風神の神託6
風神は、深い思索の中に沈んでいた。
西ナリス王国の王都の神殿の奥、風神の御坐である。
もっとも彼がそこに、現身として存在していた訳ではない。風神は彼を祀った国内外すべての神殿に遍在していた。現在はその主体を、西ナリス王国の王都の神殿に置いている、というだけである。
東ナリス皇国の守護神である大地母神も同様だ。
彼女もまた、彼女を祀った国内外すべての神殿に遍在していたが、現在の主体は、東ナリス皇国の帝都の神殿に在った。
西ナリス王国と東ナリス皇国の両国に、不吉の予感があったのである。
遠い西国にある”全ての神々を祀った神殿”で、風神と大地母神は直接意識を交感させ、お互いが見た未来について摺り合わせを行っていた。
神と言えども、多岐にわたる未来を確定的に見るのは難しかった。
しかし、様々な可能性を検討し、どんなに枝を整理しても、不吉を阻止することは難しいと、長い交感ののち二柱の神は結論を下した。
誰もいない西ナリス王国の王都の神殿の奥で、風神は深い思索から目醒めた。
同じ頃、場末の酒場でヒロが姫巫女に問いかけていた。
「姫巫女様、姫巫女様もそろそろ神殿にお帰りになった方が良くありませんか?」
姫巫女はジョッキを口にしてはいたが、けっして呑みすぎることなく、褐色の頬をほんのりと赤く染めていた。
「そうですね。そうしましょうか」
「オレとヒロで送りますよ」
クロウが立ち上がる。
「お願いします、クロウ」
そう言って立ち上がり、ファスとディオンに礼を言おうとした姫巫女の動作が、不意に止まった。
姫巫女の視線が虚空に止まって焦点を失い、口角が徐々に下がっていく。酔いに染まっていた頬からは赤味が薄れて、元々の褐色へと次第に戻っていった。彼女から人間らしさが抜け落ち、代わってどこか神々しさが彼女の面に表れていた。
栗色だった姫巫女の瞳が、内側から輝き始めていた。
ヒロは息を呑んだ。実際に見るのは初めてだったが、彼女は、何が起ころうとしているのか骨身に沁みるほどに良く知っていた。
「みんな、風神様の御神託よ!」
あっけに取られるクロウ達に声をかけ、ヒロは誰よりも早く床に跪いて頭を垂れた。風士候補生たちも赤い顔のままあたふたと彼女に続いた。ガタガタと椅子の引かれる音の後、沈黙が酒場に落ちた。
陸士候補生たちはジョッキを手にしたまま、酒場の主人は酒場の奥で、ぽかんと口を開いて姫巫女の小さな背中を見つめていた。
「『完璧な世界』を探せ」
姫巫女の細い喉から発せられたとは思えないような太い声が、殷々と響いて風士候補生と神官見習の上に落ちた。
「『完璧な世界』を探し出し、破棄せよ。さもなくば、大いなる災禍が西ナリス王国に降りかかるであろう」
「御神託、確かに享け、賜わりました」
頭を垂れたまま、形式張ってヒロが応える。
意味を問うことは厳禁だ。
神託はただ一方的に告げられるのみである。
姫巫女は黄金色に輝く瞳をヒロに向けて頷くと、唖然とする陸士候補生のテーブルへと足を向けた。ヒロがためらうことなく彼女の後を追い、足を止めた姫巫女の足元に再び跪く。
「あなた方にも、大地母神様から御伝言があります」
姫巫女は依然表情のないまま、陸士候補生に向かって言った。
ただしその声は、姫巫女その人の声だった。
「『完璧な世界』を探し出し、破棄せよ、と。さもなくば大いなる災禍が東ナリス皇国に降りかかるであろう、と。
確かにお伝えしましたよ」
表情のなかった姫巫女の口元に笑みが浮かぶ。
そして彼女は、足元からくたりと崩れ落ちた。そうなることを見越して控えていたヒロが素早く立ち上がって、姫巫女を後ろから支えた。
「クロウ!」
呼ばれるまでもなくクロウは駆け出しており、西と東、両方の候補生たちの上げる幾つもの声が酒場に響いた。