情が、しかし芯をもって、私に殺意を向けている。
で、あるならば。
「……問おう」
引きかけに置いた手を宙にあげ、虚無から滴るように、大きな死鎌を取り出した魔王は、勇者に向かって静かに咆えた。
「汝は、何故、妾を倒そうと思うのか?」
その声は、広間の空気、そして柱、崩れた壁までもを震わせ、鳴かせた。
勇者の顔が曇る。困惑とも違う、しかし答えに窮しているのが分かる。
なぜ、そんな問いを自分に向けるのか。
考えたこともなかったのか、勇者という大命を受けたからには、魔王は倒すべきものである、と。
「答えよ、勇者!」
その声にはわずかに苛立ちの感情が伏している。心の臓に直接響くその声に、勇者はなぜか涙を流さずにはいられなかった。
若い。
魔王は少しばかり鼻からため息をつきたくなった。
「お、俺には……俺には……」
勇者の顔が前髪で隠れる。その暗い闇の奥に潜む青い瞳は、何の答えを出すのだろう。
そういえば。
魔王の意識はふと過去に還る。この左の角を折ったあの男は、あんなことを言っていたよな、と。
その一瞬を勇者は逃さなかった。
自分で考えられる、最速の動きで魔王に近づき、その剣を一突き、魔王の心臓に突き立てようとし――
剣は、むなしくも粉々に砕かれた。
「………」
――所詮、この男も。
魔王はそこまで言いかけて、やめた。
少しの絶望に、悲しみの色を浮かべて、しずかにその鎌にて勇者の首を落とす。
もはや何の感慨もわかない。いつもの通り、少しだけ、予想外のことが起きただけ。
「……妾を倒そうと思って挑んできても、指一本触れることすら叶わぬよ」
一振り、鎌をふるって血を払い落とすと、鎌はまたその虚無の向こうへと消えていった。
あい、つまらぬ。
来る者来る者、いつも同じ答えしか返さぬ。
だからこそ、魔王は問いかけることすら、諦めてしまった。
「……ステイン」
痛み出す胸に、魔王はそういえば、自分の角を折った男の名前を、思い出した。
彼は最期の一撃の前に、私の問いに答え、その答えにわずかばかりの隙を、与えてしまったのであった。
もし同じ答えを返す勇者がいたならば。
その時はもしかすると――。
「個の力、個の願いでは、妾を倒すことなどできんよ」
そう、それが使命であっても、勇者が魔王を倒すことは、あくまで手段に過ぎない。
勇者は魔王を倒すために旅に出る。
反吐がでそうになる。
違う。本当に、勇者がすべきことは。
「…………」
魔王はすでに屠った男の名前を、もう一度頭の中で念じながら、そっと目を閉じた。
勇者がするべきは、魔王を倒すことではない。
世界の人々が、安心して暮らせる世界をつくることだ。
それが叶うならば――魔王を倒す必要などもない。
なぜなら、それを実現できる魔王が、すでにもう君臨しているのだから。
甘いと言われるだろうか。何をいまさらと言うだろうか。
しかし、彼らは気づいているはず。
この世界にはすでに、魔物は存在していないのだ。
或るのは、過去に世界を恐怖に陥れた魔王、そしてその伝承。
魔王は、ここから一歩たりとも外に出ていない。
しかし、何か悪いことがあるとすべて魔物や魔王のせいにする。
そこには、何も居ないのに。
「………」
魔王は静かに眠ることにした。
次目覚めた時、現れる勇者を、信じて。