もう一度わたしと戯れて-Melty love-
[Part 1]
まだ四月だというのに真夏日とはこれいかに。
今日、そんなふうに天に問いかけ恨みがましい視線を送った人は、きっとわたしだけではないはずだ。
うだるような暑さは季節外れだからこそ体に堪える。だから仕事を終え、蒸し暑い電車に揺られ、駅を出たわたしは吸い寄せられるように行きつけのコンビニに入っていた。
店内に漂う冷たい空気は体の芯まで歓喜の振動を伝えてきたものだから、わたしは無意識で深いため息をついていた。熱くて濃い、まるで恋人との睦み合いの最中に漏らすようなため息を。
もう今日は何もしたくない。
食欲もあまりないから、夕食は冷蔵庫にある余り物を適当にで十分だ。
こんな暑い夜には、寝る前にすっきりとしたお酒を飲みたい。じゃないとうまく寝付けれないだろう。そうだ、さっぱりしたジンにたくさんの氷を入れよう。脳内でシンク下の棚を物色してみると、まだジンは指二本分は残っていたはずだと算段できた。
となると、今日はコンビニで買う物は特にないということになる。
「うわ……」
これではただ涼みに入店してきた嫌な客だな、と一人苦笑しながら入ってきたばかりのドアに向かうと、脇のアイスクリームのコーナーにふと目がいった。分厚いガラスの窓越しでも揺らぐ冷気が見えそうな庫内には、色とりどりの箱、カップが行儀よく並んでいた。
バニラにストロベリーにチョコレート。鉄板のフレーバーだけではなくチョコミントやきなこ味もある。カラフルなシャーベットは見るからにジューシーだ。
「ありがとうございましたー」
コンビニを出たわたしの手には、入る時にはなかった小さなビニール袋が下げられていた。
*
随分前のとある夏。
今日よりももっと暑い、正真正銘の真夏の夜。
恋人がわたしに向かってアイスクリームをすくった銀のスプーンを見せびらかしたことがある。
「ね。食べたい?」
問われ、わたしは素直に「うん」とうなずいた。
それはちょっと高級なブランドのもので、スプーンに載せただけの分量でもバニラの黒い粒がしっかりと見えるような類のものだった。
いや、うなずいた理由はそんなことではない。その日もとても暑くて、まだ付き合いたての恋人にもっと甘えてみたくて、それで「うん」と答えたのだ。
恋人はわたしの返事に満足そうに笑った。
そして――なぜかスプーンを自分の口に入れた。
「え? くれるんじゃなかったの?」
小さく開きかけていた口を閉じて唇を尖らせてみたわたしに、恋人は黙って笑みを深めた。そして少し茶色がかった目でわたしを見つめながら近づいてきた。硝子のローテーブル上に恋人がスプーンを置くと、星が砕けるような音が蒸し暑い室内に響いた。
残響の中、恋人はわたしに身を乗り出し、後頭部に手を載せると唇を塞いだ。
音が消えても口づけは続いた。
それは二人で交わしたキスがまだ片手もなかった頃のことで、当時もっとも情熱的なキスだった。
動揺と怯えにわたしの胸は正直に震えた。だがそれを打ち負かすほどの光悦に、ちっぽけなわたしは逆らうことをあっさりと放棄した。めくるめく煌きに満ちあふれた未知の世界は、どんな豪華な遊園地も、素敵なフェアリーテイルでもかなわない。初めてのことだからこそひどく興奮したことを覚えている。
長い時間をおいて、ようやく恋人は離れた。
「……どう? おいしかった?」
だが唇は離れたものの距離はいまだ近い。
後頭部にも大きな手が添えられたままだ。
わたしを見下ろす恋人の瞳の中、虹彩の細部まではっきりと見えた。
わたしは顔を赤らめ無言で見つめ返すほかなかった。
『おいしかった?』『それはもう!』そんなふうに率直に答えられるほど、当時のわたしは恋人にあけすけにふるまえなかった。心を開いてはいたけれど、最奥のヴェールはしっかりと着こんでいた。そうやって自分を着飾りたくなるような、まだ恋を始めたばかりの頃だったのだ。
だが恋人はわたしが返事をしないことを気にも留めなかった。それもそうだ、二人の距離はあまりにも近くて、潤んでしまった瞳も紅潮した頬も隠せるわけがない。わたしの心中もきっと、いや、絶対にお見通しだったろう。
「ね、おいしかった?」
いたずらっぽく目を細めた恋人は、もう完全にわたしを操っていた。
だからわたしは返事の代わりに自分からキスをした。
*
夜道を歩くわたしの手には、白くて軽いコンビニの袋が下げられている。
中には小さなバニラのカップが一つだけ入っている。
この道をわたしは恋人と幾度も歩いた。
最初の頃は二人してどぎまぎしながら。
しばらくしたら手を繋いで。
そして腕を組んで、時には肩を抱いてもらうようになって。
誰もいないのをいいことに道の真ん中で堂々とキスをしたこともある。
でも。
いつでも、どんなときでも、手に持つ袋はもっと大きくて重かった。
軽い袋が寂しさを引き寄せるようで、わたしは空を見上げていた。そこにはぽっかりと丸い月が浮かんでいた。だがあの月が欠けても満ちても、わたし自身は変われない。過去も、あの恋の結末も――。
アイスクリームを二人で味わったあの日。
最初は冷たくて甘くて恥ずかしかった。
けれど、次第にくすぐったくなった。
そして愉快で楽しくなった。
だから二人していつまでもキスをし合った。何度も何度もバニラのアイスを口に運び、そしたらすぐにキスをし合った。同じ味を、温度を、気持ちを、二人して同時に味わえる幸せに、わたしは蕩けきっていた。
なんて幸せだったのだろう――。
「会いたいよ……」
もうその望みはかなうことはない。
それを知っていながらも、わたしは気づけばつぶやいていた。
かさ、と、コンビニの袋が儚げな音をたてた。
[Part 2]
朝食には必ずヨーグルトをつけることにしている。
発酵食品はお肌にいいと聞いてから、この習慣を変えたことはない。
普段はプレーンのまま食べてしまうのだが、今日ははちみつをかけてみた。このところの寒暖の変化についていけなかったのだろう、風邪気味で起きた時から喉がいがらっぽかったからだ。
ああ、それだけが理由ではないか。
昨夜は久しぶりに過去の追憶に浸ってしまってなかなか寝付けなかった。なのでベランダで生ぬるい風にあたりながらぼんやりとした時を過ごしたのだが、それがよくなかったのだろう、月が右から左に動くさまを眺めている最中、小さなくしゃみが何度も出た。
透き通るような金色の液体がとろとろと純白のヨーグルトにかかっていく様を見ていたら、この部屋で恋人とはちみつで戯れた日のことを思い出してしまった。
また馬鹿みたいに過去という名の蔦にからめとられてしまったのである。
*
「わ、はちみつこぼしちゃった」
夏の朝はいつまでも寝ていられない。暑いしまぶしいし、それに寝ているくらいなら恋人と何かしていたい。寝てるだけなんてもったいない。――そんな風に思っていた自分はもう過去の別人だ。
いつものメニューで朝食を作る、そんな取るに足らないことでも、はちみつがちょっとこぼれただけでも、当時のわたしはすごく面白いことが起こったように思えていた。
わたしのそばにやってきた恋人は、硝子のテーブルにしたたり落ちた金の雫を見ると、長くて無骨な指できれいに拭った。
「なめてもいいよ」
ふふ、と笑いを含んだ声音で言ってみると、恋人はその指でわたしの二の腕に触れてきた。
そしてはちみつの付着したそこに舌を這わせた。
「……あ、うまい」
もうそのころには恋人から与えられる一つ一つの行為に胸が高鳴ってしまうようになっていたから、わたしは黙ってされるがままになっていた。朝でも昼でもかまわない、熱情という名のスイッチ一つで反応する単純な仕掛けが仕込まれていたのだ。
「ね、もっとやってみていい?」
こくんとうなずくと、恋人は少し茶色がかった目を細め、わたしの額に軽くキスをした。甘い余韻に浸っているうちに、恋人ははちみつをスプーンですくって指にのせた。そして、たっぷりのはちみつを使ってわたしのむき出しの肌をなぞりはじめた。
最初に少しひやっとし、そのあととろとろとした感触が肌の上を通り過ぎるのを感じた。それを丁寧にぬぐっていく恋人の硬い舌は――ただくすぐったいだけではない感覚を呼び起こした。本当に体は単純で正直だ。
「うん、うまい」
ようやく顔を離した恋人は、わたしの表情の変化に気づくと、ふ、と笑った。
「かわいい」
その瞳は変わらず柔らかかったが、声は少しかすれていた。
はちみつをなめたばかりなのにかすれていた。
「……ほんとかわいい」
恋人のはちみつのついた指がわたしの唇にそっと触れた。そして離れていった。ねっとりとしたはちみつはまさに離れていく恋人の指を引き留めるようで、わたしも思わず近づこうとしたところで――キスをされた。
*
ヨーグルトにかけたばかりのはちみつを人差し指で少し掬ってみると、とろりとした感触は予想どおりだった。次にそれを口に含んでみたが、舌に触れた甘さも、これまた予想どおりだった。
あれからよくはちみつを肌に塗られた。でもわたしはそれを嫌々されていたわけではなくて、それどころか恋人がはちみつの瓶を手に取るたびに上気していた。そんなわたしのことを恋人は愛おしそうに見つめ、心ゆくまで戯れてくれた。
思い出しながら指についたはちみつをなめていたら、ふわ、と体が浮き上がった。
それに気がついた途端、どうしようもなく泣けた。
こんなふうに簡単に熱を帯びてしまえるようになったのは、恋人だったあの人のせいだ。
アイスクリームも、はちみつも。
まるで条件反射のように、舌が、体が覚えてしまった。
他にもいっぱいある。
あの人と戯れた物はいたるところにある。
毎日毎日、そうやって誰にも言えない秘密の遊戯を楽しんでいたのだ。
「ねえ……」
何を見ても何をしても、ついあの人のことを思い出してしまう自分。そのたびに寂しくなる自分。でもそれ以上に、独りきりの今が苦しくて。
「ねえ、もう一度だけでいいから……」
はちみつの瓶が日差しを受けてきらりと輝いた。
それは白く淡い光を放った。
過去そのものの色をした光で室内のすべてが照らされた。
了
(作者:アンリ)