風神の神託2
風士候補生クロウが騒ぎに気づいたのは、彼の幼馴染であり、許嫁でもあるヒロと神殿前の露店を冷やかしている時だった。
肩が当たったとか当たらなかったとかいうよくある騒ぎだ。
いつもなら気にも留めないところだったが、一方の声が若い女性の声だったことが彼の足を止めさせた。
彼の傍らを歩いていたヒロが眉をしかめ、咎めるようにクロウを見上げた後、彼の視線を追って騒ぎに目をやった。
「えっ」
声を裏返してヒロが絶句する。
「どうした、ヒロ。あれ、知り合いか?」
クロウがあれ、と言ったのは、露店の店先で揉めている一群の中で男たちに囲まれている女性である。
フードで隠していたが、時折見える横顔は驚くほど美しかった。肌は健康的な薄い褐色だ。
クロウも彼女の顔に見覚えがあった。
美人の顔は忘れないんだけど、誰だったっけと考えていたクロウの腕を両手で掴んで、焦りのあまり声をつまずかせながらヒロが言った。
「何言ってんの、姫巫女様だよ、あれ!」
「ん?」
そう言われて、クロウは「ああ」と声を上げた。
一介の風士候補生に過ぎない彼が直接、姫巫女と顔を合わせる機会は皆無だ。ただ、1年に何回かある祭りの際に遠くから、豆粒ほどの姿を見たことがあった。
「ホントだ。何してんだろ、こんなところで」
普段は神殿にいるはずの姫巫女がこんなところにいるはずがないと思っているからか、周りの群衆も彼女に気づいた様子はない。
「何、暢気なこと言ってんの!絡まれてるんでしょ!早く助けて差し上げてよ、クロウ!」
神官見習という立場にあるからか、ひどく焦ってヒロが言う。
「はいはい」
めんどくさそうに応えたものの、野次馬をかき分け、クロウは「おい!」と男たちに向かって声をかけた。
男たちと姫巫女が振り返る。
服装からすぐに風士候補生と判るはずだったが、男達の表情に驚きの色はなかった。口々に「誰だ、テメェ」「引っ込んでな、若造!」と、想像力の欠片もないセリフを吐きながらクロウに歩み寄って来た。それだけで、彼らが選王会議の賑わいに釣られて王都に来た余所者と知れた。地元の人間であれば、風士候補生の制服を見て逃げ出さない者はいなかったからだ。
「その人の知り合いだ。オレで良ければ話を聞くぜ」
男達がクロウに詰め寄って来る。そのうちの一人が、何か喚きながら下から舐めるように彼の顔を見上げた。
クロウは黙って男の胸ぐらを掴み、いきなり殴り飛ばした。唾が飛んできた上に息が臭かったのである。
彼にすれば理由はそれで充分だった。
残った二人が怒りに顔を青ざめさせて刃物を抜く。
「おいおい。そんなモノを出したら死人が出ちゃうだろ?」
そう言いながらクロウは男達に歩み寄った。ヒロがこっそりと姫巫女に近づき、彼女を安全なところまで連れて下がるのを目の端で確認しながらである。
男達はクロウの圧力を受けて一歩は下がったものの、そこで踏み止まり、叫び声を上げてクロウに襲い掛かった。
「大丈夫ですか、姫巫女様」
「ええ」
姫巫女は助けてくれた少女を振り返った。
ヒロは神官見習いだ。あくまでも見習いで、神殿に勤めてはいるものの姫巫女であるミヤと直接会う機会はほとんどない。
しかし、元来記憶力の良いミヤは彼女の顔を覚えていた。
身長は160cm半ばだろう。赤い髪が鮮やかだ。神官見習になって確か3年目のはずだから17才になる娘だ。どれぐらい前だったかは忘れたが、今年入った神官見習の娘を、いずれ義理の妹になる子ですと、紹介された覚えがあった。
二人揃ってはきはきとした口調で、よく似た赤い髪とともに印象に残っていた。
「あなたは、確か、ヒロ、でしたね」
ヒロが驚きの表情を浮かべる。
「はい。姫巫女様に覚えていただいてたなんて、光栄です」
「そうすると、もしやあの方があなたの言われていた許嫁の方ですか?」
「はい。クロウといいます」
二人が目をやった先で、クロウが男の胸ぐらを掴んで低い声で何かを話し掛けていた。男は完全に戦意を失っており、残りの二人は地面にへたり込んで苦しげに呻いている。
「許嫁の方、なんて呼ばれるような良いモノじゃありませんけど。ただのオツムの軽い阿呆です」
クロウもまた、ヒロとよく似た赤い髪をしていた。おそらく彼ら一族の特徴なのだろうと思われた。身長は180cmを越えたぐらいか。良く体を鍛えているのが風士候補生の制服越しにもはっきりと見て取れた。
「ま、こういう時には役に立ちますけどね」
男達が捨て台詞を吐きながら足をよろめかせて逃げ去っていく。口汚くそれに応じてから、クロウは姫巫女とヒロに歩み寄った。
彼らを取り囲んでいた群衆も、もう終わりかと露店巡りの流れへと戻っていった。
「お怪我はありませんか、姫巫女様」
朗らかな笑みを浮かべてクロウが訊く。ただし、周囲には聞こえないよう小さな声で。つまりそういう気遣いが出来る人なのだと、ミヤは察した。
「はい。助かりました、クロウ殿」
「クロウ、と呼んでください。ドノなんて言われたらケツの穴が痒くなって仕方ないんで。改めてご挨拶申し上げます。風士候補生4回生のクロウと申します。宜しくお見知りおきください」
4回生ということは18才ということか、とミヤは了解した。
「こちらこそ。宜しくお願いします、クロウ」
「なぜこんなところにいらっしゃるんです?供か、警護の者はいないんですか?」
「主が一人で行っても良いとお許し下さいましたので、わたくし一人で神殿を出て参りました。
本当に助かりました。
主はわたくしの目を通してすべてをご覧になっておられますので、あのままだとあの方たちに主の禍が降りかかるところでした」
「ああ、じゃあオレは、姫巫女様じゃなくてあいつらを助けたってことですね。残念、風神様の禍ってヤツを見るチャンスを逃しちまったのか」
「それにしても、なぜお一人で?」
クロウの軽口に、彼を咎めるように睨んだ後、ヒロは訊ねた。姫巫女が柔らかな笑みを浮かべてヒロに顔を向ける。
「供や警護が一緒にいては形式ばったところにしか行かせて貰えませんから。人と触れ合うことも満足に許しては貰えませんし」
「確かに神殿にはしゃっちょこ張った連中しかいませんからね。コイツみたいに」
と、クロウがヒロを指差す。
「何、姫巫女様に馴れ馴れしい口を利いてんのよ!」
「いいのです。今のわたくしは姫巫女ではないと考えていただいた方が、主の御心にも叶いますから。こうして知り合うことができたのもきっと主のご意思なのでしょう。
もし宜しければ、お二人で街を案内していただけないでしょうか」
「いいですよ」
「もちろん喜んで。姫巫女様とご一緒できるなんて光栄です」
「じゃあ、どこに行きます?神殿にはないところの方がいいんですよね。娼館なんか如何ですか?いいとこ、知ってますよ」
「なっ!」
文句を言おうとしたヒロを、聞き覚えのある別の声が遮った。