1.一方通行
「雛男じゃん! 久しぶりー」
俺はこの女を知っている。むしろ忘れる方が難しい。
有瀬祥子は俺と同じ小学校で、俺の初恋の相手だった。
……正確にはそれが恋なのか、小学生というものは何がきっかけで誰を好きになるか分かったもんじゃない。異性とよく話すやつはモテる、足が速ければモテる、眼鏡を掛けていたら絶対にモテないなどなど……。
必死に思い出そうとしても、何がどうなって俺はこの有瀬祥子という女を好きになったのか、当時の俺に聞いてみないと分からないだろう。しかしとにかく俺は有瀬祥子に恋をして、初めて人を好きになったのだ。
その彼女がどういうわけか、目の前にいる。もう一生会うことはないだろうと黄昏た小学校の卒業式が、つい最近のように感じた。
「おいおいなに無視してんだよー。雛男の好きな祥子ちゃんが話しかけてるんだぞ」
有瀬祥子とはこういう人間なのだ。どんな場面だろうと、誰の目があろうと関係ない。自分が話したいときに、自分が話したいことを話す。そのせいで小学校のクラスメイトが何人教師の怒号の犠牲になったか、数え出したらキリがない。今は授業の合間、声が生徒たちのざわめきに掻き消される休憩時間だからまだいいが、こいつがあれからなにも成長していなければ、授業中だろうと集会中だろうとお構いなしなのだ。
「へー。大都くんと有瀬さんって知り合いなんだ」
お下げ髪のクラス委員長が俺の席へやって来た。正直名前もまだ覚えていない。入学してもう3ヶ月は経つというのに、クラスで顔と名前が一致するのは片手ほどだ。それは俺がこの高校へ入ってどれだけ排他的な学生生活を送っていたかを物語っていた。
「いや、知らん。俺はこんなやつ見たことがない」
「嘘つけ! 私の顔を見てびっくりしてたくせに」
俺が首を振って否定すると、有瀬は眉をつり上げて頬を膨らました。
……有瀬祥子とはこういう人間なのだ。テレビの中でしか見たことのないような女優じみた演技を、相手に不快感を抱かせないような自然さで演じる。
つまるところ、有瀬祥子は目を見張るほどの美人だった。
はっきりいって小学生の時の彼女は、ほとんどの男どもから好意を寄せられていた。卒業アルバムを見返しても彼女は飛び抜けて目立っていたし、集合写真を撮るときは押し出されるように先頭の中央、一番目立つポジションに立たされていた。
しかしまあ、小学生の男というものはそれが美人か否かの判断を下せるほど熟してはいない。何ならクラスメイトの顔はすべてジャガイモに見えるほどに、容姿単体でその人物の評価を下さないのだ。
高校生になった今卒業アルバムを見てもジャガイモそっくりの友人は、勉強もスポーツもできて、誰もが見惚れる白馬の王子的存在だった。
整った容姿の女子生徒は、声が小さいという理由で男子生徒から見向きもされなかった。
つまり俺が有瀬祥子を好きだった理由も決して容姿ではない何かなのだが、この有瀬祥子という女には容姿にこれといって長所がないのだから不思議でならない。
「それじゃあ、有瀬さんの案内は大都くんにお願いしようかな」
委員長はそう言うと手を合わせ、拝むように頭を下げた。俺は断固拒否した。そもそも出会い頭からおかしいのだ。
登校したときに普段何もない場所に席が用意してあった時点でまさかとは思ったが、よりによって転校生が有瀬祥子で、よりによって俺の隣の席についてしまうとは。
泣きっ面に蜂とはまさにこの事だ。その上案内役まで頼まれるとは、傷口に塩を刷り込む卑劣の所業である。
「そう言わずに、ね?」
「そうそう、雛男。昔は名前で呼び会う仲じゃないの」
まぁ、とそれだけ残すと、委員長は意味深な笑みを浮かべて自分の陣地へ戻る。彼女が属する数人の女子生徒からなるグループはチラリとこちらを覗くと、口を押さえて楽しそうに笑った。
なにがまぁ、だよ。きっと流行りのドラマかなにかに影響されたに違いない。
「お前な、あんまりあることないこと言うなよ」
俺は有瀬に鋭い視線を向ける。すると有瀬は大袈裟に驚愕の表情を見せ、手で口を押さえた。
「お、お前って……。もう私のことを祥子とは呼んでくれないのね……!」
……確かに有瀬を下の名前で呼んでいた時期もあったかもしれない。だが小学生というのは大体そういうものではないだろうか。俺も苗字で呼ばれることは稀だったが、気がつけば名前で呼ぶのは小学校から付き合いのある友人か親ぐらいだ。
「それに私はあることしか言ってないよ」
「……とにかく、案内はしてやるからこれ以上俺に付きまとうな」
今度は視線だけではない。声を低くして本気で脅した。俺と有瀬祥子の間には他人にあまり知られたくない因縁がある。それを因縁だと思っているのは恐らく俺だけで、有瀬はそれに至るまでの経緯を気にもしていないだろうが、だからこそこうして早めに釘を刺しておくのだ。
「はいはい。雛ちゃんの顔で凄まれても全然怖くないもんね」
それが有瀬に有効かはともかくとして。
昼休みという貴重な時間を浪費して、俺は有瀬と校内を歩き回っていた。友人との談笑、期末に控えるテストの予習等、やることはたくさんあるのに、だ。
「雛男、友達いないじゃん」
「雛男、バカじゃん」
……有瀬祥子とはこういう人間なのだ。ごく短時間で個人から集団に至るまでの行動、言動や心理を観察し読み取る。
天は有瀬に二物を与えた。一つは容姿、もう一つは観察力。
成績は中の中、運動はできない、自分勝手で屁理屈好きの有瀬祥子がいつでも誰かに囲まれていたのは、この観察力あってのものだ。
有瀬祥子には既に、このクラス内の生徒の立ち位置が分かっていた。きっと彼女はすぐにでもクラスに紛れ込み、まるで操り人形のようにクラスメイトたちを操作して、自分の立ち位置を作り出すだろう。
果たして長所と言えるのだろうか、洗脳にも近いこの能力は、しかし俺のように蚊帳の外にはみ出した人間には通用しない。だがあいにく、このはみ出しものというのは彼女を好きになるという常識から外れ、社会的にもはみ出しものになってしまうのだから笑えない。
ただ一つだけ自信をもって言えよう。現在の俺がボッチなのは誰の目から見ても明らかなので、有瀬がそのない胸を張るのは間違いである。
「てかさ、雛男おっきくなったねー」
一通り校内を回り教室へ戻る道すがら。
有瀬はつま先立ちで手のひらを頭に乗せるとそう言った。
「小学生の頃は私の方が大きかったのに」
「俺はお前に越された覚えはない」
確かに昔は有瀬の方が俺よりほんの少しだけ背が高かった。しかし今では並んで歩けば有瀬の頭が俺の肩の位置にある。
有瀬はぴょんぴょんと小さく飛びながら、フフンと笑んだ。
「あの頃に戻れたら、雛男よりも大きかったって証明できるのになー」
あの頃に戻れたら……。その言葉に、俺は少しだけ心がざわついた。
「……頼むから、みんなの前で小学生の頃の話はしないでくれ」
戻りたくない。俺の思い出にしつこくこびりついてくるのは、あの日を境に変わってしまった俺の日常だった。
「もー、何回も言わなくても分かってるって! ……雛男が私に告白して、私がそれを断って、それから卒業するまで雛男が男子たちにハブられてたことは絶対に言わない!」
そう返すと、有瀬は右手の小指をたてる。有瀬祥子との約束ごとなんて無意味に等しい。俺はそれを無視すると、黙って足を進めた。
「ちぇー。全然信じてないし」
約束なんて無意味に等しいのだから、きっと有瀬はいつか何かの拍子ですべてを話すだろう。それで元々俺に無関心なクラスメイトたちが何か変わるわけではないが、それでも俺は彼女に、そういう方面での俺の印象を下げるような真似をしてほしくなかった。
「話したらお前の恥ずかしい過去も洗いざらいぶちまける」
「ざんねーん。祥子ちゃんに恥ずかしい過去なんてないので―――」
その瞬間、視界の隅から有瀬が消えた。1年の教室が並ぶ1階へと階段を降り、角を曲がった直後の出来事だった。
「ご、ごめん。大丈夫かい?」
茶色ががった髪に大きな瞳。俺とは対極に位置する男子生徒、新金艮也は、散らばった自身の教科書には目もくれずにしりもちをついた有瀬へと手を伸ばした。
俺は出しかけた手を引っ込める。有瀬は新金の手を握ると、ゆっくりと立ち上がった。
「ごめんなさい、私こそ前をよく見てなくて」
そうして2人で散らばった教科書を集める。俺はというと、保温素材でできた白い壁と同化していた。
「ありがとう」
「おい艮也、急がねえと準備間に合わねえぜ」
新金は似たように目立つ友人に急かされ、有瀬に軽く会釈をすると先を急いだ。残ったのは同化の術を解いた俺と、妙に浮き足だった様子の有瀬祥子である。
「ねえ、今の人かっこよくなかった?」
有瀬は俺にそう尋ねる。同性の評価ほど下しにくいものはないが、あいにく新金艮也は他校の女子生徒が見学に来るほどの容姿をしていた。
俺は人形のように淡々と答える。
「1年D組新金艮也、俺と同じ中学の出身で成績優秀スポーツ、中学では主将を務めたサッカーを高校でも続け、1年生ながらレギュラーで出場した最近の試合では見事に2得点を挙げている」
我ながら無駄のない返答だと思ったが、有瀬にとって有用な情報は名前と学年だけだったらしい。
ムッと顔をしかめると、
「重要な情報が入ってない」
と俺を睨んだ。
「彼女は? 彼女はいるの!?」
俺と新金は中学校から今まで、一度の会話もない。……記憶をたどればきっと2、3回はあるかもしれないが、恐らく事務的なものだろう。その頃から新金は新金で、俺は俺だった。スクールカーストの上位と下位は自然と会話がなくなるものだ。
「さあ? あいつは昔からモテてるからな……。だがそういえばそういう浮わついた話は聞かないな」
「へえ……」
俺がそう答えると、有瀬はニヤリと笑みを浮かべた。
「まああいつに釣り合う女子なんてこの学校にそういないしな。そうだな、例えば……」
思えば、なぜ俺はこのとき誰かの名前を挙げようとしたのか。多分その生徒と俺が多少なりの交友を持っていると、有瀬に誇りたかったのだろう。
これがまずかった。
不意に開いた教室のドア、出てきた数人の女子生徒のうち、一人が俺に気づいて小さく手を振った。
「……例えば、山佐葵、とか」
瞬間、俺はやってしまったと後悔した。背を向け歩いていく女子生徒たち、ショートカットの髪を揺らしながら隣を歩く友人と談笑する一人の生徒、俺の表情の変化。
有瀬祥子が見逃してくれるはずもなかった。
「ふーん。雛男ってあの子が好きなんだ」
すべてが崩れ去る音がした。