2.始まり
夕暮れに染まる帰路、いつもなら1人の道に今日は2人分の影があった。
有瀬祥子である。そして俺の心情とは裏腹に、雲のない空だった。
「なーるほど。だから雛男は私に色々喋って欲しくないんだ」
きっと10人のうち10人が無垢な笑みと評するだろうが、俺には悪魔のように見えた。
「かわいいよねー、葵ちゃん。連絡先も交換しちゃった」
有瀬祥子はこういう人間なのだ。一度弱味を握った相手をとことんいじめ殺す。それも無意識を装って、だ。有瀬祥子ほど猫をかぶるのが上手い人間はそういない。彼女がその残虐な本性を現すのは、蚊帳の外にいて一方的に攻撃できる相手に対してだけだ。
悔やんでも悔やみきれない。それは、『俺が山佐葵のことが好き』が紛れもない事実だからだ。だからこそ、この魔王のような女に知られてはならなかった。
「安心して! 私応援してるから」
そう言って、有瀬はまた笑う。俺は怯えた子犬のように震えた。この先ずっと有瀬の機嫌を取って懇願しないといけないと思うと目の前が真っ暗になる。こうして一緒に帰宅するのも、有瀬の脅迫ともとれる誘いがあったからだ。
有瀬は俺の家と同じ学区に引っ越してきたらしい。俺は隣の街から頑張って登校していると嘘をついた。まさか歩いて十分程度の距離に住んでいるなど知られていいことはない。
「でも以外だなー。雛男のことだからまだ私のこと好きだと思ってた」
「それはない」
有瀬はため息をつくと、やれやれと首を振った。傷つくな、と小さく呟く。
「それで、葵ちゃんのどこが好きなの? 顔? 性格?」
「お前には教えん」
……山佐葵を好きになった理由。クラスで俺に話しかけてくれる唯一の女子生徒だから。以上。
彼女は誰とでも仲良くなるし、有瀬のように周囲をうまく利用して優位な立ち位置に立つ人間でもない。
文武両道才色兼備。明るく優しく。そんな性格だから自然とクラスの中心にいて、馴染めていない俺を気にかけてくれているのだろう。
新金と釣り合う、ということはつまり、新金ぐらいしか彼女と釣り合う人間はいない。
それは俺も重々理解していて、ゆえに俺はそれ以上を望まないのだ。望んでしまえばどうなるか、この有瀬祥子が教えてくれた。交友のないクラスメイトたちは変わらないが、山佐葵は変わってしまうだろう。それも俺に悟られないよう努めながら。
だからこそそれだけは避けたいのに、山佐葵とのこの絶妙な距離感を保ったまま卒業してしまいたいのに、有瀬祥子は俺のもどかしさを楽しもうとする、そういう人間なのだ。
「送信っと」
俺が有瀬への不満を心の中で並べていると、有瀬は不穏な言葉を呟いた。
「おい、何を送った? 誰に送った?」
俺の直感が告げている。こいつやりやがった。いつか仕出かすとは思っていたが、まさかこうも手が早いとは。
俺の背が伸びたように、他人の容姿を客観的に見ることが出来るようになったように、有瀬祥子もまた成長、もとい進化しているのだ。それも悪い方に。
「そんなの決まってるじゃん。葵ちゃんだよ。明日の放課後、私と雛男と男の子もう一人誘ってカラオケでも行こうって。……あ、返事来た」
なぜ俺を入れる? もう一人ってなに? 言いたいことは山ほどあったが、俺は固唾を飲んで有瀬の言葉、山佐の返事を待った。
有瀬はいたずらっぽく間をおいて焦らすと、わざとらしく吹き出して口を開いた。
「『ごめん、明日は用事があって』だってさ! フラれちゃったね」
俺の崩れた日常は今、有瀬祥子によって焼き尽くされた。
気がある相手に気があると察せられることほど気恥ずかしいものはない。もし来世でもぐらになれたのなら、マントルを掘り進んで地球の反対側の地表に出るほど穴を掘りたい。私はもぐらになりたい。
入る穴を掘りたがる右手と、わなわなと怒りに震える左手、叫びたがってる心を鎮めつつ、俺は自宅を目指した。
つい数分前、自分が犯した罪の重さに気付いていない重罪人Aは、「わたしんちここだから」と一軒家の前で立ち止まった。
なるほど、やはりこの場所から俺の家までは距離にして1キロもない。悪魔が俺のすぐ近くに住み着いているという由々しき事態に俺は夜も眠れないだろう。
「ごめんって、雛ちゃん」
一応謝ってみるらしい。悪魔にも体裁という考えがあるようだ。ただし有瀬の『雛ちゃん』は俺のことを小バカにした態度の表れである。小学校に入学した時からずっと『雛ちゃん』呼びだったが、高学年に入ってからは『雛男』になり、しかし俺をからかうときは『雛ちゃん』に戻っていた。やはり有瀬は小学生の頃からほとんど成長しておらず、よく言えば純粋、悪く言えば幼稚なやつなのだ。
「てかさ、寄ってく? お父さんもお母さんも雛男のことは覚えているだろうし」
「……課題が残っているので帰ります」
やはりこいつは小学生の頃のままらしい。確かに俺は当時、よく有瀬の家に遊びに行っていた。家が近いというのもあるし、互いに一人っ子という共通点もある。基本的に帰りの遅い俺の両親と違い、有瀬の父親は在宅、母親は専業主婦で、いつも俺を出迎えてくれた。小学生の俺にとっては甘えられる第2の場所だったというのか、今考えたら図々しいにも程があるが。
それも、件の告白から一切なくなってしまったが。
とにかく、小学生の頃ならともかく今の俺たちは思春期真っ只中の高校生なのだ。別に有瀬なんてその辺に生えているジャガイモぐらいにしか思っていないが、それでも多少の羞恥心はある。というか、こいつにはそれがないのか。今だに「トイレ行こうぜ」ぐらいの感覚で異性を家に招こうとしているのなら、早いとこ指摘してやった方がいいのではないだろうか。
有瀬祥子は誰が見ても美人で、今日だって案内で校内を歩いているときも、いくつもの視線が彼女に向けられていた。有瀬は悪魔だが、悪魔にさえ心配してしまうのは俺が大人になって、有瀬が子供のままだからだろう。いらん保護欲が俺の心を駆り立てるのだ。
「そうやって簡単に男を家に上げるのはよくないと思うぞ」
「雛男だからいいんじゃん。ヘタレが人の心配すんな」
訂正。有瀬は有瀬で成長しているようだ。人の心配を読み取れるぐらいにはなったらしい。
「それに、変なやつはお父さんが許さないしね」
忘れていた。有瀬家には最強のガーディアンがいるのだ。190センチはある大柄な体躯でキーボードを叩く屈強なガーディアンSEが。
「……とにかく、山佐葵にこれ以上ちょっかいを出すな」
「へいへい」
もはや手遅れな気もするが、俺は有瀬に錆びだらけの釘を刺す。そして背を向け帰路につく。
しばらく歩いてそっと振り返ると、有瀬はまだ家の前にいた。
「早く帰れ! 見えなくなるまで見送らないと、なんかこう、もやっとするんだよ」
有瀬はそう叫び、無邪気に微笑んだ。
……やはり有瀬は、小学生の頃とそう変わってないらしい。俺はやれやれと肩をすくめると、また歩き出した。