エピローグ2-2
「まず前提としてだけどね、物質ってどこまで分解できるって考えられていたっけ。こっちでは」
「えーと。こちらでは、分子は原子から出来てて、原子は原子核と電子で出来ているって考えられてるよ」
「で、基本的な力としては、電磁気力と重力があるんだったよね」
「うん」
「オレの世界ではもう少し分解できるって考えられていてね。原子核は、プラスの電荷を持ったひとつ以上の陽子と、電荷を持たない中性子で構成されているって考えられているんだ。この陽子と中性子の組み合わせで、水素や鉄なんかの元素が作られているって。
でね、陽子や中性子も、もうひとつ小さなクォークという物質で作られているって考えられてる」
「でもさ、アキラ。ひとつ以上の陽子って言ったけど、プラスの電荷を持った陽子同士がどうやってくっついているの?重力?」
「重力は素粒子同士をくっつけるのには弱すぎるよね。だから、自然界の基本的な力として、電磁気力や重力とは別に、陽子や中性子をくっつけてる強い相互作用という力があるって考えられてる。あくまでも、原子核といった狭い範囲でしか働かない力がね」
「へー」
「力としてはね、他に弱い相互作用という力も存在するって考えられていて、この力は中性子を、陽子と電子、それにニュートリノっていうごく僅かな質量しか持たない素粒子に崩壊させることが出来るって考えられているんだ」
「ちょっと複雑になってきたね」
「そうだね。まず力についてまとめれば、自然界の基本的な力は4つあって、身近に感じる力としては重力と電磁気力。原子核内といった日常的に意識することはほとんどない力として強い相互作用と弱い相互作用の4つが存在しているって考えられてる。
一方、物質をどんどん分解していくと、分子、原子、原子核と電子、陽子と中性子、更に3つのクォークまで分解できるって考えられてる。
ここまではいいかな?」
「うん」
「じゃあ、それを念頭において、次は質量の話」
「うん」
「例えば、オレの体は分子で出来てるよね。だから、オレの体の分子をすべて数えてその質量を足し合わせれば、オレの質量そのものになる」
「当然だね」
「次に分子は原子で出来てる。だから分子を構成する原子を数えてその質量をすべて足し合わせると、分子の質量になる。これも当然だよね。じゃあ、原子は原子核と電子で出来てるけど、電子は陽子や中性子に比べると質量が小さすぎるからほとんど無視出来て、陽子と中性子の質量を足した質量が、原子の質量になる。
これもいいかな?」
「うん」
「さっき、陽子と中性子は3つのクォークに分解できるって言ったけど、普通に考えると、3つのクォークの質量を足したものが陽子の質量になる、って考えるよね」
「そうじゃないの?」
「3つのクォークの質量は、陽子や中性子の質量のうちの20%程度に過ぎないって言われてるんだ」
「それじゃあ、残りの80%は何の質量なの?」
「強い相互作用そのもののエネルギーだって」
「えーと。どういう意味かな?」
「E=mc^2って式、前に説明したよね。質量とエネルギーは等価だって。あの時、質量とエネルギーは互いに変換できるって言ったけど、オレらの体を作っている物質の質量の80%はエネルギーそのものの質量だってことだよ」
「そんな、馬鹿な」
呆れたようにナーナが言う。
彼女の言葉を否定することなく、アキラも頷いた。
「ホント、そんな馬鹿な、だよね。オレだってそう思うよ、こうして話してても。でも、これからもっと、そんな馬鹿なって話が出て来るから」
「ちょっと待ってね」
ナーナが顔を伏せてうーと唸る。アキラの話を彼女なりに咀嚼しているのだろう。しばらくぶつぶつ言っていたが、やがてナーナは顔を上げた。
「いいよ。続けて、アキラ」
「うん。でね、残りの20%分のクォークの質量なんだけど、何故クォークには質量があるんだろうと考えた人がいるんだ。ナンブヨウイチローという魔術師なんだけど」
「変なことを考える人だね」
「そうだよね。あるものはあるでいいんじゃないかと、オレなら思うんだけどね。物質に質量があるのがまだ問題になっていない頃にそれを考えていたっていうのがまた、この人のスゴイ所なんだけど。
この人の考えたことが、また突拍子もなくてね。これが第一の自発的対称性の破れ。ま、本当は第一も第二もないけど、便宜上、そう言うね。
それと、対称性というのがどういったものかも後で説明するよ。
話を続けるとね、ナンブヨウイチロー先生は、クォークと反クォークが対になってボース・アインシュタイン凝縮という現象を起こして、真空中に沈殿するって考えたんだ」
「なんだかもう、良く判らない」
「だよねぇ。ナンブヨウイチロー先生がそう考えたきっかけは、超伝導と同じ様なことが真空中でも起こっているんじゃないかってことだったらしいけど、天才の考えることはよく判らないよね」
「一応聞くけど、超伝導って何?」
「簡単に言うと、金属の温度を下げていくと、電気抵抗がなくなって電流がずっと流れ続ける現象のこと」
「うーん」
「真空っていうと何にもない状態だって考えるけど、そうじゃなくて、エネルギー最低状態のことだって、どうやってもそこからエネルギーが汲み出せない状態が真空で、そこに、クォークと反クォークが対になって沈殿しているって、ナンブヨウイチロー先生は考えたんだ。
実際にナンブヨウイチロー先生がこの説を唱えたのはまだクォークが発見されていない頃だったらしくて、陽子と中性子の質量の起源を説明するために考えたらしいんだけど、そのままクォークに当て嵌めても問題ないらしい。
でね。クォークの質量というのは、この真空中に沈殿したクォークと反クォークの対と、真空を進むクォークが反応することによって生じる動きにくさが、その正体だって」
「動きにくさが質量の正体?」
「うん」
「真空に何かが埋まっているって?」
「うん」
「嘘だよ。アキラには悪いけど、信じられない」
「当然そうだろうね。でも、ナンブヨウイチロー先生はそう考えてて、クォークと反クォークが対になって沈殿している真空が、クォークに質量を与えて、カイラル対称性を破っている、だったかな。これが、第一の自発的対称性の破れ」
「はあ」
「でもね、この理論でも、クォークは元々小さな質量を持っている必要があるらしいんだ。その元々の質量がどこから発生しているのか、ナンブヨウイチロー先生の理論では説明できてなくて、他にも、電子やニュートリノなんかも、本来は質量がないんじゃないかって言われてる」
「うーん」
「その質量の起源になっているのが、ヒッグス場」
「またまた新しい言葉が出て来たね」
「うん。このヒッグス場も怪しげな考え方でね、理由はすっとばして、とにかく真空にはヒッグス場が満ちていて、このヒッグス場の影響で、クォークの元々の小さな質量や電子の質量が発生してるって言われてる。
最初はあまりにも都合が良すぎる理論だったから信じる人は少なかったけど、ヒッグス場が存在している証拠としてヒッグス粒子が見つかったりして、今では魔術師のほとんどが信じているよ。
このヒッグス場が、自発的対称性の破れを引き起こすんだ」
「アキラがさっき言った、第二の、だね」
「うん。順番は逆かも知れないし、本当は第一も第二もないし、他にも自発的対称性の破れはいろんなところで起こってるらしけど、質量の起源については、この二つの自発的対称性の破れが起源になってるって考えられてる」
「『完璧な世界』の術は、その自発的対称性の破れを修復しているんじゃないかとアキラは思うんだね?」
「そう。もしそうだとすると、術が発動すると、物質は質量をなくして、電子の軌道は無限大になって原子として存在できなくなる。質量がなくなった物質は光の速度でしか動けなくなるから、あっという間に飛び去ってしまうんじゃないかな。
ひょっとすると真空に沈殿したクォークも物質ではいられなくなってしまうのかも知れない。
だとしたら、これはもう、時空間そのものが破壊されたと言ってもいいよね」
「それが起こったって言うのね?」
「うん」
「ちょっと待ってね、アキラ。頭を整理するから」
「いいよ」
ナーナが黙って考え込む。
ふと見るとヴラドはウツラウツラとしていて、フランも大きく欠伸をしていた。
「フランさんは判りますか?」
フランがうーんと考える。
「そうねえ。見習君の言ってることは聞いているし、全部覚えてもいるけど、判ったかと問われると、全然判らないって感じねぇ。
でもホントは、見習君もそうなんでしょ?」
「バレましたか。オレも、判っているかと訊かれたら、全然って答えますよ。言葉の意味も判らずに覚えているだけだって」
「なんだ。アキラもそう、なのか」
ナーナが安心したように言う。
「そう。だから判ったなんて言わない方がいいよ、ナーナ。説明しているオレの方が、ホントは判ってないんだから」
「じゃあ続き」
「うん。それじゃあ、自発的対称性の破れって言うけど、改めて、対称性ってなんだってことになるよね」
「うん」
「対称性というのはね、数式的な美しさなんだ。これは、ナーナやフランさんの方がよく判るんじゃないかな」
「並進対称性や回転対称性のこと?」
「そう。小さな世界を扱う方程式としてね、シュレーディンガー方程式っていうのがあるんだけど、この方程式はアインシュタインの特殊相対性理論の考えを満たしていなかったんだ。そのシュレーディンガー方程式を元に、ディラックという魔術師が特殊相対性理論の考えを満たした方程式を考えたんだ。
ただ、対称性という美しさだけを手がかりにしてね」
「へー」
「シュレーディンガー方程式は、どっちがどっちか忘れたけれど、空間と時間の次元が一致していなかった。それをディラックは一致させて、ディラック方程式という方程式にまとめたんだ。
オレにはさっぱりだけど、魔術師たちはディラック方程式を見ると涙が出るぐらい美しいって感じるらしいね」
「……狂乱も、そんなことを言っていたわねぇ」
「でね、このディラック方程式を解くと、プラスの電荷を持つ電子、陽電子の存在が予言されてて、何年か後に実際に陽電子が観測されたそうだよ。それで、ディラックは、自分が考えた方程式は、自分より賢かったって言ったって伝えられているよ」
「陽電子。そんなのあるんだ」
「うん。そういうこともあって、理論を構築するのに対称性というものが重要視されるようになって、次にゲージ対称性という対称性に従って理論が構築されたんだけど、ここで大きな障害にぶつかってね。ゲージ対称性に従うと、力を伝える粒子が質量を持っちゃダメッてことになるんだ」
「でも、質量は存在しているよ」
「今、ナーナが言っているのは多分、物質の質量のことだよね。そうじゃなくて、力を伝える粒子。あっちではね、電磁気力や重力といった力を伝えるのも粒子だって考えられていてね。問題になったのは、弱い相互作用を伝える粒子で、WボゾンとZボゾンっていう粒子。
弱い相互作用の到達距離の短さから、この二つの粒子がかなり重いのは確実なのに、対称性から導き出した理論によれば、この粒子には質量が存在しないことになっちゃう。
更に困ったことに、実験によると、弱い相互作用は右と左を区別しているってことが判って来たんだ」
「右と左って?」
「話せば話すほど複雑になっていくけど、素粒子にはスピンという性質があってね、右巻きとか、左巻きとか。このスピンが異なると、電子が同じ軌道に存在できるとか、いろいろあるんだ。単純に回っているってだけじゃないみたいで、1/2スピンとか現実の世界とは異なる概念みたいなんだけど、オレにもよく判らないな。
とにかくね、弱い相互作用は素粒子の右巻きと左巻きを区別しているんだよ」
「物理法則が右巻きと左巻きで異なるの?」
「そう」
「信じられないって言うのも飽きてきちゃったよ」
「その意見にはオレも同意するよ。
ここで重要なのは、右巻きと左巻きが区別できるってことは、その物質は光の速度で飛んでいないといけない、つまり、質量があってはいけないってことなんだ。なぜなら、光の速度以下で飛んでいるとしたら、その素粒子よりも遅く進んでいる場合と、その素粒子よりも早く進んでいる場合で、回転は逆方向に見えるはずだから。
つまりね、この世界の物質は、本質的には質量がないってことに繋がるんだ」
「うーん。なるほど」
「こうした矛盾を打ち破ったのが、ナンブヨウイチロー先生の自発的対称性の破れって考え方。クォークと反クォークが対になって沈殿している真空が、自発的に対称性を破って、物質が質量を持つようになった。同じように、--こちらはナンブヨウイチロー先生が考えたことじゃないけど、--自発的に対称性を破るヒッグス場によって、WボゾンやZボゾンに質量が与えられたって」
「ふーん、としか言いようがないかな」
アキラは笑った。
「一般相対性理論を説明した時にも言ったけど、数式が判らないオレが、数式の載っていない本やなんかでこういうことかなぁ、って自分なりに理解したことだから、まったく間違っているかも知れないしね。
ま、あくまで参考ってことで」
「いいわよ、見習君。『完璧な世界』の術は自発的対称性の破れを修復している。そういうことにしときましょ。それなら、『完璧な世界』っていう術の名の意味も、『破れの修復の試み』っていう言葉の意味も判るしね。
自発的対称性の破れっていうのが、やっぱりよく理解できないけど」
「ええ。自発的対称性の破れを修復することで世界が数式的な完璧さを取り戻し、その結果すべての物質から質量が失われることで、時空間そのものが破壊されたかのような現象が引き起こされた、ということで収めときましょうか。
実際に何が起こったか確かめることは出来ないでしょうが、もし時空間が破壊されたのだとしたら、破壊された時空間の開けた穴に周囲の時空間が雪崩れ込んで、物質そのものも時空間に引き摺られて大きく動いたはずです。西ナリス王国全土に地震の被害が及んだのも当然でしょうし、東ナリス皇国との国境が引き裂かれたのも当然でしょう。むしろ、それぐらいで済んだことの方が不思議ですよね。
破壊された時空間に向ってこの宇宙そのものが引き摺られて、下手をすれば地球はおろか太陽系すべての惑星の軌道が狂う、何てことが起こりかねない事態だったはずですから。
あの、スターキングのディスラプターのように」
「スターキング?ディスラプター?」
フランが訝しげに繰り返す。
ナーナは溜息をついた。
「結局、それかい」
「スターキングっていうのはですね、フランさん……」
「アキラ。要らないことは言わなくていいの」
ナーナが厳しくアキラを遮る。
アキラは乗り出していた体を後ろに戻し、「はいはい」と応えてしぶしぶ口を閉じた。




