缶コーヒーと逃避行
「……どっか逃げちゃおっか」
彼女の声は明るく、だけど、見つめている目は涙が孕んでて、思わず僕は、
「うん、行こっか」
そう言うしかなかった。
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高校を入学してからもう十一月。
そう、もう十一月。
彼女なんてできもしないで、夏休みが終わったのに、またすぐに冬休みが来てしまう。
相変わらずの玉砕が続いているなか、幼馴染の東は落ち込む僕を見て、ひたすらに笑っている。
「徹、またあんたフラれたの?」
彼女は目尻に滲んだ涙をぬぐいながら、今年に入って四度目の同じ言葉をかけてきた。
「また、っていわないでよ、またって。
東こそ、どうなんだよ」
「あたしは別に彼氏なんてどうでもいいし」
「うそつけ」
「あたしは勉強が忙しいんで」
彼女のこの言葉にはうそはない。
彼女は医者になるべくこの学校に来たのだ。
僕はただの推薦入学。
同じ学校でも特進科と普通科では、雲泥の差。勉強量もひどい違いだ。
「あんた惚れやすいんじゃない?」
話を変えたいのか、また僕をいじろうとしているのか、僕の鼻をつつきながらそう言った。
「これでも僕は駆け引きしてるよ」
「女に尽くすばかりがモテる秘訣ではないよ」
「何知った口を」
「断られたのさ、
『徹君は優しすぎるからトモダチで』
とか言われたんでしょ?」
「……聞いてたの?」
「これ、またじゃん……
あ、ね、昨日の特番みた?」
「ああ、心霊特集?」
「そうそう、それのさ」
バス停から少し離れたベンチに腰をおろし、二本遅らせて僕らは帰る。
熱い缶コーヒーを買い、手袋越しにぬくもりを感じながら、そうやって時間を過ごし、バスに乗ったら会話することなく最寄りのバス停へ。
降りたらお互いに手をあげ、「したっけ」呪文のように呟いて家へと向かう。
お互い背を向け歩きだすが、バス停から家までの距離は、どちらもあまり変わらない。白く濁った空気を頬にまとわりつかせながら鍵を開けて家に入っても、きっと僕たちは背を向けたままなんだろうと、よく思う。
家に着いて真っ黒な太い猫を撫でながら、もうすぐ二年生になってしまう。
そう思うと何かに焦る気持ちが湧いてくるが、猫を三回撫でさえすれば、そんなことも消えてしまう。
本当は消えてはいけない。
消してはいけないのに。
毛を撫でることでその気持ちを消している僕がいる。
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今日は一段と冷え込んだようだ。
ガラス一面に霜が張り付いて、結晶の模様が透けて見える。
陽が当たり、小さな煌めきを眺めていると、ガラスが透けていく。
溶けているのだ。
まるで形のないものを美徳にしているような、そんな気分になる。
結局、人は死ぬ。
何をどうしても、死ぬ。
だから、僕は何事にもやる気がない。
みんな朝起きたら耳が聞こえなくなっていたりするかもしれないのに、そんな未来なんて全くないと思っている。
インハイのスタメンの生徒だって、明日には怪我をして出られないかもしれない。
もしかすると誰かの飲酒が見つかって、部活が活動停止処分になるかもしれない。
だけど、誰もそんなマイナスの未来を信じていない。
まるでないと思ってるぐらいだ。
そのくせ、死んだら霊になったりするんだから、タチが悪い。
きっと彼女ができないのも、このせいなんだろう。
僕にとっては、彼女を作る作業は部活と同じ。
すべて見栄と虚像と夢とのせめぎ合いだ。
「おはよう、徹」
マフラーで口元を隠した東が声をかけてきた。
「東、おはよ」
「なんか元気なくない?」
「寝不足だからじゃない?」
「なんであんたが寝不足なのよ」
「僕だって寝不足の日だってありますよ」
「そ」
いつも彼女は僕の右を歩く。
どこかで見たけど、右を歩くのは主導権があるから、だとか。
確かに僕は彼女の尻にしかれていると思う。
それを面白がるやつもいるけど、僕はこれでいい。
「徹、私の肩になにかついてる?」
「ん? いいや。
あ、あれバス来てるんじゃない?」
「走るよ、徹!」
急に僕の右手首が掴まれた。
手ではないのがまた彼女らしい。
息を切らしながらバスに乗り込むが、二人で目を合わせて微笑んだあとは、一言も喋らない。
そう。
僕らの関係は、そういう関係なのだ。
昼休みの最中、
『ちょっと本屋つきあって』
東からのメッセが入っていた。
彼女からのお願いは珍しい。
いつものバス停で待っていると、手を振りながら彼女が駆けてくる。相変わらずマフラーは完備してるが、手袋ははめていない。指の先が赤いのが遠目でもわかる。
「待った?」
「いいや。一〇分ぐらいかな」
そう言いながら、さっき買った缶コーヒーを手渡すと、柔らかい表情で微笑んだ。
「ありがと。これ美味しいよね」
彼女は手のひらで包み込むように缶を転がしてから、さっそくと飲み始める。
「東、バスで行く?
それとも歩いていく?」
「寒いけど、今からだともう一本待たなきゃいけないから、歩こうか」
彼女は先頭を歩き始めた。缶コーヒーをすすりながらのせいか、歩幅が狭い。
だが飲む込むたびに白さが際立った息が彼女から流れてくる。
「……ね、徹、」
「ん?」
「あんた、夢とかある?」
前を歩いているため、顔は見えない。
唐突な質問に声が詰まるが、
「……ないかなぁ」
「そぉだよねー」
彼女の背が低いからか、彼女の先の景色も見ることができる。
視界の底辺でちらちらと現れる髪が陽の光に照らされて輝いて見え、まるで今日の霜の窓のようだ。
「徹、」
「んー?」
手元のコーヒーはすべて飲み終わってしまったので、どこか捨てる場所がないか見回しながら返事をした。
「なんかぁ、夢おいかけるのって体力いるね」
「そうなんだね」
適当に返したのがわかったのか振り返った彼女は、
「ねぇ、
……どっか逃げちゃおっか」
彼女の声は明るく、だけど、見つめている目は涙が孕んでて、思わず僕は、
「うん、行こっか」
そう言うしかなかった。
逃げれるわけないのに。
彼女の足は止まり、振り返った顔はうすら笑っている。
嘲笑したそんな顔だ。
「あんたなら、そう言うと思った」
だからあんたは彼女がいないんだよ。
そう声が続く。
「あんたは逃げれないことわかっててそういうこと言う。
そして、一緒に逃げもしない。
それは優しさじゃない」
「うん」
僕は何もかもに期待をしていない。
期待をしていないのだから、何も求めない。
きっと僕の将来は誰かの些細な一言で決まって、それで進んでいくのだ。
「……あんた見てると、自分が馬鹿らしくなる」
「なんで?」
「何も考えてないから」
「僕なりに考えてるよ」
「諦めてるだけじゃない」
「期待をしてないんだよ」
「ううん、今を生きてない」
今を生きていない————
妙に納得できるフレーズだ。
「秀才がいう言葉は説得力があるね」
笑いながら答えると、鋭く睨んだ目が返ってきた。
「また馬鹿にして」
「違うよ」
「何がよ」
「僕は東のこと、尊敬してるよ。
だって一〇年、二〇年先のこと見てるんだろ?
僕は今すら見てない。
だいたい僕は頭がそれほど良くない。
だから選択肢は狭い。未来もそれほど多くはない。
けど、東はいざとなれば、何にでもなれるじゃない」
「医者以外になれるわけないでしょ」
「なんで?」
「なんでって……
うちがどういう家か知ってるでしょ?」
「知ってる。
でも、
選ぶのは、東だから」
俯いた東の手首を握り、
「さ、本選んだらパフェでも食べて気分変えよう」ゆっくりと歩き出すと、彼女もゆっくりとついてくる。
「……ぎって」
「ん?」
「だから……」
「なに?」
「ちゃんと、手、握って!」
いきなりの大声に驚き、勢いで握るが、東の顔は俯いたままだ。
「……泣いてるの?」
「うっさい!」
手袋をはずし、彼女の手を握って自分のコートのポケットへと突っ込んだ。
「こうしたほうがあったかいから。
東も手袋ぐらいしたほうがいいよ」
彼女の手は小さくて、細くて、柔らかくて、氷のように冷たかった。
しばらくすると、少しずつ僕の熱が彼女の皮膚に溶けていく。
しっとりと、ポケットの中に熱がこもり始める。
「……ね、こんなとこ見られたら勘違いされるから」
唐突に手が引き抜かれそうになるが、僕はそれを男子の力で引き止めた。
「特進が普通科と一緒に歩いてるとからかわれるの?」
「そーじゃなくって!」
彼女の心の波は激しい。
泣いたり笑ったり、怒ったりと忙しいようだ。
「僕、わかんないんだ。
いつ死んでもいいと思ってるし、
なにも夢がないから。
だけど、東の夢だけは、叶って欲しいんだ」
「……なんで?」
「わかんない。
ずっと見てるからかな」
そう、僕の代わりに、生きている。
きっと僕は東を通して、夢や将来を見ていたのかもしれない。
だからこそ、僕にはなにもなれるものがないと思っていたのかもしれない。
すべて仮定で想像でしかないけれど、きっとはっきりとした目標をもった人がこんなに近くにいたせいで、僕の未来が霞んで見えたんだろう。
本当はもっと立体的で、見通しも良くって、僕なりになにかができるのだと思う。
でも僕は早々変わることはない。
また太った猫を撫でて、焦る気持ちをなだめて消すんだ。
「ね、徹、カウンセラーとかなったら?」
「……は?」
「何事にも興味がないから、きっといつでも平常心で的確な判断、できるんじゃない?」
そんな職種もあったな。そう思うが、共感力とか必要なんじゃないのか?
もっている限りのイメージで想像してみるが、あまりぴったりとはこない。
「カウンセラーになれば、私と一緒に働けるかもね」
弾んだ声で僕の腕に絡みついた彼女だが、見上げた瞳はまっすくで、真剣だ。
「そうなったらいいね」
「またそうやって逃げる!」
彼女が怒るが、実は彼女の怒った顔は嫌いじゃない。だからいつも、少しだけ天邪鬼なことを言うのかもしれない。
「じゃ、僕、カウンセラー目指してみようかな」
「……え?
ええっ?」
「秀才の君が言うんだから、間違いないんじゃないかな」
そう、僕は些細な誰かの一言で将来を決めるのだ。
きっとたくさんの逃避行を繰り返して、どこかに僕らは着地するのだろう。
それはどこかは、まだわからないけど。




