エピローグ1
扉の向こうから返事があった。お入りと、声にならない声で。フランは扉を開き、ベッドの老女に声をかけた。
「ただいま戻りました。お母さま」
老女はフランが出かけた時と同じようにヘッドボードに体を預けて、穏やかに微笑んでいた。
「お疲れ様でした、フラン」
「いいえ」
フランはふと、妙な気配を感じて室内を見回した。少し冷気が残っていた。いや、瘴気と言った方がいいような暗い気配が。
「誰か、いらしてましたか?」
声を抑えてフランはそろりと訊いた。
「ええ。ラシャブがさっきまでいたのよ」
口にすればただでは済まないはずの惑乱の君の御名を、老女はさりげなく口にした。
「げ」
と思わず言ってから、フランは恥ずかしそうに腰を落とし、頭を下げた。
「失礼いたしました。お母さま」
「いいのですよ。西ナリス王国であの子に会ったのでしょう?今、あまりあなたをからかわないように叱っておきましたから、安心して頂戴。フラン」
フランは、はぁと溜息を落とした。
誰もが口にすることすら怖れる存在を、あの子と言って平然としている老女に、フランは今更ながらに感嘆するよりも呆れる想いだった。
「それでは、西ナリス王国で何があったか報告して貰えるかしら。フラン」
「はい、お母さま」
老女が既に全てを知っているのは、フランにも判っていた。しかし同時に、フランがどう感じたのか、フランの口から直接聞きたいのだともフランは理解していた。フランは老女の枕元に置かれた椅子に座り、西ナリス王国で起こったことを順序良く語った。
老女は黙ってフランの話を最後まで聞き、満足したように頷いた。
「判りました。お疲れ様でした、フラン。『完璧な世界』を破棄するだけで良しとしたあなたの考えを私も支持しますよ」
「ありがとうございます、お母さま」
「東ナリス皇国の方は、神官が一人、皇宮から追放されるようですね」
「一人だけですか?」
「ええ。でも、良いでしょう。それが彼らの判断であれば」
「はい」
「そういえば、リィが家に戻るなり文句を言っていましたね。あちらであなたに酷く苛められたって」
「あの子はいつも大袈裟なんです」
老女が笑う。
「そうね。わざわざ告げ口をするなんて、可愛い子ね」
「ええ」
笑顔で応えて、フランはふと、西ナリス王国で疑問に思ったことを思い出した。
「そういえば、お母さま」
「なにかしら」
「闇の御方たちは、今でも例の封印に囚われているのですよね。それなのになぜ、惑乱の君だけは自由に出歩くことが出来るのですか?」
「まぁ」
老女は短い驚きの声を上げると、口元を押さえて笑った。何を笑われているのか判らず、気分を害してフランはムッと顎を引いた。もちろん、老女が彼女の心の内を手に取るように理解しており、それをフランもよく知っているということを、二人は互いに了解していた。
「ごめんなさい。私が知っていて、貴女が知らないことがまだあるのだと思うと嬉しくなって。つい笑ってしまったの。許してね、フラン」
「いえ、別に、お母さまに謝っていただかなくても……」
グズグズとフランが言う。謝られたことがむしろ申し訳なかったが、一方で彼女の心の中にあった不快さは溶けるように消え去っていた。
老女がそのフランを見て優しく微笑む。
「あの子はね、二面性を持った神なの。だから封印の外にいるのよ」
「二面性……。つまり惑乱の君は、闇の属性だけでなく、光の属性も持たれているということですか?」
「そうよ。あの子の裏の顔は、狂気と混乱を司る神、惑乱者ラシャブ。では、あの子の表の顔がなんだか、フラン、判る?」
「いいえ。まさか、風神様、ではないですよね?」
「ええ、違うわ。あの子の表の顔はね、知恵を司る神、エアよ」
「ち、知恵の神……?!」
フランは驚きのあまりあんぐりと口を開いた。
そのあまりにも子供っぽい表情に、老女は再び、口元を押さえて楽しそうに笑った。その笑い声は室内に、いや、屋敷の隅々にまで、ゆるゆると沁み込んでいった。




