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狂乱来襲1

 誰かに頬を優しく突かれ、クロウは眠りから覚めた。

 ベッドに横になった彼を、一人の女が笑みを浮かべて見下ろしていた。長く伸びた茶髪が肩から落ち、着崩れた胸元から豊かな乳房が覗いていた。

 歳は25才ぐらいだろう。

 しかし、初めて会った時から彼女は25才ぐらいに見えた。

 王都に出てきてからの長い付き合いだったが、彼女の本当の歳はクロウも教えてもらっていなかった。

「クロウ。もう行かないと、ヒロちゃんが出発しちゃうわよ」

 悪戯っぽく女が言う。

「もうそんな時間か」

 クロウはベッドから起き上がり、室内のあちこちに脱ぎ捨てていた服を、脱いだ時と逆の順番で拾い上げ、身に着けていった。

「何か飲んでく?」

「いや、いいよ。ありがとう、カカ姉」

 クロウはそう言って飲み物を用意してくれようとしていた彼女と軽く唇を重ねた。そして部屋を後に、娼館から通りへと出た。


 駆け足で、彼自身の借家に近いヒロの借家に行くと、既に出立の支度を整えたヒロと、クロウの妹であるリムが玄関の前で抱擁しているところだった。二人の側にはやはり出立の支度を整えたヒロの父親が所在なげに立っていた。ヒロの本家で不幸があり、急に二人で故郷のカナルリアに帰ることになったのである。王都に戻って来るのは、およそ10日後の予定だった。

 ヒロの父がクロウに気づいて手を上げた。

 血の繋がりは薄いものの、クロウとヒロは同族であり、当然彼女の父親とも昔からの顔馴染みだった。

「おはようございます、小父さん」

「おはよう、クロウ」

 ふとクロウは、足元に置かれたヒロの父親の荷物に目を向けた。

 荷物の上に一冊の魔術書が不自然に載せてあった。

「小父さん、それは?」

「ああ。さっき、知り合いから預かってね。仕方ないんでこのまま持って行こうと思っているんだ」

「オレが預かりましょうか?」

「いや、いいよ。私も内容に興味があるからね」

 ヒロの父親は神官補である。しかし、魔術については神殿の誰よりも造詣が深かった。それで預かったのだろうとクロウは了解した。

「ちょっと待っててね、ヒロ姉さん」

 抱擁を解いたリムがヒロに話しかけ、クロウを振り返った。クロウに似た藍色の瞳に、はっきりと怒りが浮かんでいた。

 リムの身長は170cmに届いているはずだった。15才になって数ヶ月。可愛いと言うよりは、美人タイプだ。クロウやヒロと同じ赤い髪をしており、同族ということもあって、リムはヒロと姉妹のようによく似ていた。

 その妹が、彼を睨み付けたまま歩み寄って来た。

 クロウの前で足を止めたリムの拳が、クロウの腹に叩き込まれた。まったく手加減なしの渾身の一撃である。肉を殴る低い音が響き、ヒロに隠すようにしてはいたが、リムがクロウに一発入れたことは、ヒロにもすぐに判ったはずだった。

「手荒いな、リム」

 クロウはまったくいつもの口調で妹に話しかけた。逆にリムの方が痛そうに手を振っていた。

「昨夜はどこに行ってたのよ、バカ兄貴」

 リムがクロウの耳に囁く。

「いつものところ」

 からかう様な軽い口調でクロウが言う。形のよいリムの眉が、更にきりきりと吊り上がった。

「信じらンない!ヒロ姉さんの出発のこと、知ってたンでしょ?!」

「もちろん。だからここに来たんだろ?」

「バカにつける薬はないって言うけど、ホントね!チィ兄は、ヒロ姉さんに悪いとか思わないわけ?!」

 クロウは少しだけ考え、迷いのまったくない目で妹を見返した。

「少なくとも罪悪感はないな」

「死ね、バカ!」

「ヒロなら判ってくれるさ」

「まさかそんなこと、ヒロ姉さんに言ったりしないよね」

「そこまで馬鹿じゃないさ。そろそろヒロに挨拶させてもらってもいいか、リム」

 怒りが収まらない様子でリムが低く唸る。しかし、渋々ながら彼女は脇に避けて道を開けた。

「お待たせ、ヒロ」

「ホント、かなり待ったわ」

 歩み寄るクロウに、腰を手に当ててヒロが言う。

「門番の子鬼がなかなか通してくれなくてね」

「あら。ズイブンと可愛い子鬼ね」

 クロウはヒロを抱き締めようと腕を伸ばした。

 ヒロも笑顔でクロウに歩み寄り、素早く無防備な彼の鳩尾に拳を叩き込んだ。リムと同じく渾身の一撃である。

「……ヒロの拳は効くなぁ」

 わざとらしく腹を押さえて、苦しそうな声でクロウが言う。

「年季が違うもの」

 笑ってクロウに近づき、腰を折って低くなった彼の頭を両手で挟んで、ヒロは彼の額に軽く口づけをした。

「それじゃあ、行ってきます」

「ああ。気をつけてな、ヒロ」

 彼女の額に口づけを返した後、クロウはヒロの父親を振り返った。

「父と姉に宜しく伝えておいてください。リムは手に負えないほど元気ですって」

「ああ。伝えておくよ」

 ヒロの父親が笑って応じる。駅馬車の駅舎に立ち去っていく二人を見送り、クロウとリムは彼らの借家へと足を返した。

 酒場で姫巫女から神託を聞いてから、既に3日が過ぎていた。


「リム、御神託について神殿の方で何か動きはあったか?」

 風士候補生の制服に着替えながら、クロウはリムに訊いた。

 神殿に行くにはまだ時間があるからと、遅めの朝食を取っていたリムが座ったまま首を振った。

「全然。『完璧な世界』を探せって言われても何のことかさっぱり判らないから、みんなで首を捻ってるだけ」

「手がかりはなし、か」

「うん」

「破棄せよ、と言うからには魔術書か何かって感じだけどな」

「そう思っている人も多いみたいだけど、該当しそうな魔術書はないみたい。大いなる災禍っていうのも具体性に欠けるしね。うちだけじゃなくて東ナリス皇国にも災禍が降りかかるって、どんな災いなんだよって感じ。

 軍の方はどうなの?チィ兄」

「神殿と同じでみんな右往左往しているだけだな。毎日、上の人たちが結論の出ない会議をムダに開いているよ。王都の守りを強化するか、もしくは東との国境の警備を増やすか。それとも、西と東、両方の災禍と言うことは、東と協力して北の大国の侵略に備えるべきなのか。

 まだ何も決まってないな」

「ま、そうだろうね」

「六族をはじめとする豪族たちは豪族たちでいろいろ動いているらしいけど、あっちが何をしているかは判らないしな。

 姫巫女様は、あれからお変わりないか?」

「そっちは問題なし。御神託の内容についてずっとお悩みらしいけど」

「そうか」

「ねぇ、チィ兄。『完璧な世界』って何だろうね」

「さあな。風神様が破棄しろとおっしゃるんだ。ロクなモンじゃないだろうな。そもそも完璧なんてモンを求めると大概ロクなコトにならないし、それがだ、よりによって『完璧な世界』なんてよ、聞いただけで息苦しくって、オレはゴメン被りたいね」

「あのね、チイ兄」

「どうかしたか、リム?」

「うん。あたしの神官見習の友達がね、『完璧な世界』って、ヒトのいない世界じゃないかって言ったの。そうすれば争いもなくなって、神々は静かに調和を保って生きていけるって。

 あたし、なるほどと思っちゃった」

 クロウは支度の手を止めて妹を振り返った。

「気にしてンのか?」

「良くない考えだよね?」

「そうだな。でもな、リム。誰だって一度や二度はそんなことを考えちまうモンだ。もちろんオレだって、ちょっとぐらいはな。ただ、リムはそれを良くない考えだって思ってんだろ?

 だったら何も問題はないよ」

「うん……」

「オレはお前やヒロがいない世界なんて真っ平だけどな。お前もそうなんだろ?ディオンがいない世界なんて真っ平だって思ってんだろ?だったら大丈夫だ。だから気にすんな、リム」

 リムはしばらく考えた後、顔を上げて頷いた。

「判った。もう、気にしない」

「よし。じゃあオレはもう行くぞ。悪いが、何か神殿で動きがあったら教えてくれ」

「うん。気をつけてね、チィ兄」

「お前もな」

「うん。いってらっしゃーい」

 座ったままリムが手を振るのに軽く応えて、クロウは自宅を後にした。

 風士候補学校は城壁内の一角、王軍の施設の中に設けられていた。クロウとリムが住む借家は家賃の安さから城壁の外にあり、クロウはいつも30分近くかけて徒歩で風士候補学校まで通っていた。

 風神が下した神託は、既に神殿を通じてすべての国民に知らされていた。

 その影響からか、選王会議に浮き立っていた街が少し沈んでいるようにクロウには感じられた。ただそれが、直接自分が神託を聞かされたことによる気のせいなのかどうか、クロウにはどちらとも判断することはできなかった。

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